第四話 溺れる部屋
雨の残る路面を、零は一人で歩いていた。
下町の狭い路地を抜けた先に、目的の木造アパートは建っていた。築五十年を超えるという建物は、壁の塗装が剥げ落ち、二階のベランダには錆びた物干し竿が傾いている。管理会社の担当者から受け取った鍵は、冷たく湿っていた。「内覧」という名目で渡されたものだ。誰も住みたがらない部屋。過去三年で四人が、この一室で「溺れたように」死んでいる。
二階の角部屋。番号は「205」。
鍵を回すと、古い木の匂いと、どこか甘い水気の混じった空気が流れ出してきた。六畳の和室に、小さなキッチンとユニットバス。壁紙は所々膨らみ、窓の外は隣家の壁が迫っている。床は乾いている。なのに、零の視界には、床下からゆっくりと滲み出す透明に近い黒い流れが見えた。
呪脈視。
流れは零の足元まで寄り、足首を撫でるように絡みついてくる。冷たい。同時に、どこか甘い引力があった。左腕の紋様が、低く応えるように疼いた。
「……また、か」
零は小さく呟き、窓を開けた。路地の湿った風が入ってくる。部屋の隅に、古い染みのような跡が残っている。警察の記録では、犠牲者は皆、床にうつ伏せ、口から泡を吹き、肺に水が溜まった状態で発見されたという。室内に水の痕跡はほとんどなかった。
午後、零は近所を歩いて話を聞いた。
同じアパートの住人はほとんどが高齢者で、「夜中に水の音がする」「誰かが浴槽で泳いでいるような音がする」と口を揃えた。路地の突き当たりにある小さな商店の老主人が、ぽつりと教えてくれた。
「戦後間もなく、あそこに井戸があったんだよ。若い女が落ちて死んだ。恋人と心中するはずが、男だけが逃げたとか……。女は井戸の中で、ずっと男を待ってたらしい。『一緒に沈もう』って、今でも呼んでるって噂さ」
零は礼を言って部屋に戻った。床下を調べると、確かに古い井戸の石組みの一部が残っていた。呪いの核は、そこに沈んでいる。
夜を待った。
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時計が午前一時を回った頃、最初の音が聞こえた。
床下から、ゆっくりと水が揺れる音。ぽちゃ、ぽちゃ、と規則正しい。零は部屋の中央に座り、呪脈視を開いた。黒い水の流れが急に活性を帯び、床を突き破るようにして滲み出してくる。実際に靴下が濡れるわけではない。だが、感覚は確かに水に浸かったように冷たく、重かった。
水位が上がってくる。
足首まで。ふくらはぎまで。膝まで。水は透明で、なのに視界を少しずつ歪ませる。壁から天井から、水が滴り落ち、部屋全体がゆっくりと水没していくように見えた。そして水面から、女の姿が浮かび上がった。
長い髪が水に溶け、顔は青白く、瞳だけが暗い。白い着物のようなものが体に張り付き、胸元が大きく開いている。女は零を見て、ゆっくりと微笑んだ。
「……来てくれた。一緒に、沈もう」
声は水の中で響くように、直接頭蓋に届く。女の手が水面を划り、零の足首に触れた。冷たい指先。なのに触れた瞬間、熱が内側に広がる。零の呼吸が、わずかに乱れた。
「拒まないで。あなたも、一人でしょう? 沈んでしまえば、何も考えなくて済む」
手が上がってくる。ふくらはぎを撫で、膝の裏を滑り、太腿の内側へと這う。衣服の生地を通してでも、水の感触が直接肌にまとわりつくように感じられた。零は歯を食いしばったが、吐息が漏れるのを止められなかった。水位が腰まで達する。水圧のような圧迫感が体を包み、同時に甘い脱力感が下腹部に沈んでいく。
「いい子……そのまま、力を抜いて」
女の体が零に密着した。冷たい胸が零の背中に押し当てられ、髪が首筋に絡みつく。唇が耳のすぐ後ろに落ち、水気を含んだ吐息が吹きかけられる。零の感覚が急激に過敏になった。服の布地が肌を擦る感触、水の揺らぎ、女の指が腰骨をなぞる動き——すべてが過剰に感じられる。膝から力が抜け、零は水面に膝をついた。
「あっ……」
小さな声が、水に溶ける。女の手が服の裾から滑り込み、直接、腰の横を撫でた。新しい紋様が熱く反応する。痛みと、それに近接した甘い疼きが、脊髄を駆け上った。理性が、水に溶けるように薄くなっていく。
「沈んで。私のところへ。そうすれば、もう寂しくない」
水位が胸元まで達した。零の呼吸は浅く、早くなっている。女の唇が首筋に吸い付き、熱と冷気が同時に流れ込んでくる。体が熱を持ち、なのに水に浸かっているような錯覚が強くなる。腰が小さく震え、太腿が内側に閉じた。このままでは、本当に沈む。
零は、震える手で女の手首を掴んだ。
「……こっちが、沈める」
呪喰を発動する。
黒い紋様が腕を伝い、水面下の核——井戸の底に沈む怨念の塊——に食い込んだ。女の悲鳴が水中で響く。裏切られた悲しみと、誰かを道連れにしたい独占欲が、濁った水とともに零の体内へ逆流してくる。頭が真っ白になり、視界が水の揺らぎで歪む。体中の感覚が最大化され、女の手が肌を這う感触も、水圧も、すべてが快楽に近い痛みとして襲ってきた。
「返して……一緒に……沈んで……」
零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第三話のときより、わずかに制御が利いている。意識を完全に持っていかれずに、核を自分の内側へ押し込める。太腿の内側から腰にかけて、新しい紋様が焼けるように浮かび上がる。熱い。甘い。痛い。水の感触が、体内に残渣として残る。
空間が弾けた。
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気がつくと、零は和室の畳に膝をついていた。
部屋は乾いている。水の気配は、完全に消えていた。窓の外で、路地の街灯がぼんやりと光っている。零はゆっくりと体を起こした。服は濡れていない。なのに、肌は水に浸かった後のように敏感で、布地が触れるたびに小さく身震いが走った。太腿の内側の新しい紋様に指を這わせると、まだ熱く、触れただけで腰が微かに震えた。
「……また、少しだけ、うまくなった」
掠れた声が、静かな部屋に落ちた。
朝方、管理会社の担当者に簡易的な報告をした。これ以上の変死は起きないだろう、とだけ伝えて、零はアパートを後にした。
駅へ向かう道で、零は自分の体を確かめた。感覚はまだ水の中にいるように過敏で、歩くたびに衣服が肌を擦る感触が、甘く残っている。体内の奥で、絶呪が水の残滓に反応するように、はっきりと低く脈を打つのを感じた。
「……あなたも、誰かを沈めたままなのか」
問いかけに、答えはなかった。
ただ、コートのポケットに、床下から拾ってしまった古い髪留めが、冷たく沈んでいた。




