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金木犀を知らない私達  作者: 砂山 海


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4/5

その4

 夏休みが訪れると、部活に入っていない私はバイトに精を出した。

 いつもやっているスーパーの品出しに加え、空いてる日に単発のバイトを入れては色んな仕事を体験していた。家にいたってやる事も無いし、友達と遊ぶのだって毎日でもない。親から特に何か言われたわけじゃないけど、バイトをして家にお金を少しでも入れている方が気持ちが楽になれたのは事実だった。

 今日は市民ホールの一角でやっている美術展のバイト。担当者に挨拶をすると、音声ガイド機器の貸し出しを主とした仕事を任される事になった。教えてもらった操作方法は単純で、貸し出しの際に来場者に教えるのも仕事らしい。

「じゃあよろしくお願いしますね」

 五十代の男性職員に丁寧に挨拶されると、私は入口近くへと一緒に向かう。

 美術には特に興味がない。なので美術館で鑑賞なんて当然した事が無いから、こうして入口に立っているだけでも新鮮な気分になれる。私は次々と訪れる来場者に必要とされれば機械を貸し出し、その都度操作を教える。

 仕事を開始して二時間ほど経った頃だろうか。最初の緊張もすっかり消え、仕事にも慣れてきた時だった。

「すみません、三つお借りしたいのですが」

「はい、わかりました」

 スーツ姿の背の高い白髪交じりの男性を横に立たせ、他所行きのブラウスとスカートを身に着けた裕福そうな中年の女性が私に声をかけた。私はにこりと笑いすぐに機械を用意して手渡す。まず男性に、次に声をかけてくれた女性。そしてその後ろに控えていたこれまた綺麗な服装の若い女性に手渡そうとした瞬間だった。

 えっ、心寧?

 それは心寧の家族だった。普段制服姿しか見ていないし、たまに休日遊ぶ時は割とラフな格好もしているから、白いフリルブラウスにシックな黒いスカートといった大人な感じの衣装に一瞬わからなかった。

 心寧も私にすぐ気付いたみたいだった。けれど私が仕事中だからか、小さくにこりと笑うだけで何も話しかけはしない。私は恥ずかしさで喉が締まり、手が震える。けれど今は仕事中、逃げ出すわけにはいかない。

 私は心寧にも手渡そうとした時、思わず落としかけてしまう。けれどすんでの所で持ち直し「失礼しました」と頭を下げてから再び向き直った。

「ガイドはこのイヤホンを耳にかけて、作品が展示されているところにある番号と同じ番号のボタンを押していただけると、音声案内が流れます」

「わかりました、ありがとうございます」

 父親らしき人が小さく礼をすると、そのまま奥の方へと進んでいく。心寧も振り返らず、真っ直ぐ家族と歩みを進める。私はその三人の後ろ姿から目が離せなかった。

 それから三時間働き、無事バイトが終わった。けれど私の心はずっと曇ったまま。達成感もほどほどにお世話になった職員さんに挨拶をし、荷物をまとめて市民ホールを出た。

 入口を出て、ふと振り返る。壁には大々的に『光と闇 カラバッジョ展』というポスターが貼られており、随分昔の人なのに妙にリアルなタッチの男性が描かれていた。午後六時の夏の夕暮れはまだ風も温かく、肌にべっとりとまとわりつく。様々な人が足を止めない中、私はただ呆然と立ち尽くしていた。

 心寧の家族、お金持ちなんだろうな。

 思い出すのは三人の服装。服に着られている感じはなく、しっかりと着こなしている感じがした。それは両親ばかりではなく、心寧自身もきっとブランド物だろう立派な服に合わせるようにバッグやアクセサリーを身につけていた。

 それは学校で見る彼女とは全然違った顔。

 もしかしたら、今頃どこかのレストランで晩ご飯を食べているのかもしれない。そう思うとすぐに絵が浮かんできた。千円や二千円で食べられるところではなく、どこかのホテルでのディナー。ナイフやフォークがたくさん置かれているような食事をしているのかもしれない。

 溜息が出た。けれどそれもすぐに生ぬるい風に運ばれ消える。

 私はゆっくりと前を見て、駅へ向かって歩き出した。ずっと立っていたから、重い足をひきずるように。そうして人の流れに乗る事によって、ようやく物言わぬ彫像から現代市民になれたような気がした。灰色の市民。でもみんなきっと、こんなものだ。現実を受け入れてなお、幸せな人なんかほとんどいない。

 ふと札幌駅前の近くになると、ビアガーデンが見えた。まだお酒は飲めないから楽しさはわからないけど、賑やかなのは伝わる。そうか、大人になればお酒で憂さ晴らしができるのか。特に飲みたいとは思わないけど、何だかいい大人が楽しそうにはしゃいでいる姿を見て、大人でもあんな風に大きく笑えるんだと思うと心が軽くなる。

 電車に乗り、最寄り駅へ向かう最中もずっと心が晴れなかった。

 それはやっぱり心寧の家族と自分の家族の差が激しすぎて、今まで疑問に思わなかった何もかもが目の前に突きつけられた感じがして仕方ない。

 誰しも、どんな人でも、例え親友でも恋人でも、格差はある。そんなものわかっている……つもりだった。でも毎日同じ制服を着て、同じ話題で笑って軽口を言い合えば平等なラインにいるものだと思っていた。いや、信じていたと言った方が適切だろう。

 でもそれは違っていた。当たり前の現実を、当たり前に突きつけられただけなのにどうしてこんなに苛立つのだろう。どうしてあんなに、恥ずかしいと思ってしまったのだろう。

 何も言われなかった、どうとも思われなかった。むしろ配慮さえしてもらえた。けれどあの一瞬で私と心寧の大きな差を嫌が応にでも感じてしまったのだ。家に帰れば口には決して出さないけど、身体が弱くてあまり働けない両親が歯を食いしばっても人並み以下だろう収入しかない。

 何故なら旅行はおろか、美術展なんか言った事も無いから。余裕が無ければそういうところに行こうと思えない。小さい頃は近所の公園かちょっと遠くの公園へピクニックが関の山。外食だってほとんどしない、できない。だから私もこうして働いている。

 それで心寧を恨んだり、嫌ったりとかそういう事は無い。ありえない。

 ただ、ちょっとだけ羨ましいなと思っただけ。

 最寄り駅に降りる前、私は母親に「お腹空いた、晩ご飯は何?」とメッセージを送った。するとすぐに「カレーだよ」と返信が付く。私はそれを見て、小さく微笑むとスマホをしまった。

 もう既に、カレーの匂いが漂っている。そんな気がした。

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