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絶呪  作者: 蒼狐


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第二話 人形の夜遊び

山気が一晩で肌に染みた。


綾瀬零が乗り継いだバスを降りたのは、午後の光がすでに斜めに差し始める頃だった。停留所の名前は「朽木峠」。舗装の剥がれた道が、杉の木立の間を細く続いている。空気は冷たく、湿った土と腐葉の匂いが濃かった。過疎の集落は、地図で見るよりさらに静かだった。家々の屋根は苔に覆われ、窓の何枚かは板で打ち付けられている。遠くで鴉が鳴いたきり、人の気配がない。


郷土史家の男から受け取った手書きの地図を頼りに、零は十五分ほど歩いた。目的の古民家は、集落のいちばん奥、山の斜面にへばりつくように建っていた。茅葺きをトタンで覆った屋根、傾いた縁側、庭には誰も手入れしていない紫陽花が、色を失ったまま残っている。門扉は開いたままだった。錆びた蝶番が、風のないのに微かに軋んだ。


「……綾瀬さん、ですか」


縁側から顔を出したのは、五十代ほどの男だった。依頼主の郷土史家・藤村。眼鏡の奥の目は血走り、頬はこけている。


「来てくれて、本当に……ありがとう。もう、誰もまともに話を聞いてくれなくて」


零は軽く会釈だけを返した。黒いコートの裾を払い、縁側に上がる。畳は湿気で柔らかく沈んだ。居間には古い茶箪笥と、埃を被った写真立てが並んでいる。藤村は湯を沸かしながら、声を低くして話し始めた。


「消えたのは三人。皆、二十代の女性です。一人目は私の遠縁の娘で、二ヶ月前。二人目は近所に越してきた子。三人目は、調査に来た大学の学生でした。共通しているのは……蔵の人形です」


零は茶を受け取らず、ただ聞いていた。左腕の紋様が、家に入った瞬間から微かに疼いている。呪脈視をそっと開くと、床下から天井まで、細い黒い糸が何本も張り巡らされているのが見えた。糸はすべて、家の裏手——蔵の方へと収束している。


「人形を見せてください」


藤村は頷き、鍵束を手に立ち上がった。


蔵は、主屋から石畳を十歩ほど行った場所にあった。土壁はひび割れ、扉の木目は黒ずんでいる。鍵を開ける音が、山気の中で必要以上に大きく響いた。中は思ったより乾いていた。棚に並ぶ農具や紙箱の奥、一番手前の桐の箱が、やけに丁寧に扱われているのが分かった。


藤村が箱を開けた。


中にいたのは、一体の市松人形だった。


高さは六十センチほど。白い顔、細い目、小さく結んだ口。髪は黒髪の人毛で、少しだけ湿っているように見える。着物は褪せた赤の絞り。手は小さく前で組まれ、足袋を履いた足が揃えてある。まるで、今にも「おかえり」とでも言いそうな、静かすぎる笑顔だった。


「明治の終わり頃のものと聞いています。元々は、この家の娘が持っていたものです」


藤村の声が、蔵の中で吸い込まれていく。


「その娘——お名前は『鈴』と言いました。生まれつき体が弱く、外で遊ぶことができなかった。友達もできなかった。代わりに、この人形を『お友だちにした』そうです。毎日着物を着替えさせ、茶を出し、夜は一緒に布団に入った。親は最初こそ微笑ましく見ていたそうですが……鈴はだんだん、人形以外の人間を拒むようになった。『人間は嘘をつくから』『この子だけが正直だから』と」


零は人形の顔を見つめた。呪脈視を深くする。黒い糸が、人形の胸のあたりから何本も伸び、蔵の壁を貫き、主屋へ、さらに山へとのびている。糸の一本一本に、微かな「声」が混じっていた。若い女の、諦めたような吐息。


「鈴は十六で亡くなりました。肺炎だったと記録にあります。けれど、死ぬ間際までこの人形を離さなかった。『この子を一人にしないで』『遊んであげて』と繰り返し言っていたそうです。親は人形を桐の箱に入れ、蔵に封印した。それ以来、この家では『夜に人形が動く』『若い女が蔵に近づくと、遊びに誘われる』という噂が絶えなかった。戦後、何度か人が消えている。表向きは都会へ出たことになっているが……戻ってきた者はいない」


藤村の手が震えていた。


「今回の三人も、皆、蔵に入った後です。一人目は『可愛いから、少しだけ遊んであげようと思った』と日記に書いていました。二人目は『人形が泣いている気がした』と。三人目は録音を残していて……『一緒に遊ぼうよ、って声がした』と聞こえます」


零はゆっくりと手を伸ばし、人形の頬に指を触れた。冷たい。だが、その冷たさの奥に、何かが脈打っている。寂しさと、独占欲と、触れられたいという、長く発酵した情念。


「今夜、ここに泊まります」


藤村は顔を青くしたが、反対はしなかった。鍵を零に渡し、主屋へ戻っていった。


---


夜は、思ったより早く深まった。


零は蔵の中に、小さなランタンを置いただけの状態で座っていた。人形は箱から出し、正面に据えてある。雨は降っていない。なのに、蔵の屋根が時折、誰かが小走りするような音を立てた。


呪脈視を最大限に開く。


黒い糸が、急に活性を帯びた。人形の目が、らんたんの光を受けて、ほんの僅かに潤んだように見えた。次の瞬間、空間が歪んだ。


蔵の土壁が消え、代わりに現れたのは、小さな女の子の部屋だった。壁紙は花柄、窓にはレースのカーテン。畳の上に小さな茶道具が並び、人形——いや、人のサイズに膨らんだ「彼女」が、零の目の前に座っていた。白い顔は変わらない。だが、口が、ゆっくりと動いた。


「……遊ぼう」


声は、子供のようでいて、どこか老いていた。糸が床から生え、零の足首に絡みつく。冷たい感触。零が身じろぎすると、糸はさらに上へ、ふくらはぎへ、膝へとのぼってきた。着物の裾を劃るように肌を撫で、太腿の内側をゆっくりと締め付ける。


「拒まないで。鈴はね、ずっと一人だったの。あなたも、一人でしょう?」


人形の体が近づく。人の温度を持たない手が、零の頬に触れた。指先が耳の裏を滑り、首筋をなぞる。零の呼吸が、わずかに乱れた。呪喰を使う前に、すでに侵食が始まっている。肌が過敏になり、糸の感触が必要以上に鮮やかだった。締め付けられるたびに、痛みと、それに近接した甘い疼きが、下腹部に沈んでいく。


「触れさせて。私の遊び相手になって」


人形の額が、零の額に寄り添った。髪を梳くような仕草で、指が零の黒髪に入る。もう一方の手が、コートのボタンを一つ、また一つと外していく。布が肌から離れるたびに、冷気が直接肌を舐めた。零は歯を食いしばったが、吐息が漏れるのを止められなかった。糸が胸の下を横切り、背中を這い、腰を拘束する。動けば動くほど、糸は優しく、しかし確実に体を締め上げた。


「いい子。いい子……」


人形の唇が、零の喉仏に触れた。吸うでも噛むでもない、ただ押し当てるだけの感触。なのに、そこから何かが流れ込んでくる。寂しさの塊。触れられたいという、何十年分もの飢え。零の体が熱を持ち、同時に冷えていく。股間に力が入り、太ももが小さく震えた。理性が、甘い霧で霞む。


「……あなたの中にも、何かがいる。大きい、古い、呪い。見せて」


人形の手が、零の左腕の紋様に触れた。瞬間、強い電流のようなものが走った。零は低く喘いだ。背中が弓なりに反り、糸がさらに深く肌に食い込む。痛みと快感の境が、曖昧になっていく。このままでは、取り込まれる。


零は、震える指で人形の胸に手を当てた。


「……私の番だ」


呪喰を発動する。


黒い紋様が腕を伝い、指先から人形の体内へ食い込んでいく。怨念が悲鳴を上げた。寂しさと独占欲が、濁流のように零の中へ逆流してくる。頭が真っ白になり、視界が明滅する。体中の感覚が最大化され、糸が肌を擦る感触も、人形の冷たい指も、すべてが過剰に感じられた。腰が震え、膝が内側に閉じる。それでも零は、核を掴んで離さなかった。


「返して……遊んで……一人にしないで……」


人形の声が、子供の泣き声に変わっていく。零は目を充血させたまま、さらに深く沈めた。第一話のときより、わずかに制御ができていた。完全に意識を失わずに、核を自分の内側へ押し込める。鎖骨の下で、新しい紋様が焼けるように浮かび上がる。熱い。甘い。痛い。


空間が弾けた。


---


気がつくと、零は蔵の土間に横になっていた。


ランタンの火はまだ揺れている。人形は元のサイズに戻り、顔に大きなひびが入っていた。糸はすべて消え、黒い煙だけが薄く漂っている。零はゆっくりと体を起こした。コートははだけたまま、肌に赤い跡が何本も残っている。鎖骨の下の新しい紋様に触れると、まだ熱く、触れただけで背筋が震えた。


「……少し、うまくなった」


掠れた声が、蔵に落ちた。


外はもう明け方近かった。藤村が心配してやってきたとき、零は人形を桐の箱に戻し、扉を閉めていた。蔵の奥から、意識不明の若い女が一人、見つかった。残り二人は、もうどこにもいなかった。


報酬を受け取り、集落を後にする道で、零は自分の体を確かめた。感覚は、まだ過敏なままだった。服の布地が肌を擦るたびに、小さく身震いが走る。体内の奥で、絶呪が前回より明確に、低く脈打っているのが分かった。


「……まだ、遠い」


零は袖を下ろし、山の冷気を吸い込みながら、バス道を歩き出した。


手元に、なぜか人形の小さな指の破片が残っていることには、まだ気づいていなかった。

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