第十一話 錆びた約束
港町の空気は、潮と錆でできていた。
零が廃倉庫の前に立ったのは、午後の光がすでに低く傾き始める頃だった。過疎化した海岸沿いに、木造と鉄骨が混じった大きな倉庫が半壊状態で残っている。屋根は所々崩れ、壁には潮風が抉った穴が開き、床には錆びた鉄の破片が散らばっていた。元倉庫管理者から受け取った鍵は、すでに錠が壊れていて、引き戸は簡単に開いた。
中に足を踏み入れると、空気が一気に重くなった。
呪脈視をそっと開く。奥に山と積まれた古い鉄鎖から、赤い錆のような呪脈がゆっくりと滲み出しているのが見えた。錆は床を這い、零の足元まで寄り、触れると熱く、同時に甘く体を縛ろうとする感触があった。左腕の紋様が、低く応えるように疼く。
「……ここか」
零は小さく呟き、倉庫の奥へ進んだ。鉄鎖は何十年も放置されたように赤く腐食し、一部は床に溶け込むほどに朽ちている。その傍らに、防水布に包まれた古い木箱があった。中を開けると、黄ばんだ手紙の束と、小さな錆びた指輪が一つ、出てきた。
午後のうちに、零は持参した資料と、町の古老から聞いた話を照合した。
戦後まもなく、この倉庫で働いていた男がいた。名は「徹」。港の荷役をしながら、隣町の女と交際していた。女の名は「ゆき」。二人は「必ず帰る」「待っている」と約束を交わし、徹は指輪をゆきに渡していた。だが、ある嵐の夜、徹は倉庫の整理中に事故に遭い、足を大きく負傷した。入院が長引き、ゆきのもとへ帰れなくなった。手紙は届かず、ゆきは「捨てられた」と思い込んで町を出たという。
徹は退院後、ゆきの消息を追い続けたが、見つからなかった。自責の念に駆られた彼は、倉庫の鉄鎖に自らを繋ぎ、「約束を果たせなかった自分を、永遠に縛りたい」と遺言を残して死んだ。体は錆にまみれて発見された。その後、この倉庫では「誰かが錆びた腕で掴んでくる」「約束を思い出せ」と訴える者が増え、最終的に体に赤い斑紋を浮かべ、硬直した状態で変死する事件が続いた。徹の怨念が錆と鎖に宿り、「約束を守れ」「私を待っていて」という執着に変わったのだと、町の人間は薄々感じていた。
零は手紙の一通を手に取った。震える文字で、『ゆきへ。必ず帰る。待っていてくれ』と繰り返されていた。呪いの核は、果たせなかった約束への後悔と、誰かを永遠に縛りつけてでも待ち続けたいという歪んだ願いだった。
夜を待った。
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夜は、潮の音と錆の匂いとともに深まった。
零は鉄鎖の山の前に座り、小さなランタンだけを灯していた。外は波の音だけで、人の気配はない。時計が午前一時を回った頃、最初の変化が起きた。
鉄鎖が、誰も触れていないのに、ゆっくりと動き始めた。
カチャリ、カチャリ、と鈍い音。同時に、赤い錆の霧が宙に舞い上がる。霧は零の方へ伸び、まずは手首に絡みついた。熱い。なのに、触れた瞬間に甘い引き込み感が広がる。零が身じろぎすると、鎖はさらに上へ、腕へ、肩へとのぼってきた。
『……約束を、守れ』
声が、鎖を伝って直接聞こえる。男の姿が、錆の霧の向こうにゆっくりと現れた。半透明で、作業着を着て、手元に錆びた鎖を握っている。顔は後悔と執着で歪み、瞳だけが暗く光っていた。
『待っていてくれ。私から、離れるな』
鎖が服の上から胸元を横切り、鎖骨を熱く巻き付ける。次に背中へ回り、腰をゆっくりと絡めていく。零の呼吸が乱れた。感覚が急激に過敏になり、鎖が肌に触れるたびに、熱い締め付けと甘い疼きが同時に走った。膝に力が入らなくなり、床に膝をつく。
『いい子……そのまま、動かないで』
『鎖で縛って、永遠に待たせてあげる』
鎖が服の隙間から滑り込み、直接肌に触れる。熱い感触が脇腹を這い、腰骨をなぞり、太腿の内側をゆっくりと巻き付けていく。零は低く吐息を漏らした。手首から腕にかけて、新しい紋様が熱く反応する。鎖が何本も絡みつき、硬直させるような圧迫感が強くなる。痛みと、それに近接した甘い脱力感。理性が、鎖に絡め取られるように薄くなっていく。
『約束を守れ。私のもの。待っていてくれれば、もう寂しくない』
男が近づき、零の頬に熱い手を当てた。鎖が首筋を優しく、しかし確実に締め、鎖骨のくぼみに沈む。零の視界が少し暈け、腰が小さく震えた。このままでは、本当に錆に縛られてしまう。
零は、鎖に絡め取られたままの手で、鉄鎖の山に触れた。
「……こっちが、ほどく」
呪喰を発動する。
黒い紋様が腕を伝い、鎖の核——錆に封じられた男の後悔と独占欲——に食い込んだ。男の悲鳴が、倉庫に低く、しかし高く響く。果たせなかった約束への自責と、永遠に縛りつけたい執着が、赤い錆とともに零の体内へ逆流してくる。頭が真っ白になり、手首から腕にかけて焼けるような熱が走る。新しい紋様が、鋭く、複雑に浮かび上がっていく。
『返して……待っていて……約束を……』
零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第十話のときより、さらに制御が安定している。意識を大きく持っていかれずに、核を自分の内側へ沈めていく。錆の残滓が体内に残り、体の感度が最大化されたまま、甘く疼き続ける。
空間が、錆とともに薄れていった。
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気がつくと、零は床に座り込んでいた。
鉄鎖はすべて静止し、赤い錆の気配は消えていた。倉庫に、もう異様な熱はない。零はゆっくりと体を起こし、手首に手を当てた。新しい紋様が、手首から腕にかけて熱を持っている。服の生地が触れるだけで、小さく身震いが走った。
「……また、少しだけ、うまくなった」
掠れた声が、静かな倉庫に落ちた。
朝方、元管理者に簡易的な報告をした。これ以上、錆に蝕まれる者は出ないだろう、とだけ伝えて、零は倉庫を後にした。
港町を抜ける道で、零は自分の体を確かめた。感覚はまだ鎖に触れられているように敏感で、歩くたびに衣服が肌を擦る感触が、甘く残っている。体内の奥で、絶呪が錆の残滓に反応するように、はっきりと「縛りつけようとする」ような低く強い脈を打つのを感じた。
「……あなたも、誰かとの約束に縛られたままなのか」
問いかけに、答えはなかった。
ただ、コートのポケットに、鉄鎖から落ちた古い錆びた指輪が一つ、静かに沈んでいた。




