その2
心寧の案内で電車を乗り継ぐ。いつだって知らない土地の電車に乗る時は怖い。特に東京はそうだ。路線図を見てもやっぱりわからず、人も多い。一歩間違えたらもう二度と帰れなくなるんじゃないかという不安がある。
だから東京に慣れた心寧が一緒にいてくれる事がどんなにありがたく、心強いか。そんな安心感から、私は車窓から流れる新鮮な景色を堪能できた。ずうっと街並みが続き、途切れない光景は私には珍しい。
思っているほどの混雑はなく、私達は電車を乗り継いでいく。心寧は交通カードを使っているものの、私は都度切符を買う。その度に待たせるのが申し訳なく思いながら、何とか東京と言う街にしがみつく。
「心寧の家って、どの辺なの?」
「吉祥寺にあるマンションだよ。駅から少し離れてるけどね」
「あ、なんか聞いた事ある」
そこまで東京の地理に詳しく無いものの、名前だけ知っている場所は多い。きっとテレビの影響だろう。ただそこがどんな場所なのかまではよく知らないけど。
「いい場所だよ。井の頭公園とかあってさ。あ、そういえば修学旅行の時に来ようとしてた場所だよ。覚えてるでしょ?」
「あぁ、そこなんだ。もちろん覚えてるよ。行ってみたいな」
「いいよ。どうせ私の家に行く途中にあるし」
高校生の時、金木犀の香りを確かめに行こうとしたけど大雨で諦めた場所。もう一生行く事は無いだろうと悲しくなったけど、まさかその場所に行けるようになるとは思わなかった。
一体どんな香りなのだろうか。今は時期だし、晴れている。やっと答え合わせができるんだ。
思わず笑みがこぼれ、隣にいる心寧に目を遣る。心寧も幾分かリラックスしたような表情に見えた。それだけで私の心は温かくなる。まるでこの陽射しのように。
吉祥寺駅を出ると、私が思っていた以上に近代的で大きく広かった。多分昔読んだ漫画の影響なのか、もっと下町っぽいのをイメージしていたのだが現実は全然違う。周囲に街路樹なんかあるものの、人工的な匂いしかしない。
「大きいね。札幌駅とか狸小路周辺みたい」
「人気の場所だからね。和葉、荷物重いでしょ。まずタクシーで私の家に向かう? それとも公園の先に私の家があるから、歩く? 十分くらいは歩くけど」
ゆっくりと私は周りを見渡し、秋の陽光を浴びる。まだじっとりと暑い秋風がまとわりつくけど、初めて訪れた土地だからか笑顔になれた。
「歩こうか、折角だし」
冒険したい、そんな気分が旅疲れに勝る。知らない土地だけど活気があり、色んなお店があり、全てが私を軽やかにさせる。荷物が重いとは言っても、たかだか一泊二日の着替えくらいしかない。何とでもなる。
大きな建物の間を抜けて行けば、やがて両脇に店が居並ぶ小道に出る。駅前とはまた違った顔の落ち着いたお店を物珍しく見ながら階段を下りて行けば、開けた場所に出た。
「ここが井の頭公園だよ」
にこりと笑う心寧も美しかったけど、歩を進める度に広がっていく見事な紅葉に私はもう心を奪われていた。よくテレビで見ていた大きな池の周りにはたくさんの木々が赤や黄色に色づいており、そのせいかふわっと甘く懐かしい匂いもする。どこかで嗅いだような、でもいつかはわからない匂い。
「すごいね。なんか全部が芸術みたい。あと、この少し甘い匂いは公園の匂いなのかな。それともどこかで屋台でもあるのかな?」
「お祭りじゃない限り無いと思うよ。この香り、金木犀だね。ほら、あの辺の黄色い小さな花を咲かせているのがそうだよ」
これが金木犀の香りなんだ!
私達は近くに咲いていた金木犀へと歩み寄る。オレンジがかった黄色く小さな花に鼻を近付ければ、そこかしこを覆っている甘く優しい匂いがよりハッキリとわかった。今まで制汗剤や芳香剤でしか知らなかった香り。私はやっと、本物に出会えた。
あの日、どんな匂いだろうと気になっていた本物の金木犀の匂い。それを初めて実感すると私は自然と心寧に目を向けていた。心寧は穏やかな顔で笑っている。でも私はその下にある本当の顔を知りたい。
本当の心寧と向き合いたかった。だから私は金木犀から心寧へと目を移す。
「仕事、大変なんでしょ?」
すると心寧はすうっと視線を落とし、やがてその顔が見えなくなる。そよ風が甘い香りを運ぶ。二回ほど通り過ぎた時、ようやっと心寧が歩き出した。
「まぁ、ね」
重苦しさが足元に絡みつき、紅葉に影を落とす。それでも、きっと私達はこの匂いの中でなら本音で話せる。そんな根拠のない確信が私にはあった。
「一流メーカーだもんね」
「……覚える事も多くてさ。わからない事だらけってのもあるけど、自分よりももっともっとすごい人がいっぱいいるんだ。当たり前だよね、全国から来るんだもの。自信無くしちゃって」
北海道内では北大卒は全国で言う東大卒のようなもの。けれどそれは道内だけの話であり、こうして全国から集まればやはり一段も二段も下がるのだろう。心寧自身すごく優秀だろうけど、それは全国から見ればそれなりに落ち着くのかもしれない。
けれど学力だけで社会人として優秀かと言えばそうでもない。
「でもさ、入社したからには何かモノになる、将来性があるって判断されたわけなんだし、大丈夫なんじゃないかな。心寧はさ、落ち込んだって明るく進めるパワーがあるんだし」
すっと一瞬私に視線を合わせたけど、すぐにまた落ちた。そうしてまた無言で歩く。
「明るく進める、か。……和葉には私がそう見えるのかな?」
私が思わず足を止めると、相変わらず心寧は視線を下げたまま。私は胸を真綿で締められるような感覚を抱きつつ、じっと心寧を見詰めた。
「私は少なくとも、そう思ってる。心寧はいつだって前向きで明るくて、自分の夢を叶えるために進んでいく。私に無い物を叶えていく姿に、私は勝手に憧れさえも抱いているんだよ」
大きな溜息が心寧から吐き出された。すぐにそれは甘い風に乗って消えていく。私はもう、もっと自分をさらけ出さないといけない。もっと正直にならないとここに来た意味は無いと自分を激励し、自分の心を覆っているベールのような感情を静かに剥ぎ取る。
「私さ、正直言うとどんどん先に行って綺麗になる心寧に置いて行かれてるような気がしてたんだ」
「えっ、何? どう言う事?」
それは心寧の心の埒外だったのか、反射的に顔を上げて私を見詰める。やっと目を合わせてくれた事で口角が自然と上がったのは決して、馬鹿にしているわけじゃない。
「大学行って就職で夢を叶えるために東京行って、綺麗なネイルしたり色んなお店行ったりして、羨ましいと言うか何だろう……私、何してるんだろうなって。私はといえば帰ってきたらもうぐったりして何もしないし、休みの日だってゴロゴロしてばかり。オシャレする事も忘れちゃってさ」
言いながら自嘲気味になり、でも荒れないように懸命に笑う。だけど誤魔化しきれなかったのか、心寧は今にも泣きそうな顔で私を見詰め続けていた。
「一番はやっぱりさ、東京に行こうって誘われても行けなかった。伸ばしてくれた手を私は払っちゃったんだよね。そこからどんどん引け目みたいなのが強くなっていって、どんどん苦しくなっちゃってさ……あの時からずっと、心寧に合わせる顔が無かったのかもしれない」
私は右掌に視線を落とす。何もつかめなかった手。あの時は何も手にできなかった。
「だったら……どうして来てくれたの?」
震える心寧の声が私の心にゆっくり刺さる。私が泣きそうになっているのは痛みじゃない、ましてや幸福でもない。ただ過去の自分ができなかった事を今、成し遂げようとしているからかもしれなかった。
「心寧が辛そうだから」
きゅっと心寧の唇が固く閉じられ、歪む。じわりと目の周りの反射が増え、鼻先が赤らんでいく。大勢の人がゆっくりと通り過ぎていく公園の片隅、私達はもう周りなんて一切気にならなかった。
ただ、ずっと言い出せず聞き出せなかった本心で向き合っていた。
「それだけで、来てくれたの?」
「だって……心寧がそうなってたら、行くしかないじゃない。私の時だって来てくれたじゃない。あの時、本当に嬉しかったんだからさ」
顔を伏せ、パシンと心寧が肩を叩いてきた。私はただそれを黙って受け止め、そっとその手に触れる。少し乾いた、柔らかい手。
「何よそれ……恋人じゃない、そんなの」
私はその手を少し強く握る。愛おしく、離れないように。それに驚いたのか、心寧が顔を上げるともう両頬は濡れていた。眉根を寄せ、鼻も赤くしている心寧に私はふと笑いかける。
「そうだよ……私はそう思って、ここに来たの」
「……やめてよ」
握った手から力が感じられないし、握り返そうともしない。私は最悪の事態が脳裏をよぎり、胸が苦しくなる。迷惑だったのだろうか。そんな考えがどんどんと頭と心を支配していき、ゆるりと私の手からも力が抜けていく。
手が離れそうになる直前、心寧が私の小指をつかまえた。
「……私、和葉が思ってるような人間じゃないよ。卑怯なんだよ、私」
「どういうこと?」
和葉はいつだって明るく優しく、無邪気。それが私の心を逆なでする事はあるけれど、でも基本的には良い子。夢に向かい努力し、自分を磨き、世の中の流れにもちゃんと乗れている。
それが違うとは一体どういう事?




