第十話 凍てつく抱擁
山道は、すでに冬の気配を帯びていた。
零が奥山の古い山小屋に到着したのは、午後の光が杉の木立に遮られ始める頃だった。昭和初期からあるという木造の小屋は、傾斜地にひっそりと建ち、屋根には苔が生え、窓は板で打ち付けられている部分もある。山岳会の関係者から受け取った鍵を回すと、内部は簡素で、中央に古い石造りの暖炉が鎮座していた。空気は冷たく、どこか甘い腐葉の匂いが混じっている。
呪脈視をそっと開く。
暖炉から冷たい白い霧のような呪脈が、ゆっくりと滲み出しているのが見えた。霧は床を這い、零の足元まで寄り、触れると鋭く冷たく、同時に甘く体を求めている感触があった。左腕の紋様が、低く応えるように疼く。
「……ここか」
零は小さく呟き、小屋の中を見渡した。簡素な寝台、折りたたみのテーブル、壁に掛かった古い登山用具。誰もいないはずなのに、空気がすでに零の体温を奪おうとしている。
午後のうちに、零は持参した資料と、小屋に残された古い日誌を調べた。
戦後まもなく、この小屋で暮らしていた夫婦がいた。夫は山仕事を、妻は小屋の管理をしていたという。ある冬、夫が吹雪の中で倒れ、小屋に運び込まれたときにはすでに息がなかった。妻は夫の体を暖炉の前に横たえ、自らもその隣に横になった。日誌の最後の頁には、震える文字でこう記されている。
『あなたを一人にしない。一緒に冷たくなってもいい。私があなたの温もりになるから』
妻は夫の体を抱きしめたまま、凍死した。その後、この小屋では「誰かが冷たい腕で抱きしめてくる」「温もりを求めて近づくと、かえって凍える」と訴える者が増え、最終的に抱き締められたような痕跡を残して凍死した状態で発見される事件が続いた。妻の怨念が冷気に宿り、「温もりを奪ってでも、一緒にいたい」という執着に変わったのだと、関係者は薄々感じていた。
零は日誌を閉じ、夜を待つことにした。
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夜は、山の冷気とともに深まった。
零は寝台に座り、小さなランタンだけを灯していた。外は風の音だけで、人の気配はない。時計が午前一時を回った頃、最初の変化が起きた。
暖炉が、誰も火を入れていないのに、冷気を放ち始めた。
白い霧がゆっくりと立ち上り、部屋の温度が急激に下がる。零の吐息が白くなり、肌が粟立つ。霧は意思を持ったように零の体へ寄り添い、まず足首に冷たい感触を伝えた。
『……一緒に、冷たくなろう』
声が、霧の中から優しく響く。女の姿が、ゆっくりと実体を帯びて現れた。長い髪を湿ったように垂らし、古い仕事着のようなものを纏い、表情は悲しみと慈愛に満ちている。妻だ。彼女は零に近づき、冷たい腕を伸ばした。
『一人は寂しいでしょう。私が抱きしめてあげる』
冷たい腕が首筋に回る。鋭い冷気が肌に染み込み、同時に甘い脱力感が広がる。零の呼吸が浅くなった。感覚が過敏になりながらも、体温が徐々に奪われていく。腕が鎖骨を撫で、胸元を優しく包み、次に腰へ、太腿へと回っていく。
『いい子……力を抜いて。私の温もりにして』
冷気が服の隙間から直接肌に入り込む。冷たい感触が脇の下を這い、腰骨をなぞり、太腿の内側をゆっくりと満たす。零は低く吐息を漏らした。膝に力が入らなくなり、寝台から半ば滑るようにして床に膝をつく。冷気が胸元から腕にかけて、新しい紋様を熱く反応させる。痛みはほとんどなく、ただ甘い麻痺と、奥底で疼く感覚だけが残る。理性が、冷気に溶けるように薄くなっていく。
『一緒に冷たくなろう。そうすれば、もう寂しくない。あなたも、誰かを失っているでしょう?』
女の額が、零の額に寄り添った。冷たい髪が頰に触れ、腕がさらに強く零を抱き締める。視界が白く暈け、腰が小さく震えた。体の芯が疼き、下腹部に重い熱が沈む——なのに、体全体は冷え続けている。このままでは、本当に凍えてしまう。
零は、冷たい抱擁を受けたままの手で、暖炉に触れた。
「……こっちが、溶かす」
呪喰を発動する。
黒い紋様が腕を伝い、暖炉の核——冷気に封じられた妻の悲しみと独占欲——に食い込んだ。女の悲鳴が、小屋に優しく、しかし高く響く。失った夫への渇望と、温もりを奪ってでも一緒にいたい執着が、冷たい霧とともに零の体内へ逆流してくる。頭がくらくらし、胸元から腕にかけて焼けるような熱が走る。新しい紋様が、鋭く、複雑に浮かび上がっていく。
『返して……抱きしめて……一緒に……冷たく……』
零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第九話のときより、さらに制御が安定している。意識を大きく持っていかれずに、核を自分の内側へ沈めていく。冷気の残滓が体内に残り、体の感度が最大化されたまま、甘く疼き続ける。
空間が、霧とともに薄れていった。
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気がつくと、零は床に座り込んでいた。
暖炉の冷気は消え、部屋の温度は徐々に戻っていた。零はゆっくりと体を起こし、胸元に手を当てた。新しい紋様が、胸から腕にかけて熱を持っている。服の生地が触れるだけで、小さく身震いが走った。
「……また、少しだけ、うまくなった」
掠れた声が、静かな小屋に落ちた。
朝方、山岳会の関係者に簡易的な報告をした。これ以上、冷気に蝕まれる者は出ないだろう、とだけ伝えて、零は小屋を後にした。
山道を下る途中、零は自分の体を確かめた。感覚はまだ冷たい腕に触れられているように敏感で、歩くたびに衣服が肌を擦る感触が、甘く残っている。体内の奥で、絶呪が冷気の残滓に反応するように、はっきりと「抱きしめようとする」ような低く強い脈を打つのを感じた。
「……あなたも、誰かに冷たく抱きしめられたままなのか」
問いかけに、答えはなかった。
ただ、コートのポケットに、暖炉から落ちた古い金属の破片が一つ、静かに沈んでいた。




