第六話 縫い止められた夜
商店街のアーケードは、すでに大半の店がシャッターを下ろしていた。
零が目的の洋裁店の前に立ったのは、夕方近い時刻だった。『松井洋装店』。昭和から続く個人店で、小さなショーウィンドウには古いマヌカンが一体制服を着せて飾られている。ガラスはくすみ、中の照明は温かみのある橙色だった。依頼主から送られてきた鍵と、簡単な説明書きを確認し、零は引き戸を開けた。
「失礼します」
中は狭く、壁一面に色とりどりの生地が棚に並び、カウンターの奥に古い足踏みミシンが鎮座していた。木の香と、布特有のほこりっぽい匂いが混じる。現店主の松井は、すでに店を閉めて待っていた。四十代の女性で、目元に深い隈がある。
「来てくださって……本当に助かります。もう、誰にもまともに話を聞いてもらえなくて」
零は軽く会釈し、店内を見渡した。呪脈視をそっと開く。ミシンから細い赤い糸のような呪脈が何本も伸び、天井や壁、床を網の目のように張り巡らされているのが見えた。糸は零の足元まで寄り、触れると冷たく、同時に甘く肌に絡みつこうとする感触があった。
「失踪した方々は、皆このミシンに関わったのですか?」
松井は頷いた。
「ええ。客として特注の服を頼んだ子、手伝いに来てくれた短大生、それから……私の従妹も。皆、ミシンの近くで長く過ごした後からおかしくなりました。体に赤い糸のような跡が浮いて、『夜中に縫われている』『体を止められる』と訴えて……。最後は衰弱して、いなくなりました。警察は病気や自殺で処理しています」
零はミシンに近づいた。黒い塗装は所々剥げ、フットペダルには古い摩耗の跡がある。指を近づけると、赤い糸が微かに震え、零の指先に絡みつこうとした。左腕の紋様が、低く応えるように疼く。
「このミシンに、何かあったのですか?」
松井は少し躊躇してから、声を落とした。
「戦前の話です。この店の先代の職人の妻が……夫の不倫を知って、自らをミシンで縫い止めようとしたそうです。『あなたを私から離さない』『体を縫い合わせて、永遠に繋ぎ止める』と願いながら、糸と一緒に自分の命を縫い込んだ、という……。残酷な話ですが、店の人間は皆、薄々知っていました」
零は糸の感触を確かめるように、そっと手を引いた。呪いの核は、このミシンに凝縮されている。
「今夜、ここに泊まります」
松井は反対しなかった。ただ、鍵を渡す手が微かに震えていた。
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夜は、布の匂いの中で静かに深まった。
零はカウンターの椅子に座り、小さなランタンだけを灯していた。店内は外の街灯の光が届かず、暗い。時計が午前零時を回った頃、最初の変化が起きた。
ミシンが、誰も踏んでいないのに、ゆっくりと動き始めた。
カシャン、カシャン、と規則正しい音。同時に、赤い糸が宙に舞い上がる。糸は意思を持ったように零の方へ伸び、足首に絡みついた。冷たい。なのに、触れた瞬間に甘い引き込み感が広がる。零が身じろぎすると、糸はさらに上へ、ふくらはぎへ、膝へとのぼってきた。
『……離さない』
声が、糸を伝って直接聞こえる。女の姿が、ミシンの向こうにゆっくりと現れた。半透明で、古い洋装を着て、手元に赤い糸を握っている。顔は悲しみと執着で歪み、瞳だけが暗く光っていた。
『縫い止めてあげる。あなたを、私から離さない』
糸が服の上から胸元を横切り、鎖骨を締め付ける。次に背中へ回り、腰をゆっくりと巻いていく。零の呼吸が乱れた。感覚が急激に過敏になり、糸が肌に食い込むたびに、痛みと甘い疼きが同時に走った。膝に力が入らなくなり、椅子から半ば落ちるようにして床に膝をつく。
『いい子……そのまま、動かないで』
『体を縫い合わせて、永遠に繋ぎ止めてあげる』
糸が服の隙間から滑り込み、直接肌に触れる。冷たい感触が脇腹を這い、腰骨をなぞり、太腿の内側をゆっくりと締め上げた。零は低く吐息を漏らした。背中が熱を持ち、新しい紋様が反応するように疼く。糸が背中から腰にかけて何本も絡みつき、縫い付けるような圧迫感が強くなる。痛みと、それに近接した甘い脱力感。理性が、糸に絡め取られるように薄くなっていく。
『離さない。私のもの。縫い止めたら、もう誰にも渡さない』
女が近づき、零の頬に冷たい手を当てた。糸が首筋を優しく、しかし確実に締め、鎖骨のくぼみに沈む。零の視界が少し暈け、腰が小さく震えた。このままでは、本当に縫い止められてしまう。
零は、糸に絡め取られたままの手で、ミシンの本体に触れた。
「……こっちが、ほどく」
呪喰を発動する。
黒い紋様が腕を伝い、ミシンの核——糸に封じられた女の悲しみと独占欲——に食い込んだ。女の悲鳴が、店内に高く響く。裏切られた怒りと、体を縫い合わせて離したくない執着が、赤い糸とともに零の体内へ逆流してくる。頭が真っ白になり、背中から腰にかけて焼けるような熱が走る。新しい紋様が、細長く、複雑に浮かび上がっていく。
『返して……離さないで……縫い止めて……』
零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第五話のときより、さらに制御が安定している。意識を大きく持っていかれずに、核を自分の内側へ沈めていく。糸の感触が体内に残り、体の感度が最大化されたまま、甘く疼き続ける。
空間が、ミシンの音とともに弾けた。
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気がつくと、零は床に座り込んでいた。
ミシンは止まり、赤い糸はすべて消えていた。店内に、もう呪脈の気配はない。零はゆっくりと体を起こし、背中に手を回した。新しい紋様が、背中から腰にかけて細長く熱を持っている。服の生地が触れるだけで、小さく身震いが走った。
「……また、少しだけ、うまくなった」
掠れた声が、静かな店に落ちた。
朝方、松井に簡単な報告をした。これ以上、糸に縫い止められる者は出ないだろう、とだけ伝えて、零は店を後にした。
商店街を抜ける道で、零は自分の体を確かめた。感覚はまだ糸に触れられているように敏感で、歩くたびに衣服が肌を擦る感触が、甘く残っている。体内の奥で、絶呪が糸の残滓に反応するように、はっきりと「繋ぎ止めよう」とするような低く強い脈を打つのを感じた。
「……あなたも、誰かに縫い止められたままなのか」
問いかけに、答えはなかった。
ただ、コートのポケットに、ミシンから外れた古い赤い糸が一筋、静かに沈んでいた。




