その4
「すみません富永さん、望月課長。急な話ですけど今週末の土曜日、有給休暇使わせて下さい」
翌朝、私は二人が出勤するとすぐに頭を下げてそうお願いした。案の定二人とも大きく目を開け、私を見てくる。心が委縮しそうになるけど、私は視線を外さずにぎゅうっと拳を握った。
「えぇ、随分急だね? 二日後でしょ? 何かあったの?」
「一応ほら、一週間前に申請して欲しいんだけど……」
二人が困惑するのも無理はない。私は普段、そんな事言わないから。
「どうしても東京に行かないとならないんです」
「東京? 誰か親戚でも亡くなったの?」
望月課長が首を傾げ、心配そうに見てくる。私はもどかしさを覚えつつも、真摯な表情を崩さない。ただ、詳細な理由を言うのもなんだかはばかられた。
「詳しくは言えないんですけど、私にとって大事な用事があって」
「あ、わかった。推しのライブとか?」
富永さんが場を和ませようとしてるのか、それとも本当にそう思って言ったのかはわからない。私はただ、首を横に振る。
「いえ、そんな楽しい事ならいいんですけど」
有給休暇を取るのに理由は不要。ただそれでも、こうして急な場合は当然何事か訊かれるだろう。わかってはいたものの、思ったよりもわずらわしい。これはもしかしたら許可が下りないかな?
まぁそれならそれで、当日欠勤するまでだけど。
「富永さん、土曜日なら一人で回せるでしょ?」
望月課長がずいっと富永さんの方を見る。すると富永さんは何でもなさそうな顔でうなずいた。
「大丈夫ですよ」
それを聞くなり望月課長が私に向かってニコッと笑いかけてくれた。
「うん、いいよ休んでも。平日の連休なら難しかったけど、土曜日だもんね。吉野さんってそんな急に言う事無かったから、俺ら驚いちゃったんだよね」
「すみません、本当に」
許可された途端、戦おうと強張っていた心がするっと緩んでしまう。すると逆に申し訳なさが急激に込み上がり、大きく頭を下げた。
「課長も言ったけど、土曜日だからね。吉野さんいれば楽だけど、いなくてもまぁ大丈夫。何かあれば課長にもやってもらうから、気にしないで行ってきなよ」
「えぇ? 富永さん一人でできるんじゃないの?」
「別に課長に伝票とか手伝ってもらおうとは思ってませんから。コーヒー二本くらいもらえれば十分ですよ」
「あの、それ私が用意しておきます。お土産も買ってきますから」
すると二人は目を細め、違うとばかりに手を振った。
「いいのいいの、そんなの。急な用事なんでしょ」
「まぁでも、帰り際に余裕があれば、ね」
私はもう一度頭を下げた。あぁ、私は辛い辛いとばかり思っていたけど、いつの間にか居場所を作れていたんだな。こうして急な事でも許され、笑い話にしてくれる。それがどんなにありがたい事か。
お土産、どんなの買おうかな……。
帰宅してからすぐに私はネットで色々調べ、なるべく安い航空便を予約した。自分でこういう事をするのは初めてだったから一つ操作するだけでもドキドキしたけど、それでも何とか予約完了の文字を見た時に心からホッとした。
もうそれだけで疲れてしまい、少しぬるくなったお風呂に長く浸かって気力を回復させてから一人遅い晩ご飯を食べる。今日はお母さんが作ってくれた唐揚げ。だから冷めても全く問題無かった。
それから自室でまた色々調べ、当日必要なものをチェックする。用意できるものはこっちで用意した方がいいけど、仮に忘れてもお金さえあればまぁ何とかなるだろう。同じ日本の中なのだから。
休みも取った、航空チケットも取れた。私の前に立ちはだかった大きな壁はひとまず突破できた。だから私は大きく息を吐いて決意を固めてから、震える指で通話ボタンを押す。
夜の十時、もう寝てるだろうか。出てくれるだろうか。
「もしもし」
諦めかけていた五コール目で困惑したような声が聞こえてきた。私はもうそれだけで胸がいっぱいになりそうで、思わず口元が緩む。
「もしもし、遅くにごめんね心寧。もう寝てた?」
「あ、いやまだ寝てないけど。どうしたの?」
声の調子から疲れが滲んでいるのがわかる。心配したかったけど、ぐっと堪えて私は本題に入った。
「土曜日、そっちに行くから」
「えっ? 何で? 和葉、来るの……?」
大きく動揺した心寧の声が裏返る。私はそれを指摘したり、笑う事はしない。だって、不用意な一言で心を閉ざされれば何のために休みやチケットを取ったのかわからなくなるから。まずは話を聞いて欲しい、ただそれだけだった。
「うん、行く。心寧言ったじゃない、金木犀の香りを嗅ぎに来たらって。だから行こうかなって」
「え、あ……それは言ったけど、でもそんなので……和葉、仕事は?」
「休み取った」
ぎゅうっと私はスマホを握る。
「だってお金たくさんかかるよ。土日なんて、高くなるし」
「私、実家住みでもう五年目の社会人だよ。それなりに貯金だってあるんだから」
「でも」
電話越しで戸惑い、徐々に鼻声になっていく心寧。その気持ちは痛いほど伝わるし、理解できる。私だってきっとそうなるから。だからここで一番欲しいものを与えたい。
「私ね、どうしてもそっちに行きたくなったの。会いたくなったの。それじゃ駄目?」
「駄目じゃないけど……いいの? 本当に、いいの?」
鼻をすする音が聞こえてくる。か細く、すがるような声。だから私は大きく笑った。決して見えないだろうけど、大きく安心させるように。
「いいもなにも、もう決めたの。あ、でもホテルはまだとってなかった。よかったら泊めてくれると嬉しいんだけど」
「……いいよ。うちに来てよ。その方がいいでしょ、ホテルも高いんだよ」
「ありがとう。それじゃあもう何も心配ないよ。あ、まだ駄目だ。そっちに行っても絶対迷子になるから、できたら当日空港まで迎えに来て欲しいな。修学旅行の時はわけもわからず歩いてただけだからさ」
自虐的にでも笑えば、電話口からくすりと笑ったのが聞こえた。
「広いもんね。大丈夫、迎えに行くよ」
「やっぱ心寧は頼るになるなぁ」
「そんな事無いよ。和葉の方がずっと頼りになる」
「まぁ一応、社会人の先輩だからね。免許もあるし、車もあるからさ」
そんな自尊心、全然ない。でも今は虚勢を張っていたかった。ここで私までも下を向いたら二人、際限なく落ちていく。折角つかんだ手が離れてしまう。
「そうだね。またドライブ、行きたいな」
「行こうよ。絶対行こう。でもその前にそっちに行く。折角だから、晴れたらいいな。前は雨だったから、金木犀の匂い嗅げなかったもんね」
「週末はこっち、晴れるよ。火曜日まで晴れ。むしろ暑いくらいだから、薄着でもいいと思うよ。ねぇ、そっちは寒いの?」
「ううん、今年は暑い。だから大丈夫、同じような服で行くよ」
すっかり調子を取り戻した心寧の声を聴いて、私は心が静かに笑っているのを感じていた。あんなに二人を隔てていた壁が、意志一つでどうにでもなるとわかったから。別世界と思っていたのに、ほとんど同じだと思えたから。
そして私達はいつだって、あの匂いで繋がっている。金木犀の匂い。
だけど私はまだ本物を知らない。
だからやっと、わかる。今度こそ、知れる。確か高校一年生の時に始めて話題に上がってから、二十三になるまで知らないまま。八年も経った。
私は心寧と話しながら、目を閉じ静かに噛みしめるように笑った。




