その2
それでも折角の給料日、少しは自分の機嫌をとった方がいいのだろう。そう考えた私は帰りがけにケーキ屋さんでチョコケーキを家族の分含め三ピース買った。一つ五百円もしたので、私にしてはまぁまぁの出費。でもこれでみんな喜んでくれるなら、いい買い物だろう。
逆にどうして今までしなかったんだろう。
今度からは定期的にしてもいいかなと思いつつ帰宅し、家族に振舞えば思いの外喜んでくれた。会社じゃなかなか実感できない、役に立てたという感覚に胸が甘く痺れる。晩ご飯の後で両親が和葉は食べないのとか言われたけど、後で自室で食べるとだけ答えておいた。
だって今食べたら、折角の話題すら食べつくしてしまいそうだったから。
私はちょっとだけ軽やかな足取りでそれを持って自室に入ると、机の上に置いた。そうして普段はほとんど使わないカメラ機能でそれを撮り、画像を心寧に送る。
『給料入ったから、ささやかなお祝いでケーキ買ってみたよ』
そんなメッセージを添えて。
けれど五分経っても十分経っても返信が無かったため、私は小首を傾げつつも折角のケーキが乾いたらもったいないからと食べ始める。甘くて香ばしく、口の中に幸せが広がっていく。
無言で、でも頬緩ませながら半分ほど食べたところで通知音が鳴った。私はフォークを置き、すぐさまスマホを見る。心寧からだった。
『美味しそうだね。それきっと、メアリーズハウスのやつだよね?』
『よくわかったね、正解。花丸あげちゃう』
返信を打ってから、私はまた一口。心寧と繋がれたので、甘さがより際立ったような気がした。
『だって昔一緒に食べた事あったよね。美味しかったなぁ。また食べたいな、一緒に』
心寧がまだ大学生の時、一緒に食べたことがある。心寧の家の近くにあるケーキ屋で、受験勉強以来だった心寧の部屋にお邪魔して食べた。あの時、懐かしさと嬉しさと寂しさが私の胸を襲ったけど、それ以上に笑い合った。
今も輝く、大切な思い出。
『たまには帰ってきなよー。私も会いたいからさ』
絵文字をつけて可愛らしく、軽やかに。ケーキの甘味が私をそうさせる。素直な気持ちをふわりと、このクリームのように。
『そうだね。そうしたいんだけど、難しいよ』
『忙しそうだもんね、心寧』
『覚えてるかな、私が大学二年の時に和葉を学校祭に誘おうとして気まずくなった事。あの時私さ、和葉に仕事が忙しいって言い訳ばかりって言っちゃったよね』
今度は古傷が痛む。忘れたくても、忘れられない思い出。今も時折思い出しては一人気まずくなったり腹が立ったりするくらいには鮮明に覚えている。
『覚えてるよ。でも、あれがあったからまた仲良くなれたんだよね』
だから私は少しでも前向きに発言する。今は心寧に心配をかけたくないから。
『今になってわかるよ、和葉の気持ち。私は本当に子供だったんだなぁって。仕事が忙しいって言い訳じゃ無いもんね。忙しすぎて何もできなくなっちゃう事もあるよね』
胸が痛んだ。けれど何故かはすぐにわからなかった。少し前の私なら心寧のキラキラな生活にみっともない嫌気がさしていたけど、今の心寧にはそれが無い。むしろどこか、泥に沈んでいるかのよう。
『心寧、あのさ』
それだけ送信してしまった。けれど、続きの言葉がすぐに浮かばない。
『なに?』
しばらくしてそれだけ返ってきた。私は『何でもない』と返そうかと思ったが、ふと心寧の就職祝いのあの日に差し出してくれた手を思い出した。あの時は眩いばかりに輝いていたけど、どうしてだろう今は弱々しいイメージにしかならない。
何か励ましたい、どうにかしたい。でも、気の利いた言葉が浮かばない……。
『金木犀って秋の花だよね? そっちはもう咲いてるの?』
苦し紛れに伝えたメッセージ、けれど不思議とそれが一番だとすら思えた。どうしてかわからない。多分カレンダーが目に入ったからだろう。九月二十日の日付のせい。
『うん、咲いてるよ。結構匂いもする』
『そっか。いや私、まだ実物を知らないからさー』
まるでか細い糸をつかむかのような会話。正解か不正解かわからない。けれど今のところは大丈夫なのかもしれない。返事が来たから。
『そう言えばさ、高校の時にお互い知らないって話してたよね』
『うん、してたね。心寧はもう知ってるんだもんね。先越されちゃったな』
少しの沈黙。それだけで私の背筋が凍っていく。冷たい汗が一筋流れるのを感じた時、通知音が復活した。
『嗅ぎに来たらどう?』
短いその言葉はどうしてか私の胸を強烈に苦しめた。感情の整理がつかないので逃げるように視線を逸らすと、カレンダーが目に入る。世間じゃシルバーウィークという連休、私の職場はそのせいで大変忙しい。
会いに行こうにも、行けるわけがない。そんな時に有給の申請なんて出す勇気なんか無かった。
私は思わず奥歯を噛む。ほのかに口の中に残っていたチョコクリームが今は場違いな味に思えて、ちょっとだけ苛立つ。
『今、丁度連休中でしょ。うちの業界、忙しくてとてもじゃないけど』
数十秒の沈黙。たったそれだけで私の心が冷えていく。
『そうだよね。和葉も忙しいし、仕方ないか』
ずきりと胸が痛む。目の前に心寧が見えた気がしたし、ともすれば涙目になっているようにすら見えた。私は思わず手を差し伸べたかったけど、引っ込める。だって、どうにもできないから。
薄っぺらい言葉を幾らかけても、虚しい期待を持たせるだけだろう。
『ごめん、すぐに行ける距離じゃないからさ』
『わかってる』
それきりお互い何もメッセージを送らなくなり、自然と会話が終わった。
まだ三分の一ほど残っているチョコケーキ、でも私はちょっと手が付けられなかった。それよりもすっかり暗くなってしまったスマホをただじっと見るばかり。もう何も映っていないけど、目が離せなかった。
心寧は東京で夢を叶えようとし、頑張っている。何でも揃っている東京でここにいた時よりも大きく輝き、キラキラした日々を送っている……はず。
なのにどうして、こんなにも心がざわつくのだろう。見えない棘が刺さって、目を背けようとしても気付かないふりをしようとしても、嫌が応にも気付かされる。
「行きたいよ、私も……」
でも私は実際、仕事がある。私の代わりなんて幾らでもいるだろうけど。でも少なくとも今はいないと、先輩達が苦しむのが目に見えてる。正直あまり好きじゃない人達だけど、そんなの無視できない……。
だってこんな時に休んだら、また嫌われるし憎まれる。そうなれば会社での居心地が悪くなる。辞めたら生活に困るのは私だけじゃない、家族もだ。だから辞めないために立ち回るのは自然な事だろう。
そうわかってるのに、どうして涙が止まらないんだろうか……。




