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絶呪  作者: 蒼狐


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第一話 鏡の中の花嫁

雨の匂いが、古い木造の廊下に染み付いていた。


綾瀬零は、玄関の引き戸を閉めた瞬間に、空気の重さを感じた。湿った畳の臭いと、どこか甘く腐った花の香りが混じっている。ここが、依頼のあった温泉旅館『月影屋』だ。


「お越しいただき、ありがとうございます」


出迎えたのは、三十代半ばの女性だった。若女将の白石美咲。髪を丁寧にまとめ、微笑みを浮かべているが、目元には深い隈が刻まれている。


「従業員が三人、消えました。客も二人。警察は『行方不明』で処理していますが……この旅館の、奥の間の鏡が関係しているとしか思えません」


零は無言で頷いた。黒いコートの襟を少し上げ、室内を見渡す。壁に掛かった古い写真、床の間の生け花。表面は整っている。だが、彼女の視界には、細い黒い糸が何本も床を這い、奥の間の方へと収束していくのが見えた。


呪脈視。

零が持つ、呪いの流れを視る力。まだ不完全で、長時間使うと頭が割れるように痛む。今はただ、確かめるだけにした。


「鏡を、見せてもらえますか」


美咲は一瞬ためらった後、静かに先導した。


廊下を曲がり、二度、三度と扉をくぐる。空気がだんだん冷たくなる。最後の部屋の襖を開けた瞬間、零は息を止めた。


大きな姿見が、壁一面に据えられていた。枠は黒く変色した桐材で、表面には細かいひびが走っている。鏡の中には、部屋の姿が歪んで映っていた。零の姿も、美咲の姿も。だが、その奥にもう一人——白い着物を着た女が、ぼんやりと立っていた。


花嫁だ。


顔は霞んでいて、はっきりとは見えない。ただ、こちらを見つめる視線だけが、確かにあった。


「……夜になると、より鮮明になるんです。映った人間は、少しずつ鏡の中に引き込まれていく。最初は夢を見るだけ。次に、体が鉛のように重くなる。そして、消える」


美咲の声が震えていた。零は鏡から視線を外し、自分の左腕を無意識に押さえた。コートの下、肌に薄く浮き出た紋様が、微かに疼いている。自分が幼い頃から背負っている、解けない呪いの痕だ。


「泊まらせてもらいます。今夜、ここで」


美咲は顔を青くしたが、反対はしなかった。


---


夜。


雨音が強くなる。零は一人、鏡の間に座っていた。薄暗い電灯を消し、懐中電灯の光だけを頼りにしている。呪脈視を慎重に開くと、鏡の表面から黒い煙のようなものがゆっくりと溢れ、床に広がっていくのが見えた。


「……来い」


小さく呟く。応えるように、鏡の中の花嫁が歩み寄ってきた。白い足袋が、鏡の世界の床を踏む。ひび割れた表面が波打ち、次の瞬間、冷たい手が零の手首を掴んだ。


引き込まれる。


鏡の向こうは、歪んだ婚礼の座敷だった。畳は黒ずみ、天井からは白い布が垂れ下がっている。花嫁が正面に立っていた。今度は顔がはっきり見える。青白い肌、血の気のない唇、そして——瞳の奥に巣食う、激しい執着。


「あなたも、私のものになりなさい」


声が直接、頭蓋の中に響く。花嫁が近づく。冷たい指が零の頬を撫で、首筋を滑った。着物の袖が零の体に絡みつき、甘い腐臭と共に、何かが体内へ染み込んでくる感覚がした。


呪いだ。


零は歯を食いしばる。体が熱を持ち始め、肌が過敏に反応する。花嫁の指先が鎖骨をなぞるたび、小さな電流のような快感と悪寒が背筋を走った。理性が少しずつ霞む。これが、呪いの侵食。情念が直接、身体に触れてくる。


「……いい手触り。あなた、もう既に何かを宿しているのね」


花嫁が耳元で囁く。零の左腕の紋様が、熱を帯びて浮かび上がる。花嫁はそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。


「その呪いと、私の呪いを合わせましょう。永遠に、一緒に」


唇が零の唇に重なりそうになる。冷たくて、柔らかい。零の呼吸が乱れた。体の芯が疼き、拒む力が一瞬弱まる。だが、その疼きの奥で、別の何かが目を覚ました。


自分が持つ、もう一つの力。


呪喰。


零は花嫁の手首を逆に掴んだ。黒い紋様が腕を伝い、花嫁の肌へ食い込む。怨念が悲鳴を上げる。零の体内に、冷たく重いものが流れ込んでくる。頭が真っ白になり、視界が明滅する。痛みと、それに混じる甘い脱力感。膝が震え、思わず低い吐息が漏れた。


「……返して」


花嫁が縋る。零は目を見開いたまま、さらに深く引き込んだ。婚礼の座敷が崩れ始める。白い布が黒く焦げ、畳が裂けていく。花嫁の姿が次第に薄くなり、最後に残ったのは、愛されたかったという、小さくて歪んだ願いだけだった。


「……分かった」


零は 静かに 囁いた。核を、自分の中に沈める。


鏡の世界が弾けた。


---


気がつくと、零は鏡の間の床に座り込んでいた。窓の外で、雨が止んでいた。鏡の表面は真っ黒に濁り、ひびが深く走っている。もう、何も映らない。


左腕を見る。新しい紋様が、一本、薄く浮かび上がっていた。触れると、まだ熱い。感覚が過敏なままで、布地が肌に当たるだけで身震いがした。


「……封じは、した」


声が掠れている。完全に消滅させたわけではない。強い怨念は、自分の中で眠り続けるだけだ。いつか、また目を覚ますかもしれない。


朝になり、美咲に結果を伝えた。失踪者のうち二人は、旅館の近くの森で意識を失った状態で見つかったという。残りは、まだ行方不明のままだ。零は報酬の入った封筒を受け取り、静かに旅館を後にした。


駅へ向かう道で、零は自分の腕を見つめた。紋様は増えた。力は、少しだけ確かになっている。だが、その奥で、もっと深く、もっと古い何かが、微かに脈打つのを感じた。


絶呪。


自分が本当に解かなければならない、あるいは、絶たなければならないもの。

その名前だけが、今はまだ、遠くで響いている。


零はコートの袖を下ろし、雨上がりの道を歩き出した。

次の呪いが、彼女を待っている。


挿絵(By みてみん)

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