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金木犀を知らない私達  作者: 砂山 海


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第五章~その1~

 前進も後退もしない、現状維持の日々。社会人六年目になっても相変わらず人間関係はそのままで、後輩も入ってこない。職場からはそれなりの扱いをされているけど、下っ端のまま。

 心寧や詩織の会社は新卒の子が年々来るため、先輩として指導したり振舞っているみたいだ。何だかそういう事すら仕方ないのだろうが、差を感じてしまう。ただもう、以前ほどは感じなくなってきた。

 大人になったのか、それとも諦められるようになってしまったのか。

 誰かが言っていた。大人になるには背負った荷物を捨てられる覚悟があるかどうかだと。確かに思い出全部背負ってはいけないし、人間関係全部引っ張っていけない。潰れる前に忘れたり、切り捨てたり、諦めたりして前に進んでいく。

 それでも私が捨てられないもの、それはもうしなびて硬くなってしまったかのような心寧への恋心。

 心寧へはまだ自分の気持ちを伝えられていない。そして心寧からも特に何も無い。私達はただ、以前と同じように近況報告を楽しんでいる。しかし頻度こそ週に三度だったのが、週に一度か二週に一度のペースになってきていた。

 相変わらず心寧は東京での生活を満喫しているみたいだ。羨ましいなと思いつつ、もう慣れてきたからか以前ほど嫉妬したり卑屈になったりはしない。もうそんな事でいちいち心を疲れさせる事自体が無駄だとわかってきたから。

 大人になったのか、それとも心に瑞々しさが失われてきたのか……。


『でね、今日は会社の人と池袋にある有名なラーメン屋に行ってきたんだ』

 いつものようにメッセージのやり取りが始まると、心寧が画像付きで美味しそうなラーメンの写真を送ってきた。とんこつラーメンだろうか、白濁しているスープに色々なトッピングがあって美味しそう。そういえば最近、お店でラーメン食べてないかも。

 そして少しだけ映る心寧の青いネイル、素敵で可愛らしい。

『いいね、美味しそう。東京は何でもあるから、ラーメンも美味しいんでしょ』

『お店は多いからね。ここも美味しかったよ。でも、そっちにいた時に和葉と食べに行った「木蓮」の方が美味しかったかも』

 そう言えば心寧が大学生の時に行ったかもしれない。一度しか行ってないけど、確かに美味しかった覚えがある。確か二人とも醤油ラーメンを食べたはずだ。

『美味しかったよね。でも私、東京のラーメンも食べてみたいな』

『こっち来ることがあったら幾らでも紹介するよ』

 行けないのを知っているのに……。社交辞令だろうけど、少し虚しい。


『今日は映画観に行ってきたんだ。「逃走者マチルダ」ってやつ。和葉知ってる?』

『うん、知ってる。観に行きたいとは思っているんだけど、なかなか一人じゃね。ねぇ、面白かった?』

 またある日は映画談義。そんなに回数は多くなかったけど、何度か心寧とも映画館に行った事はある。詩織が純愛映画好きだったけど、心寧は割とサスペンスやホラーが好きだった。だからか、私と映画の趣味が合ってよく盛り上がったものだ。

『面白かった。いつか観るだろうからネタバレは伏せるけど、疾走感が凄かったんだよね。九十分、ずっと息を飲む展開。オススメだよ』

『えー、面白そう』

『すっごい面白かったよ、私は。まぁ、周りにこういう映画好きな人いないから一人で観てきたんだけどね。本当は感想言い合いながらお茶したかったんだけど、一人だとねぇ』

 まぁ映画は好きでもないのに長時間拘束されて安くないお金を払う以上、趣味が合わないと一緒に行く人を見つけるのは難しいだろう。

『わかるわかる。私も映画終わったらその感動をすぐ言葉にしたいからさ、誰かと一緒に行きたいってのはわかるよ』

『じゃあさ、和葉も是非観てきてよ。でさ、終わったら話そう。私、そういうのしたいんだよね』

『面白そうだね。じゃあ今度の休みの日にでもちょっと行ってこようかな』

 そこまで心寧が勧めるのならば、観てみようかな。心寧も一緒に語り合いたいだろうし、そういう時間があってもいいだろう。


『はー、たまにはそっちに帰りたいな』

 半月ぶりのメッセージとなった心寧からのそれは疲れが滲み出ていた。私も話題が無いから、何か話したいなと思いつつずるずると日が経ってしまっていたのは反省すべき点かもしれない。

『そういえばそっちに行ってから帰ってきてないんだっけ?』

『色々忙しくてね。覚える事もたくさんあるし、なかなか休み取れなくてさ』

 あぁ、やはり大手香料メーカーともなると私のとこよりもずっと忙しいんだろうな。専門的な事も多いだろうし、大学の勉強では学べなかった事もたくさんあるだろうから、学び直しも多いのかもしれない。

『こっち戻ってこれたら、会いたいな』

『そうだね。私も和葉に会いたい。でも帰るにしても気軽に帰れる距離じゃないし、お金だって結構かかるからね』

 ふと私は小さなトゲのようなものを感じた。それは本当にぼんやりとした違和感。

『遠いよね、北海道と東京は』

『そうだね。思ったよりも、かな。帰ろうと思えば帰れるのかもしれないけど、やらなきゃならない事が多くて、どうしてもそっち優先になっちゃって』

『ねぇ、心寧。最近何か美味しそうなお店とか行った?』

 何が私に違和感を与えているのかわからない。ただ、薄ぼんやりと心寧が疲れているんじゃないかと思い始めていた。

『え、何急に? 美味しいお店かぁ、言われてみればあまり無いかも』

 私は夢を持って東京に行ってキラキラした生活に憧れや羨望、嫉妬を抱いていた事もあった。綺麗な心寧がどんどん綺麗になって垢抜けて、こんな芋臭い地味な私とどんどん差をつけて行ってしまう事に恐れすら抱いていた。

 ただ、最近心寧からそうしたキラキラがあまり感じられないような気がする。

『たくさんあるでしょ、そっちには』

『あるにはあるけど、気軽に美味しいのは北海道のが多いよ。ソフトクリームからして、全然違うからさ』

 ソフトクリーム、そう言えば私が落ち込んでいた時に三人で新千歳空港に行って食べたな。あれは美味しかった。あの頃が懐かしい。

『大変だね心寧、こっち戻ってきたらあれもこれも食べたくなるんじゃない?』

『そうだね』

 その短い返信、心寧らしくない。


『この前和葉に言われちゃったから、ちょっと奮発してお寿司食べに行ったよ』

『へぇ、いいなぁ。会社の人が言ってたけど、マグロはそっちのが美味しいらしいね』

『そうなのかな。よくわからないや。でもサーモンとかホタテはやっぱりそっちのが美味しいと思う』

 言葉の端々から、以前の心寧ではないような雰囲気が滲む。それを感じ取る度、胸がざわつく。

『奮発したって事は回らないお寿司とか?』

『うん。あ、画像送る?』

『見てみたいな。私まだ、そういう高いお寿司屋さん行った事無いから、雰囲気知りたいな』

 少しすると、画像が送られてきた。木目のカウンターの側にはショーケースがあり、中は見えないけど高い刺身があるのだろう。置かれている寿司はマグロの漬けだろうか。見事な照りで、もうこれだけでどんなお寿司屋さんなのかわかる。

 ただ私はそれよりも、大きく目を開けて見過ごせないものをじっと見ていた。

 心寧のネイル……前と同じままだ。青いネイル。ほんの少し剥げかかっている。

 以前ならば長くても一ヶ月ごとに色を変えていた。細部にまでオシャレに気遣う心寧はいつだってこんな状態のネイルを私に見せた事が無い。だから画面の端に見えたそれは私にとって衝撃で、大きく心をざわつかせた。

『美味しそうだね。私もいつか行ってみたい。もしそっち行ったら案内してもらいたいな。絶対それ食べたい』

 けれど私はそれについて言えない。言い出せなかった。今更何を言えばいいのか、そんな指摘をしたからと言って差し出がましいだけなんじゃないかと思えば、無理にでもこの会話の流れを続けるしかなかった。

『来てくれたら案内するよ』

 少し時間が経ってからのその返信はまたも心寧らしくない冷たさがあった。


 心寧の事は心配だけど、だからと言って何が私にできるのかと言われても答えられなかった。それは単に私の心配事が増えただけ。度合いとしては大きいけど、これもまた解決できない悩み。両親の心配とか、自分の仕事環境とかと一緒。

 悩みの尽きない職場、いつだって気が重くて発言や立ち居振る舞いに気を遣い続ける職場。だけど今日は給料日。数日前に渡された給与明細で幾ら入るのかわかっているけど、五十時間ほど残業したので三十万は超えている。

「吉野さんって独身だったよね。給料入ったら何かパーッと使う事ってある?」

 望月課長が雑談の中で不意に私に話を振ってきた。私は申し訳無さで苦笑しつつ、首を横に振る。

「いえ、無いですね。両親が身体弱くてあまり働けないので、家計に結構入れてるんです」

 すると富永さんや長野さんも興味深そうに私の方を見てきた。

「へぇ、若いのに苦労してるんだね」

「でも独身のうちに少し遊んどいた方がいいよ」

 遊ぶ、か……。この世代の遊ぶは異性とどこか高いご飯食べたり旅行に行ったりしてお金を使う事なんだろうな。正直そのくらい余裕は欲しいけど、でも難しい。そしてこれをどんなに丁寧に伝えたとしても、伝わらないだろう。

 むしろ言えば言うほど、煙たがられそうだ。

「そうですねぇ」

 曖昧に笑うのも慣れてきた。私がこの職場で覚えたスキルの一つ。場の空気を壊さずやり過ごしておけば、少なくとも嫌悪は向けられない。

 ただ、苦痛なのは変わりないけど。

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