その3
お昼休みに入ると暑さは更に高まり、私を含めみんな汗だくになりながらうんざりしたように何とか涼を取ろうとしていた。窓は全て開け放たれているもののそよ風しか入らず、この暑さでは物足りない。身体がまだ暑さに慣れていないから、なおさらそう感じてしまう。これがもし夏になって一ヶ月も経っているならば、きっとそれなりに適応しているだろう。
「はー、ごちそうさま。お弁当食べただけで疲れた気がするよ」
私はお弁当箱を片付けると、すぐさまノートであおぐ。生ぬるい風しか来ないけど、何も無いよりはましだった。心寧と詩織も片づけを終えると、机に突っ伏しながらハンディファンを使ったりしている。
「もう男子みたいに頭から水かぶれたら、どれだけ気持ち良い事か」
詩織がうんざりした目で教室の入口の方を見れば、野球部の男子数名が頭から水をかぶってきたらしく、気持ち良さそうに笑っていた。
「さすがに、ねぇ。とりあえずみんな食べ終わってるみたいだし、制汗剤使ってもいいよね」
心寧がぐるりと教室を見回したので、私もならう。確かにもう食べている人はいないから、使っても問題無いだろう。私はカバンの中から先日買った制汗剤を取り出すと、首筋や脇に吹きかける。ひんやりとした感触とほのかに甘い香りが、暑さで萎えかかっていた心を元気にさせた。
「あっ、私のもう切れてた」
心寧も自分のを取り出したものの、短いガス音しか出ない。だから私はそのまま自分のを心寧に差し出した。
「よかったら使ってよ」
「えっ、いいの? ありがとう」
落ち込みそうだった顔が一転、ぱっと笑顔になった心寧が見詰めてきた。私はもう胸の奥がきゅうっと締まるような甘い苦しさに襲われる。自分の行動が感謝され、喜ばれる事はいつだって嬉しい。
それが心寧ならば、なおさらだ。
「へぇ、キンモクセイの香りかー。初めて使うかも」
心寧は手渡された制汗剤をまじまじと見る。彼女はいつもシトラス系の匂いのを使っているから、これは初めてなのかもしれない。興味深げに缶をくるりと一周させてみてから、さっそくそれを使い始めた。
「わぁ、良い香り。甘くてどこか懐かしい感じがする」
すんすんと鼻を鳴らしながら漂う香りを吸い込む仕草がまるで犬のようで、ちょっと可愛い。それに私が使っているものを共有してくれ、褒めてくれた。それだけでまた胸の奥がくすぐったくなる。
「なになに、二人とも同じ匂いさせて。ちょっとやらしいんじゃないの?」
ニヤニヤしながら詩織も自分の制汗剤を使いながらそう言うと、私は思わずどきりとしてしまう。軽口だとわかっているけど、どうしてそんな風になるのかわからない。
ただ心寧は呆れたように笑っていた。
「何言ってるのよ。どこにでもある匂いじゃないの」
「あはは、まぁそうだよね。うちの玄関の芳香剤も金木犀の香りだから、なんか馴染みがあるんだよねー」
言われてみれば確かに芳香剤として嗅いだ事は多い。
「ねぇ心寧、詩織。本物の金木犀の香りって嗅いだことある?」
だけど実物はどんな匂いなのか知らない。そもそも北海道に咲いているんだろうか?
「いやぁ、私は無いかな。心寧は?」
「金木犀って北海道に無いんじゃないの? 近所では見た事無いかも。植物園とか花の公園とかそういう場所に行けばあるとは思うけど、一般的ではないよね」
やっぱりそうなんだ。私は自分だけかなと思っていた事を同意され、口元をほころばせながら小さくうなずく。
「なんかさぁ、歌とかに結構あるよね。金木犀の香りが~みたいな。でもあれって全然わからなくて、もしかしたら本州だとメジャーなのかなぁ」
「そうかもね。割と代表的な香りの一つとしてあるから、東京に行けば結構そういう匂いが普通にあるのかも」
心寧がまじまじと制汗剤を見詰めてから、私にそっと返してくれた。私はそれを受け取ると、少しだけ心寧が触れていた所を指で触ってからカバンに戻す。
「東京かぁ。やっぱり何でもかんでも東京なんだねぇ」
頬杖をついてそうこぼすと、詩織がふんと鼻で笑う。
「そりゃそうでしょ。親と一緒に晩ご飯の時にテレビ観てても、東京のグルメの番組って結構多いもん。全国区のニュース番組でも大阪とか名古屋の事はあまりやらないけど、東京の事は頻繁にやるもんね」
「ネットとかで世界が身近になったとはいえ、やっぱり物理的な壁や文化の差はあるよね。私も何度か東京に行った事はあるけど、こっちとは比べ物にならないくらい人が多くて疲れちゃう。まぁ、見所もたくさんあるけどね」
「心寧は東京行ったことあるんだ。やっぱりすごい?」
私は思わず体を心寧側に乗り出すと、彼女がうなずく。ふわっと香る心寧からの匂いが私と同じようで、ほんの少し違った。
「どうすごいかってのはなかなか説明しにくいけど、多分思っているような感じだよ。でも私は春先とか夏に行く事が多かったし、電車移動とかだったから金木犀の香りとかよくわからなかったなぁ。何ならちょっと臭かったってイメージしかない」
「えっ、そうなの?」
「うん。まぁ人も多いし、たまたまかもしれないけどね」
テレビなんかで向こうの満員電車のシーンなんかを見ると、確かにあれだけ人がいれば良い匂いにはならないだろう。どこかの公園とか自然の多い場所じゃないと、金木犀の匂いはしないんだろうな。
「それにしても東京かぁ、いつか行ってみたいな」
「んー、修学旅行とかで行けるんじゃないのかな?」
心寧が中空を見詰めながら顎に人差し指を添える。
「あぁ、そうか。それがあるかも。そうしたら本物の金木犀の香りを嗅げるかもね」
「それこそ時期によるだろうけど、でもできたらいいよね。それこそ、三人で回りたい。和葉と詩織と私とで、たくさん色んな所を見て回りたいな」
修学旅行は二年なので、来年だ。それまで同じクラスでいられるだろうか。不安を挙げればきりがないけど、希望にすがって生きるのも楽しいだろう。
だって今この笑顔、ずっと先も続けていたいから。




