第五話 硝子の囁き
海の匂いが、風に乗って町全体を包んでいた。
零が降りた駅は、小さな海岸沿いの町の、ほとんど無人に近いホームだった。午後の光が斜めに差し、錆びた手すりに白い塩が吹いている。依頼主から送られてきた地図を頼りに、零は緩やかな坂を上った。古い商店街を抜け、路地を二本曲がると、目的のガラス工房が見えた。
『浜崎硝子』。
昭和初期から続く個人工房で、白い壁は潮風に抉られ、看板の文字も所々欠けている。炉のある作業場はすでに冷えて静かだった。玄関の引き戸を開けると、硝子特有の、澄んでいてどこか鋭い匂いが鼻を突いた。棚には様々な器やランプが並び、窓から差し込む光を受けて、淡く色を散らしている。
出迎えたのは、四十代半ばの女性だった。依頼主の姪で、工房を継ぐ予定だったという浜崎恵。目元に疲れが濃く、声は小さかった。
「来てくださって……ありがとうございます。伯父はもう、ここを閉じると言っています。職人たちが三人も、あのような終わり方をした後で……」
零は軽く会釈し、工房の奥を見渡した。呪脈視をそっと開く。完成した硝子細工の表面から、半透明の細い波動が、波紋のように揺れているのが見えた。特に、作業台の端に置かれた赤い花紋のランプから、強い波動が立ち上っている。波動は零の耳に触れ、ほとんど聞こえないほどの、甘い囁きを運んできた。
「……声が、するんですか?」
恵は顔を強張らせて頷いた。
「はい。職人たちも、最初は『綺麗な声が聞こえる』と言っていました。だんだん『こっちへ来て』『私だけを見て』と誘われるようになり……最後は、窓から落ちたり、硝子の破片に囲まれて……。警察は自殺か事故だとしか言ってくれません」
零は赤いランプに近づいた。表面には細かい花の紋様が彫られ、光を通すと内側がほんのり赤く見える。指を近づけると、波動が強くなり、耳の奥で直接、女の声が響いた。
『……聞いて』
小さく、優しく、しかし執着に満ちた声。零の左腕の紋様が、微かに応えるように疼いた。
「このランプが、最後に作られたものですか?」
「ええ。伯父が亡くなる直前に完成させたもので……。伯父は『これを作っているとき、誰かの声が聞こえた』と漏らしていました。戦前の話ですが、この工房の職人の恋人が、失恋の末に自分の血と声を硝子に封じて死んだという伝承があります。『永遠に私の声を聞いてほしい』『私の元へ来て』と願いながら……」
恵の声が震えた。零はランプから少し離れ、工房全体を見渡した。波動はランプを中心に、他の硝子細工にも細く繋がっている。呪いの核は、この赤いランプに凝縮されているようだった。
「今夜、ここに泊まります」
恵は強く反対しなかった。ただ、鍵を渡す手が冷たく震えていた。
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夜が、海の音とともに深まった。
零は作業台の前に座り、ランタンの灯だけを頼りにしていた。外は潮風が強く、窓ガラスが時折小さく鳴る。時計が午前零時を回った頃、最初の変化が起きた。
赤い花紋のランプが、誰も触れていないのに、ゆっくりと点灯した。
淡い赤い光が部屋を染め、棚の硝子細工が一斉に微かな振動を始める。音はしない。なのに、鼓膜に直接、甘い囁きが流れ込んできた。
『……来てくれたのね』
『私の声、聞こえる?』
『こっちへ来て。私だけを見て』
声は優しく、丁寧で、しかし拒否を許さない強さを持っていた。零が呪脈視を開くと、半透明の波動が部屋中に広がり、硝子の破片が宙に浮き始めるのが見えた。破片はゆっくりと零を取り囲み、光を反射して赤い軌跡を描く。
女の姿が、ランプの光の中に現れた。
半透明で、長い髪を湿ったように垂らし、白い薄い着物のようなものを纏っている。顔はぼんやりとしているが、唇だけがはっきりと動き、囁きを紡いでいた。女が近づく。声が、零の耳から首筋へと、物理的に流れるように感じられた。
『聞いて。私の声だけを聞いて』
囁きが肌に触れる。耳の後ろを撫で、首筋をゆっくりと滑り、鎖骨のくぼみに沈む。振動が体の奥にまで響き、零の呼吸が乱れた。感覚が急激に過敏になる。服の生地が肌に擦れる感触さえも、必要以上に鮮やかだった。
『体を預けて。声に身を任せて』
女の手が、零の頬に触れた。実体はないのに、冷たく、柔らかい感触がある。同時に、声の波動が胸元へと流れ落ち、布の上から乳首を優しく震わせるように刺激した。零は低く吐息を漏らした。膝に力が入らなくなり、作業台の縁に手をついて体を支える。
硝子の破片が、服の上からゆっくりと肌を滑る。鋭くはない。むしろ、なめらかで、冷たくて、甘い。破片の感触と、声による内側からの振動が重なり、痛みと快楽の境が曖昧になっていく。腰が小さく震え、太腿が内側に閉じた。
『いい子……そのまま、聞いていて』
『私の元へ来て。永遠に、私の声だけを』
女の唇が、零の耳に重なった。囁きが直接、鼓膜の内側に流れ込む。頭がくらくらし、視界が赤い光で明滅する。体の芯が疼き、下腹部に重い熱が沈んだ。理性が、甘い霧でゆっくりと溶かされていく。このままでは、声に飲み込まれてしまう。
零は、震える指で赤いランプに手を伸ばした。
「……聞こえてる。だから、こっちへ来い」
呪喰を発動する。
黒い紋様が腕を伝い、ランプの核——硝子に封じられた女の声と血の残滓——に食い込んだ。女の悲鳴が、部屋中に高く響く。見捨てられた悲しみと、声で永遠に縛りたい独占欲が、激しい波動とともに零の体内へ逆流してくる。頭が真っ白になり、鼓膜が痛みと甘い振動で埋め尽くされる。首筋から鎖骨にかけて、新しい紋様が焼けるように浮かび上がった。
『返して……聞いて……私の声を……』
零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第四話のときより、さらに制御が安定している。意識を大きく持っていかれずに、核を自分の内側へ沈めていく。声の残滓が耳の奥に残り、体の感度が最大化されたまま、甘く疼き続ける。
空間が、赤い光とともに弾けた。
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気がつくと、零は作業台の前に跪いていた。
ランプの光は消え、硝子細工はすべて元の位置に戻っている。部屋に囁きはない。ただ、耳の奥に、微かな残滓が残っていた。零はゆっくりと体を起こし、首筋に触れた。新しい紋様が、細く、熱く、脈を打っている。指先が触れただけで、小さく身震いが走った。
「……また、少しだけ、うまくなった」
掠れた声が、静かな工房に落ちた。
朝方、恵に簡単な報告をした。これ以上、声に誘われる者は出ないだろう、とだけ伝えて、零は工房を後にした。
海沿いの道を駅へ向かう途中、零は自分の体を確かめた。耳の奥に残る囁きの残滓が、時折甘く疼き、首筋の紋様に触れるたびに感覚が過敏に反応する。体内の奥で、絶呪が声の残滓に呼応するように、はっきりと低く脈を打つのを感じた。
「……あなたも、誰かに呼ばれたままなのか」
問いかけに、答えはなかった。
ただ、コートのポケットに、ランプから剥がれ落ちた小さな硝子の破片が、冷たく沈んでいた。




