その5
美術展での一件から、何となく心寧との壁を感じてしまった私はほんの少し距離を取るようになってしまった。
遊びの誘いがあってもバイトがあると断り、メッセージアプリで話しかけられてもこちらから話題を振る事は無かった。だからいつもそう長く無い時間で会話が終わる。
何が悪いわけでも、誰が悪いわけでもない。ただ、どうにもならなかった。
そうこうしているうちに夏休みが終わった。
「おはよう、和葉」
新学期初日、足取り重く教室へ向かっていると肩をポンと叩かれた。こんな廊下で誰だろうと振り返れば、詩織が笑いかけている。一週間前にも遊んだけれど私は少し安堵し、意識して笑う。
「おはよう」
「あれれ、夏休みボケかな? それともバイト疲れ? 元気無さそうだねぇ」
ニヤニヤと顔を覗き込む詩織に私は乾いた笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「どれもだよ。大変なんだからさぁ、こう見えても」
「それとも、心寧と上手くいってないから?」
思わず私の眉がピクリと動く。そのまま強い視線を詩織に向けるけど、詩織は気にする素振り無くニヤついている。
「別に。いつも通りだけど」
「そうは思えないけどなぁ」
すっと詩織が背を伸ばすと、視線を教室へと向けた。まだホームルームの時間までは二十分ほどあるからか、私達の脇を色んな生徒が通り過ぎていく。
「何が言いたいの?」
鼻からわざと大きく息を吐き出すと、苛立ちをそのまま視線に乗せる。けれど詩織は相変わらずしれっとしながらゆっくりと教室へ歩き出す。私は更に頭に血が上るのを感じながら、詩織の背を静かに追いかける。
「私が言いたい事は特に無いんだよね」
「だったら」
「ただ、間に立つ私の気苦労も知って欲しいかなって思うわけ」
何を言っているんだろう。変な事ばっかり言って。
私はもう帰りたくなってきた。折角頑張って学校に来たのに、教室に着く前にこんな風に煽られるなんて思ってもいなかったから。
詩織はいつも優しいけどちょっとひねくれたところもあって、時々苛立つ事もある。けれどこんなにも言われた事は無い。もしかしたら私の知らない所で心寧に何か言われたのかもしれないけど、そういうのは私に隠れて上手くやって欲しい。ベラベラと気取った言い回しをするあたり、ほんと子供だと思う。
「ねぇ和葉、そう思わない?」
「何言ってるのかわからないし、もう話したくないから黙ってて」
「わかった。私はもう黙るよ」
いつの間にか教室の前まで来ていた私達。詩織が私の方へ振り向いてそう告げると、またすぐ前を向いて教室に一歩足を踏み入れた。
「心寧! 話があるならすぐにしちゃいなよ」
大声でそう言うと、ガタリと椅子の引く音が響いた。私は何の事かわからず一瞬毒気を抜かれ、ポカンとしてしまう。するとすぐ、教室の中から心寧が小走りで近寄ってきた。
「おはよう、詩織。和葉」
「……おはよう」
不安げな眼差しをした心寧がまるですがるように見詰めてくる。私はもう怒っていいものか逃げていいものかわからず、小さく挨拶を返すと少しだけ背を丸めてその横を通り抜けようとした。
「待って。和葉お願い、話をさせて」
不意に私の右手がつかまれた。思ったより強い力に驚き、私は心寧に視線を向ける。その手はほんの少しだけ震えているような気がした。
「教室ですればいいじゃない」
「そうかも、だけど……あまり聞かれたくないから。だからごめん、すぐ終わるから」
「ちょ、ちょっと」
今までの心寧にしては考えられないくらい強引に私の手を引っ張り、教室から離れていく。逆らっても痛いだけなので少しすると私は大人しくついていく事にしたのだが、心寧が手を離さない。
そうして小走り気味で生徒の波をかき分けて辿り着いたのが、封鎖されている屋上へと上がる階段前だった。
「心寧、一体何なの?」
周りには生徒はおらず、少し遠くの方からざわめきが聞こえるだけ。私も心寧も少し息を荒くさせているから、やけに呼吸音が響く。そうして私がつかまれている手に視線を向けると、慌てて心寧が離した。
「言っておきたい事があるの」
その眼差しの強さに私は怒る事を忘れてしまった。真っ直ぐに私の目を見て、今までにないくらい強くハッキリした口調の心寧は両手を握り締めている。
「和葉、働いてる姿メッチャカッコよかった」
「……え?」
予想だにしなかった発言に私は眉根を寄せる。けれど心寧は一切視線をブレさせず私だけを見ている。
「夏休み、市民ホールで会ったよね。あの時、働いてる和葉を初めて見たんだけど、格好良かった。すごく大人っぽくって、しっかりしてて、同い年なのにもう社会に出てお金を稼いでいるのが羨ましかった。それで私、あの日からずっと自分が恥ずかしくて」
「恥ずかしい? 何で?」
意味がわからない。どうしてあんな立派な服を着て素敵な両親に囲まれ、優雅な趣味に興じる心寧が恥ずかしがる事があるんだろうか。
「私、本当に子供なんだなぁって。あれからずっと、和葉と話している時もそうでない時も悩んでいたんだ。自己嫌悪に近いかもしれない。働いてる姿、すごく格好良かったって言えなくて、話題に出せなかった」
「待って待って、ちょっと何言ってるのかわからない」
褒めてもらっているのかもしれないけど、どうしてそう思うのかが本気でわからなかった。そりゃ自分で働いてバイト代が振り込まれるのを見た時は嬉しいけれど、できるならば何もせずに良い服を着て美味しいご飯を食べ、将来の心配なんかしたくない。
「うちさ、バイト禁止なんだよね。私はしたいんだけど、親が許してくれなくて。そんな事をするくらいなら、お金あげるって言われるんだ。それは本当にありがたい事だってわかっているんだけど、そうじゃないの。自分が社会の中でどう役に立てるのか。そして自分の力で稼いだお金で引け目なく遊びたいなって思うの」
まあ、裕福な家ならばきっとそうなのだろう。外で働いていると、私も体験した事があるけどまぁまぁヤバい事もある。変な人につきまとわれたり、仕事で怪我しかけた事だってある。
ただ……心寧の性格からすると、きっとそれは本心なのかもしれない。
「もちろん和葉が大変だってのはわかってるつもり。でも、結局働けないから『つもり』からは抜け出せないし、深くは知れない」
悲し気に視線を落とす心寧を見て、私は自分が石のように凝り固まっていた醜さをまじまじと突きつけられているかのようだった。
「そんな事、無いよ」
ようやく私はそれだけ絞り出すと、すっと視線を落とした。わずかに握る拳に力が入り、奥歯を噛む。
「別に同じ事をしなくたって、わかり合える事だってあるんじゃないかな」
恥ずかしさで心がきしむ。心寧に対し勝手に嫉妬して羨んでいた自分が恥ずかしい。目の前の申し訳無さそうな心寧を見ていると、それが殊更突きつけられる。
「ほらもうチャイム鳴っちゃうから、教室に行こう」
だからまだ、目を合わせられなかった。私はもうどんな顔をすればいいのかわからず、背を向けて教室へと歩き出す。数歩歩くと心寧もたたっと小走りで私の隣に並ぶが、押し黙ったまま。
きっとまだ私が怒っているとか、不機嫌なままだと思っているのだろう。
胸の奥がチクチクする、背中が重く苦しい。足だって泥の中を歩いているみたいにぎこちなく、頭の後ろが妙な熱を持っているみたいだ。
治し方はわかってる。でも恥ずかしさとプライドが邪魔をし、素直になれない。あの日から自分勝手に距離を取って苦しめてきたのに、今更私が言ってどうにかなるのかと。
「心寧、ごめん」
教室に着く直前もう我慢できず、私は歩きながらそう呟いた。ただうつむき、心寧の顔も見ずに。
「……うん」
けれど確かに、心寧の顔が笑顔になったような気がした。
朝のホームルームの最中ずっと、私は自己嫌悪に苛まれていた。笑顔で一生懸命話す先生をぼうっと映すだけで、その話は一切入ってこない。頭を占めるのは心寧の事だけ。
一応、仲直りらしきことはした。でもそれで、今までと同じように笑って話せるのだろうか。何事も無く接する事なんてできるのだろうか。
幼い頃から私は人付き合いがあまり上手ではない。それはこういう性質が邪魔をしていると自覚している。でも、人間わかっていてもできる事とできない事があるだろう。もっと気軽に軽い気持ちで接したり傷付いたりすればいいのに、些細なケンカやいさかいすら重く受け止めてしまう。
まいったなぁ。
私は口元を隠すようにし、人知れず溜息をついた。窓の外からは夏の朝日が煌めいており、それがどこか恨めしかった。
「和葉、どうしたのぼうっとして」
ホームルームが終わってからも私が動けずにぼんやりしていると、肩をポンと叩かれた。顔をあげればそこには詩織と心寧が立っている。詩織は相変わらずにやついていた。全く、何が楽しいのやら。
ついと心寧の方へ視線を向けると、ぎこちなく笑っていた。心寧もまだどうしていいかわからないらしく、きっと無理矢理詩織に連れてこられたのだろう。可哀想だなとは思ったけど、私の方もどう声をかけていいのかわからない。
「どうもこうも……何しに来たの?」
「何しに来たのは酷くない? 友達がホームルーム中にぼうっとしてたから、心配で声かけにきたのに」
詩織は大袈裟に手を広げ、嘆く真似をする。私はそれに何か言う気力もなく、うんざりとした溜息をつく事しかできない。
「それはどうも」
「心寧だって心配してるんだよ。ねぇ、心寧」
強引に話を振られた心寧は驚いて目を丸くするが、すぐに口元を強張らせた笑みを貼り付けながらうなずく。どう見ても、心寧の方が困っているみたいだ。
「それでさぁ、和葉。心配しすぎて喉乾いちゃったから、自販機で何か買わない?」
「えっ、なに急に? まぁ、いいけど」
もうここまで来たら断れない雰囲気があったし、無理に断ってもまた面倒な絡まれ方をされるに違いない。私は渋々席を立つと、三人で連れ立って一階の購買傍にある自販機へと向かった。
ホームルームから授業の間は十分間。なので素早く行って帰る必要があった。私達は階段を無言で降り、足早に向かう。そうして自販機前に辿り着くと、詩織が私の前に出てにっこりと笑った。
「和葉、おごって」
「はぁ?」
意味がわからなかった。売っているのは紙パックのジュースで、一つ百円。三人分買ったとしても三百円だけど、どうして私がおごらないとならないのかわからない。何かのゲームに負けたとかならわかるけど、こうもダイレクトにおごってと言われると渋ってしまう。
「だって和葉、バイトめっちゃしてたんでしょ。この中の誰よりもお金持ってるじゃない」
バイト代の半分を家に入れているとはいえ、この夏は確かにかなり頑張ったからお金はある。でもそれだって私の家は裕福じゃないし、このバイト代は人並みに過ごすためのものなのだから。
それにそういうのならば、心寧の方がお金持っているだろう。
「詩織、悪いよそういうのは」
心寧が不安げに詩織に呟いたのが耳に入る。けれど詩織は私を見詰め、にいっと笑うばかり。私はもう大きく溜息をつくと、財布を取り出した。
「いいよ、富豪だからね私。詩織は何にするの? 心寧は?」
諦めじゃないし、心を投げ捨てたわけじゃない。実際、今この中できっと一番お金を持っているのは私なのかもしれないから。
「私はコーヒー牛乳」
「じゃあ、私もそれで」
申し訳無さそうに手を挙げる心寧に私は妙な優越感を抱く。たかが数百円、けれど今この学生の時では大きな金額。私は自販機にチャリンチャリンと百円玉を入れると、まず自分のコーヒー牛乳を買った。
「ありがとうね、和葉」
そう礼を言いながら詩織がボタンを押す。続いて心寧が自販機の前に立った。
「和葉、ありがとう」
申し訳なさそうに、でも嬉しそうに目を細めた心寧を見て私の胸がずくりと少し重みを抱いて疼いた。もう負の感情の延長ではない。ただ……無理に言語化するならば、優越感だったのかもしれない。
「今度何か奢ってよ」
軽口が口をついた。でもそう言った時、私はどこか対等になれたかのような気がしたのか自然と笑みがこぼれる。詩織と心寧がそれぞれ自販機からコーヒー牛乳を手にするともう一度にこりと笑いかけてきた。
けれど私はまたどんな顔をすればいいのか、何だかにやけそうになる口元をかくすようにしてコーヒー牛乳のストローを飲み口に突き刺した。




