その2
「あのさ、和葉」
少し長い沈黙を破ったのは心寧だった。私がその声に視線を戻せば、じっと私を見詰めているのに気付き思わず息を飲む。
「一緒に東京、来ない?」
私は思わず大きく目を開き、その言葉を頭の中でもう一度繰り返す。聞き間違いじゃないか、言葉そのままの意味なのかと。口が半開きになっているだろうけど、あまりの事に戻そうという気持ちさえ起らない。
「東京に?」
するとすぐ心寧が表情を崩す。柔らかく笑う表情はいつものよう。けれど私はその眼の奥までが笑っていないように見えた。
「うん、二人でさ。ほら、東京って同じ仕事してもお給料いいし、何だかんだ色んなものがあるよ。色んなお店もイベントもあるから、絶対楽しいし。和葉前に言ってたじゃない、東京に行ってみたいって」
言ったような気がするけど、でもそれは一般論であり学生の時の話。今はもう、気持ち一つで決められるほど身軽じゃない。現実の中にいるのだから。
「あー……うん、まぁ。ただほら、仕事あるからさ。難しくて」
心寧は静かにうなだれていく。私は不味い事言ったかなと不安になり、グラスに手を伸ばせない。何て言えばいいのか迷っていると、ゆっくりと心寧が私を覗き込むように顔をあげてきた。
「気を悪くしたら謝るけど、それって一生の仕事? 今の仕事、ずっと続けるの?」
私は思わず唇を真一文字に結ぶ。
「そういうわけじゃないけど……」
そんなわけない。ただ、ようやく会社の中に居場所ができて、人間関係にも慣れてきた。話せる人も増えてきたし、息の抜き方もわかってきている最中。嫌な事だってもちろんあるし、会社に行きたくないと思えるのは毎朝。
けれどそれら全部捨てて見知らぬ土地に行けるかと言われたら……。
「急にはまぁ、無理だよね。私もほら、高校卒業してからずっと同じとこで働いてるし、バイトじゃないからさ、急に辞めるとかそういうのは」
きっと私、悲しそうな眼をしているのかもしれない。一生懸命笑っているけれど、こんな嘘はバレバレだろう。
私だって、心寧と離れたくないから東京に行きたい。
でもそれは今までの私の決断を軽くさせてしまう。
「……そうだよね、ごめん変な事言って。私、ただ」
すうっと落ちていく心寧の視線を止めるよう、私は必死に言葉を紡ぐ。
「いいの、うん。気にしないで。気持ちは嬉しいんだ、すっごく。それはわかって欲しいな。私もさ、こう言っちゃなんだけど応援したい気持ちと同じくらい、寂しいんだよね」
「和葉……」
言えた。私の精一杯の気持ち、やっと伝えられた。
だけどそればかりじゃ、心寧を困らせてしまう。私は前からちょっとずつ覚悟を固めていたじゃないか。心寧の夢を応援するって。心寧の旅立ちを祝福してあげるんだって。
だから私は笑った。今度はもう精一杯元気に。社会人生活で身に着けた建前の仮面をつけ、未だ片思いの相手にこれでもかと口角を上げる。
「でもね、やっぱり夢を叶えて欲しいんだ。心寧は私が出来なかった事をたくさん叶えられると思っている。あぁ、違うね。この言い方だと重たいか」
軽く笑うと私はグラスを傾けた。ややぬるくなったカシスオレンジがするりと入り、そのわずかなアルコールにすがる。
「向こう行ったらさ、今まで以上に連絡取り合おうよ。何でもない話でも、沈黙でもいいよ。そうしてたまに帰ってきた時にはこうして飲もう。ね、約束だよ!」
「うん、そうしよう。絶対そうする」
硬く悲しみがかった顔がほどけていく。心寧がにこりと笑ったのを見て、私はその肩をじゃれ合うように叩いた。すると心寧も私の肩を叩き返す。それが合図となったのか、何だかすごく笑えてきた。
「なんか湿っぽくなっちゃったね。私さ、まだ食べ足りないんだけど注文していい?」
「いいよ、もちろん。あ、じゃあ私も頼もうかな。和葉、この彩りポテトフライ食べる?」
「うん、食べる。私はね、ピザ食べようと思ってさ。心寧はマルゲリータとペパロニとクワトロフォルマッジョのどれがいい?」
「和葉の好きなのでいいんだけど……クワトロかなぁ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる心寧に私は大きくうなずく。
「やっぱりチーズたっぷり、味変でハチミツとか魅力的だよね。カロリーの事は今は忘れるようにしよう」
「こんなとこまで来て、そんなの考えないよ。もう、今日は思いっきり食べて飲むんだって気合入れてきてるんだからさ」
「じゃあお酒もおかわりしないとね」
先程の空気はどこへやら、すっかり笑い合う私達は高校時代のあの頃のよう。今だけはもう何も考えず、こうしていたい。屈託なく笑う心寧の傍にいて、その声を表情を心に刻みたかった。
そうでもしないと、心寧が北海道からいなくなれば耐えられそうにないから。
「それじゃあ、またね」
私が先に電車から降りると、過ぎ去るまで心寧に手を振った。電車はすぐに夜の闇の中へと消えていく。遠く過ぎ去った電車を見送っていた私の周りにはもう誰もいない。凍えるような冬の夜風が肌を刺す。
それなりに酔っ払ってしまったと自覚し、酔い覚ましに歩いて帰ろうかと思った。けれど駅舎を出れば小雪が降ってきた事に気付き、諦めてタクシーに乗り込む。もう雪の中を十数分も歩くのはきついし、おまけに酔っ払っている。今日はお金を使ってもいい日だと自分に言い訳しながら。
時刻は午後十一時。家族はもう寝ているため、静かに鍵を開けてそっと家の中に入る。私は電気を点けてぶつからないようにしつつ、自室へ入った。
酔い覚まし用に買ったお水を半分ほど飲み、部屋着に着替える。よれて毛玉だらけのスウェットの上下はまだ暖かく、買い替える必要性を感じさせない。私はトイレに行ったついでに軽く歯磨きをし、また部屋に戻った。メイクはもう、落とす気力が無い。明日の自分に任せるとしよう。
このまますぐに横になれば、あっと言う間に寝られそうだ。そう思っていたのに、どうしてか私はベッドに腰かけ心寧の事を思い出していた。
『一緒に東京、来ない?』
寂しげで真摯な表情の心寧の顔が今もはっきりと思い出せる。明確に差し伸ばされた手、きっと他の誰にでもは気軽に言ってないだろう言葉。どこまでの意味を持っているのか、それはわからない。でも、その誘いはとても嬉しかった。
だけど私はそこに手を伸ばせなかった。
お酒臭い溜息が漏れる。ぼうっとカーテンの隙間から外を見ようとしたけど、もう外は真っ暗で何も見えない。自分の慣れ親しんだ部屋のはずなのに、今は妙に広く感じる。
「東京、かぁ……」
札幌からは飛行機一本で行けるとはいえ、やはり遠い。そして海を越えると言うのは心理的にも大きな壁がある。旅慣れていないからだろうか。いやでも、そういうのじゃない。
やっぱりそれは心寧について行ったとして、生活基盤を作れるかどうかが一番不安だった。すぐに就職できるのか、私のような人間が通用するのかという仕事探しもそう。また一人暮らしをした事が無いため部屋を借りられるのか、どうやって公共料金を払うのか、自活できるのかという問題も大きい。
それに知り合いもいない。一緒に行くとしても、ずっと側に心寧がいるわけじゃない。こっちは何だかんだと両親がいて、詩織がいて、もうほとんど切れかかっている縁だろうけど友達もいる。会社の人達だって、ちょっとは心強い。
そう、両親の問題があるんだ。お母さんは最近体調を悪くしていて、病院通いが続いている。何でも眩暈がすると言って、仕事も休みがち。お父さんは職場に復帰しているけど、もう無理は出来ないからと仕事量を抑えてもらっているらしい。そのため、私がお金を入れないと家計が回っていないのだ。
「遠いなぁ」
漏れた呟きが窓に張り付いた結露とくっつき、落ちていく。私は酔いで重だるくなった頭をそのまま沈め、膝に埋めた。
「意気地なし……」
その呟きは心の奥底へと沈んでいった。




