その10
「吉野さん、これ前も言ったでしょ。覚えられないのなら、メモしてよ。あとね、メモは取るだけじゃ駄目なんだからね。わかるでしょ、子供じゃないんだからさ」
お昼前の事務所に長野さんの強い言葉が響き、私に降り注ぐ。私はもう小さくなり、か細い声で「すみません」と言いながら頭を下げるばかり。
「伝票って金額入ってるんだから、別の荷主やベンダーに送ったら大問題になるんだよ。うちはこの金額でやってるのに、あっちはこれだけ安いなんてどう言う事かってクレーム入るんだよ。そうなったら取引停止になるんだよ。責任取れるの?」
「すみません。気を付けてたつもりなんですけど……」
「つもりじゃ駄目なのよ。いつまでお客様気分なのよ」
怒号が私を貫き、えぐる。事務所にいる他の人は何も言わない。だって悪いのは私だから仕方ない。そうわかっているのだが……。
事の発端は一本の電話だった。長野さんが受けたのだが、すぐに謝り倒していたのでただ事じゃないなと思いつつ私はパソコンで日課のデータ集計をしていた。そうしてその電話が終わるなり、長野さんが私を睨みつけたのだった。
「だからさぁ、前から言ってるでしょ。受領伝票はちゃんと行き先確認してって。似た店名もあるんだから、なおさら気をつけないと。しっかりしてよ」
「すみません。気を付けます……」
もう涙をこらえるのは限界だった。でも、泣いたら更に何か言われる。周囲からもみっともないと思われる。だからもう、それだけは堪えた。鼻の奥が痛くて視界が揺らぎ始めていても、最後の最後は堪えようと。
お昼休みに入ると、私は「お弁当買ってきます」と言って事務所を出た。本当はいつも持参しているカバンの中に手製のお弁当が入っている。でも今はもうここにいたくなくて嘘をついた。もったいないと思う気持ちよりも、ただ逃げたかった。
十月の風が頬を撫でる。優しくも冷たい風。私は背を丸め、コンビニに入った。
「情けない……何でいつも気を付けているのに、あんなミスしたんだろう……」
コンビニで飲み物と総菜パンを二個買うと、その駐車場の片隅で私はパンにほのかな塩味を足しながら口に運んだ。何であんなミスをしたのか、自分でもよくわからない。もう戻りたくないけど、そんなわけにもいかないだろう。だって社員なのだから。
食べている最中、吐きそうになった。それを我慢して飲み込めば、またパンが入っていたビニールにポタリと音を響かせてしまう。私は二個目を一口かじったらもうそれ以上食べられず、うなだれて顔を覆った。
午後からの時間は正直、針のむしろだった。長野さんに怒られた事を誰も触れず、また私に雑談も振らない。でも課長はにこやかに配車係の生駒さんと話しているし、長野さんはあの怒りを忘れたかのように富永さんと下らない雑談で笑っている。
私だけが、黙々と作業をしている。私だけが、うっすらと嫌われている。
わかっていた、最初から何となくわかっていた。私はうっすら嫌われていたんだと。この職場に来た時から、何でこんな子がという感じでほぼ全員に思われていた。ハッキリ嫌われているのなら、すぐに辞めた。でも人手不足だから、そうはしなかったのだろう。
結局その日、私はただの一言も雑談に参加せず仕事を終えて帰宅した。
「ごちそうさまでした……」
晩ご飯は私の好きな唐揚げだったけど、半分ほど食べるともうお腹がいっぱいになったので私はそっとそれを下げた。お腹がというよりは悪い意味で胸がいっぱい。するとお母さんが心配そうに私を見ているのに気付いたので、自室に戻る足を止めた。
「どうかしたの?」
するとすぐお母さんが左右に首を振り、不安げな眼差しで見詰めてきた。
「あ、ううん……和葉、仕事忙しいの?」
「……そうだね。ちょっと忙しくて、疲れてて」
「無理しないでね」
その言葉を背に受け、私は自室へと向かった。
無理しないで、か……。そんなの、無理だよ。
自室に入ると、私はごろりとベッドに横になった。親の優しさが染み入るのと同時に、苛立ちも生まれる。私が頑張らないと、この家はどうにもならないんだから無理するしかないのに、と。
でも、無理をした所で会社では針のむしろ。それにすぐ転職をしたところで、市場価値が落ちるかもしれない。一度逃げ出せばより悪い方へと落ちていくだろう。
あぁ、逃げる事さえできない。
枕が濡れていく。思考が泥沼に沈んでいき、足掻こうとすればするほど嫌な想像が頭を占める。会社に行けばまた会話の輪に入れず、ミスしないようにと緊張してオドオドして苛つかせるだろう。自分達のミスは笑って済ませ、私のミスはきっとまた怒られるんだ。
会社にもう行きたくない。でも行かないと生活できない。
目の端が涙で溺れている。胸が苦しく、喉に大きな異物があるみたいだ。頭の後ろが貧血のように気持ち悪い冷たさでおおわれ、手が震えてやまない。
誰かに話せば楽になれるのだろうか……。
視界の端にスマホが見えたので、ゆっくりと手を伸ばす。そうして私はアドレス帳を開いて登録されている名前を見ていく。柿本詩織、辻本心寧……あとはもう、いないに等しい。数十件登録されているのに、二人しかいないなんて。
もうメッセージを送る気力は無かった。通話ボタンでさえ押すのが辛い。もう心は今にもバラバラになりそうで、頭の中はずっと消えたいとしか考えられない。
そんな状態なのにこんな私をさらけだしていいものか、迷惑じゃないかと考えてしまう。
数十秒の葛藤、画面が暗くなりかけるとまた指で触れて元に戻す。きっと真っ暗になってしまえば、もう私は一切の繋がりを失ってしまう。そんな切迫感が胸を占めているのに、なかなか決断できないでいた。
あぁ、私はもう駄目だ。これで最後にしよう、きっとこれが最後……。
「……もしもし」
ようやく通話ボタンを押せた私はコール音が終わると声を振り絞る。けれど泣きすぎてかすれた声しか出てこない。あぁ情けない、恥ずかしい、みっともない。
「もしもし、どうしたの和葉? 何かあったの?」
まるで迫るような心寧の声に私は申し訳なさがまた爆発し、涙がこぼれる。どうして電話してしまったのか、もうわからない。ただ、心寧の声を聞きたかったのかもしれない。甘えたかったのかもしれない。
でもきっと迷惑だ。
「ねぇ和葉、どうしたの? お願いだから何か言ってよ」
「私……私……もう、駄目かも……」
途切れ途切れの声でやっと絞り出したそれは私にとってもう反射のようなものだった。何故駄目か、どうして駄目かはもう考えられない。ただ、その言葉だけが出てきた。
「和葉、家にいるの?」
「……うん」
「今から行くから待ってて。一旦切るから」
それだけ聞こえると、通話が途切れた。
聞き違いだろうか、今から行くと言っていた。でも心寧、私の家に来た事が無い。およその場所は知っているかもしれないけど……。
考えたってわからない。でも聞き直す勇気も無い。これで終わったら、もうそれまでだ。
それでも私はスマホを握りしめ、もうすっかり冷たい枕をまだうっすら濡らし続ける。スマホの画面はもう暗い。もう何をする気も無い。
きっと明日も会社に行き、酷く疲れて帰ってくる。明後日も会社だ。そうして限界まで歯を食い縛り続け、それが砕けたらもう知らない。何もかもをやめよう。きっと私は自分の車で遠くに行くだろう。
そうして山の中か、海の見える場所で寝よう。何もかもを捨てて。
すると不意にスマホが鳴った。慌てて名前を見れば心寧だった。さっきの電話から十五分が経っている。
「もしもし」
「あぁ、和葉。良かった。あのね、多分近くまで来たんだけど、場所わからなくて。今タクシーなんだけど、住所教えて欲しい」
本当に来たんだ……。
驚きと嬉しさと申し訳なさが混ざり合い、私の心がまた揺れ始める。
「二条三丁目五の十二、コーポ丸山ってとこ」
「ありがとう。多分すぐ着くから」
また通話が切れた。だけど私はもう光を感じ始めている。私はゆっくりと起き上がると、指先で涙の痕を拭う。そうして髪の毛を何とかしようと思っていた矢先、インターホンが家の中に響いた。
部屋から出ようとしたけど、足に力が入らずその場にへたり込んでしまった。すると部屋の外からお母さんが応待する声が聞こえてきた。話し相手は心寧。本当に来たんだという驚きと嬉しさが胸に生まれ始めた時、私の部屋のドアが開いた。
「和葉」
心寧が後ろ手でドアを閉める。パーカーとジーンズ姿にすっぴんという簡素な姿だったけど、私が見た中でどんな姿よりも綺麗に見えた。その姿を見て私はまた涙が溢れてしまう。
「来てくれたんだ、本当に」
「当たり前でしょ。私の大事な人がそんなに弱ってるんだよ。そりゃ行くよ」
その言葉がまた涙腺を刺激する。声はあげない、迷惑だから。私はもうずっと、色々な物を我慢し続けてきた。それが癖になっていて、甘える事ができない。だからどうすればいいのかわからないでいると、心寧が膝をついて私をそっと抱き締めてきた。
「和葉、もっと私を頼って。和葉に比べたら頼りないかもしれないけど、でも力になりたいの。和葉はずうっと頑張っているんだから、たまには頼ってくれてもいいんだよ」
「うん……ありがとう、ありがとう……」
私はもう縋るように抱き締め返し、その肩口を濡らす。灰色のパーカーのそこは濃い鼠色へと変わる。悪いと思いつつも、離れがたかった。柔らかく温かく、良い匂いがする心寧。私はずうっと求めていたのかもしれない。
「大丈夫。私はどんな事があっても和葉の味方だから。それは信じて欲しいな」
「うん、わかってる。だから電話しちゃった……ごめん」
ポンポンと心寧が私の背を軽く叩く。それが妙に落ち着く。
「謝らなくていいよ。でもよかった。こんな事言ったらあれだけど、私ちょっとだけ最悪の想像をしちゃってたからさ」
その言葉にドキリと胸が痛む。だって考えてはいたから。
「また話せて嬉しいよ。和葉がいないと私、寂しくて」
「……私も、だよ」
論理的で筋道だった慰めや解決方法なんていらなかった。偉い人が素晴らしい経験に基づいた高説なんて必要無い。ただ心寧にそう言われ、そう思われ、抱き締められる方がずっと私の心を救ってくれる。他の誰にも、真似できない。
しばらくそうしていると、ぐうっと大きなお腹の音が鳴り響いた。すると心寧が私から離れ、照れ笑いを浮かべる。
「いやぁ、ご飯食べようとしてたとこだったから、何も食べて無くてさ」
「あ、ごめん」
「だから謝らなくてもいいんだってば。あのさ、どっか食べに行ける? 無理ならちょっとコンビニでも行って来たいんだけど」
照れ笑いを浮かべる心寧に私はほんの少しだけ考えると、自然と生まれた笑みを見せた。
「なら、ファミレスでも行こうか。今の時間ならまだやってるからさ。でも私、髪ボサボサだし化粧もしてないからちょっと待って」
「えー、私すっぴんなんだけど。もういいじゃない、このまま行こうよ。お腹空いたし、高校の頃はそれが普通だったでしょ」
別に心寧は化粧なんかしなくても十分可愛いけど、私が隣に並んだら見苦しいだろうに……。
そんな思いは目の前の心寧のいたずらっぽい笑みですぐにかき消された。
晩ご飯時を過ぎたファミレスは人もそういなかった。私達は注文すると仕事の愚痴から話題が始まったが、やがてすぐに取り留めのない雑談へと変わる。芸能人の色恋沙汰、好きな音楽の話、最近ハマった事、やりたいけどできていない事など結論がロクに出ないまま話題があちらこちらへと移っていく。
でもそれでよかった、それが心地良かった。まるで高校生の頃のように話す私達はあの苦しみも涙も忘れ、屈託なく笑いながらポテトを頬張りコーラを飲む。満たされていく感覚がどうしてあんなにも世の中を敵視し、自分を傷付けていたのかわからなくさせる。
でも、そこを見詰めはしない。だってそうさせてくれたのは心寧。あの時、何もかもをなげうって心寧が十五分くらいで来てくれた。そうじゃなかったらきっと私、もう一生笑えなかったかもしれない。
あぁ、心寧はいつまで経っても心寧のままだ。大好きだ……。




