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絶呪  作者: 蒼狐


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第八話 香る棺

葬儀社の別棟は、本館から石畳を五十歩ほど離れた場所に建っていた。


零がそこに到着したのは、午後の光がすでに長く伸び始める頃だった。白い壁は丁寧に塗り直されているが、窓の格子は古く、空気に微かな甘さが混じっている。依頼主である親族の男性から受け取った鍵を回すと、内部は思ったより清潔だった。安置室。中央に古い木製の香炉が置かれ、壁際に数基の棺が静かに並んでいる。床は磨き込まれ、照明は柔らかく調整されている。


なのに、呪脈視を開いた瞬間、零は息を止めた。


香炉から、甘い半透明の煙のような呪脈が、ゆっくりと立ち上っている。煙は部屋全体を満たし、零の肌に触れると優しく、ほとんど母性的な感触で包み込もうとしてきた。左腕の紋様が、低く応えるように疼いた。


「……また、か」


零は小さく呟き、香炉に近づいた。表面には細い花の彫刻が施され、底に古い灰が薄く残っている。戦前から使われているものだという。


午後のうちに、零は本館の奥にある小さな書庫で、記録を徹底的に調べた。古い台帳、手書きの日記、戦後にまとめられた社内文書。埃を払いながら頁をめくるうちに、呪いの起源が、予想以上に長く、痛々しい形で浮かび上がってきた。


---


昭和十六年の冬。


この別棟で働いていた女性がいた。名は「静」。当時二十三歳。葬儀社の遠縁で、身寄りが少なかった彼女は、ここで棺の準備や香の管理を担当していた。静かな性格で、誰に対しても丁寧に振る舞い、故人を送る作業を「最後の優しさ」だと心から信じていたという。


彼女には、婚約者がいた。隣町の青年で、名前は「健」。幼なじみで、静がこの仕事を選んだのも、健が「人の死を丁寧に扱えるお前が好きだ」と言ってくれたからだった。二人は来年には籍を入れる約束をしていた。健は静の仕事を理解し、時折別棟まで足を運んでは、香の調合を手伝ったり、静の手を握って「お前の香は、本当に安心する」と微笑んだりしていた。


だが、戦争がすべてを壊した。


健は召集され、満州へ送られた。出征の日、静は駅まで見送り、健の手に小さな香袋を握らせた。「これを持っていて。私がいつも傍にいると思えるように」。健は頷き、「必ず帰る。お前と、一緒に老いる」と約束した。


それから八ヶ月後。


戦死公報が届いた。健は、ある戦闘で行方不明の後、死亡と認定された。遺骨も遺品も戻ってこなかった。静は公報を握り締めたまま、別棟の安置室に三日間閉じ籠った。香を焚き続け、健の写真に向かって「帰ってきて」「一緒にいて」と繰り返し呟いたという。


周囲は静を心配したが、彼女は表向きには落ち着いて仕事を再開した。しかし、夜になると必ず安置室に入り、香炉に特別な香を焚いた。その香は、健が生前好んだ白檀と、静自身の髪を細かく刻んだものを混ぜたものだった。彼女は日記にこう記している。


『健がいない夜は、長すぎる。香を焚くと、少しだけ傍に感じられる。いつか私が死ぬときも、この香に包まれて、健のところへ行きたい。永遠に、一緒に眠りたい』


そして昭和十八年の初夏。


静は、普段より濃い香を大量に調合した。安置室のすべての棺の蓋を開け、中央の香炉に火を入れ、自ら一番奥の棺に入った。着物の袖に、健の写真と、出征前に渡した香袋を忍ばせていた。蓋を内側から引き、煙が充満する中で、彼女は目を閉じた。


発見されたのは翌日の朝だった。静は穏やかな表情で眠るようにして息を引き取っており、棺の中は甘い香で満たされていた。警察は「自殺」と処理し、葬儀社は表向きに「過労による病死」と発表した。しかし、別棟で働いていた者たちは皆、知っていた。静が「永遠に一緒に眠りたい」と願いながら、自らを香に捧げたことを。


その後、静の怨念は香炉に沈殿した。

最初は「安らかに眠らせてあげたい」という優しさだったものが、年月とともに歪み、「私と一緒にいて」「あなたも眠って」「孤独を終わらせて」という強い独占欲へと変質していった。甘い香は、触れた者の心の隙に入り込み、疲れた魂を優しく誘い、最終的に棺の中で永遠の眠りへ導くようになった。戦後、この部屋で変死した者は、記録に残っているだけでも七人。皆、死に顔は穏やかで、苦しんだ形跡はなかったという。


零は日記の最後の頁を閉じた。指先に、古い紙の感触が残る。呪いの核は、ただの怨念ではなかった。愛と喪失が、何十年もかけて発酵し、甘い毒に変わったものだった。


---


夜は、その甘い毒の残滓とともに深まった。


零は部屋の中央に座り、小さなランタンだけを灯していた。外は静かで、本館の明かりも遠い。時計が午前一時を回った頃、最初の変化が起きた。


香炉が、誰も触れていないのに、ゆっくりと煙を上げ始めた。


淡い白い煙が立ち上り、部屋に甘い香りが急速に広がる。白檀と、乾いた花と、どこか乳のような、複雑で誘う匂い。零の視界がわずかに暈け、体が内側から優しく緩められていく感覚がした。呪脈視を開くと、煙は半透明の糸のように零の体へ寄り添い、肌に染み込もうとしているのが見えた。


『……来てくれたのね』


声が、煙の中から優しく響く。女の姿が、ゆっくりと実体を帯びて現れた。長い髪を垂らし、白い薄い着物のようなものを纏い、表情は悲しみと慈愛に満ちている。静だ。彼女は零に近づき、煙とともに体を寄せた。


『疲れたでしょう。眠って。私と一緒に』


煙が首筋に触れる。冷たいのに、触れた瞬間に甘い熱が広がる。零の呼吸が浅くなった。感覚が過敏になりながらも、同時に脱力していく。煙が鎖骨を撫で、胸元へ沈み、布の上から優しく包み込む。次に腹へ、腰へ、太腿へと、ゆっくりと染み渡っていく。


『いい子……力を抜いて。楽にしてあげる。健も、待っているから』


煙が服の隙間から直接肌に入り込む。甘い感触が脇の下を這い、腰骨をなぞり、太腿の内側を満たす。零は低く吐息を漏らした。膝に力が入らなくなり、床に膝をつく。煙が首筋から胸元にかけて、新しい紋様を熱く反応させる。痛みはほとんどなく、ただ甘い麻痺と、奥底で疼く感覚だけが残る。理性が、香に溶けるように薄くなっていく。


『眠って。永遠に。私と一緒なら、もう寂しくない。あなたも、誰かを失っているでしょう?』


静の手が、零の頬に触れた。実体はないのに、温かく、柔らかい。煙がさらに深く染み込み、零の体を内側から優しく縛っていく。視界が甘く暈け、腰が小さく震えた。体の芯が疼き、下腹部に重い熱が沈む。このままでは、本当に眠ってしまう。


零は、煙に包まれたままの手で、香炉に触れた。


「……こっちが、覚ます」


呪喰を発動する。


黒い紋様が腕を伝い、香炉の核——香に封じられた静の深い悲しみと、歪んだ独占欲——に食い込んだ。女の悲鳴が、部屋に優しく、しかし高く響く。失った愛への渇望と、永遠に一緒に眠りたい執着が、甘い煙とともに零の体内へ逆流してくる。頭がくらくらし、首筋から胸元にかけて焼けるような熱が走る。新しい紋様が、柔らかく、複雑に浮かび上がっていく。


『返して……眠らせて……一緒に……健のところへ……』


零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第七話のときより、さらに制御が安定している。意識を大きく持っていかれずに、核を自分の内側へ沈めていく。香の残滓が体内に残り、体の感度が最大化されたまま、甘く疼き続ける。


空間が、煙とともに薄れていった。


---


気がつくと、零は床に座り込んでいた。


香炉の煙は消え、部屋に甘い匂いは残っていない。棺はただの木箱として静かに並んでいるだけだった。零はゆっくりと体を起こし、首筋に手を当てた。新しい紋様が、首から胸元にかけて熱を持っている。服の生地が触れるだけで、小さく身震いが走った。


「……また、少しだけ、うまくなった」


掠れた声が、静かな安置室に落ちた。


朝方、依頼主に簡単な報告をした。これ以上、香に誘われる者は出ないだろう、とだけ伝えて、零は別棟を後にした。


石畳を歩く途中、零は自分の体を確かめた。感覚はまだ香に包まれているように敏感で、歩くたびに衣服が肌を擦る感触が、甘く残っている。体内の奥で、絶呪が香の残滓に反応するように、はっきりと「包み込もうとする」ような低く強い脈を打つのを感じた。


「……あなたも、誰かに永遠に眠らされたままなのか」


問いかけに、答えはなかった。

ただ、コートのポケットに、香炉から落ちた古い香の欠片が一つ、静かに沈んでいた。

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