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金木犀を知らない私達  作者: 砂山 海


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第三章~その1~

「吉野さん、この伝票の束をコース別に分けて袋に入れておいて。どこにコース番号が書いてあるか、もうわかるでしょ」

「はい、大丈夫です」

 指導係の四十半ばの女性社員である富永さんにそう訊かれ、私はしっかり目を見て返事をする。束になったA4用紙の伝票を受け取ると、私は自分の机に座った。使い回され、幾ら綺麗に拭いても汚れの落ちない中古のデスクが私の持ち場。

 トントンと机に軽く叩きつけるようにして伝票を揃えると、私は右上に記載されている番号を確認しながらそれぞれ振り分け始めた。

 高校卒業目前で受験を取りやめた私は学校の先生から渋い顔をされ、もうどうにもならない事を告げられた。時期が時期だけにしょうがないと覚悟を決めていた私はネットで仕事を探し、中小企業の小寄りである『朝倉運送株式会社』に何とか就職する事ができた。

 運送会社に強い憧れがあったわけじゃない。むしろ怖いイメージすらあった。

 だけどまだ車が無いから公共交通機関で通えそうなのと、四週六休で初任給二十三万という部分は私の中で大きかった。あと、他にも数社受けたけど、面接した感じがよくなかったからというのはある。

 高校の就職支援があればもう少し何とかなったかもしれない。でも三月頭から自力で中堅や大手の企業は就職できなかった。エントリーシートの書き方もわからなかったし、そもそも企業説明会すら行っていなかったのだから。

 そういうのも含めて、人生なんだろうな。

「吉野さん、わからない事あったら訊いてね。そうして自分でメモして、それをまとめておくんだよ。自分でマニュアルを作っていくの」

「はい、わかりました」

 伝票を整理していると、私のチェックをしている富永先輩がそう声をかけてくれた。今時間はドライバーが出払っているため、事務所には私を含めて五人しかいない。他には運行管理の生駒さん、望月課長、事務の先輩である長野さんだ。入社して半月、やっと事務所の人達の名前と顔が一致してきた。

「どうだい、吉野さん。やってけそうかい?」

 伝票整理が一段落すると、そう言いながら望月課長が冷たい缶コーヒーを持ってやってきた。ひらひらと軽く振りながら持ってきてくれたそれは私の好きな微糖。ブラックが飲めない私からすれば、ありがたい。

「はい、大丈夫だと思います。ありがとうございます」

 私は丁寧にそれを受け取ると、そっと机に置く。すると望月課長がにこやかな笑顔を向け、自分の缶コーヒーを開けた。

「うんうん、若いのに礼儀正しいね。まぁ、大型連休前とか年末とか繁忙期は忙しいけど、それ以外は割と暇だからゆっくり覚えてって。ねぇ、富永さん」

「暇なのは課長だけですよ」

「いやいや、見えないとこでちゃんとやってるよ俺」

「吉野さん、課長の仕事は私達にコーヒーおごってくれるくらいだから。ほら、私達には仕事してないでしょ」

「長野さんもそんな事言うんだから。いやいや、後でちゃんとおごるから。新人には特に優しくしないとねぇ。うちみたいなとこに新卒の子が来たんだよ。金の卵は大切に育てないとでしょ」

 笑顔を向けられても、私はまだ愛想笑いしかできなかった。

 高校までは同じくらい年齢の子ばかりで、年配といえばせいぜい先生くらい。けれど就職すれば私よりずっと年上の男女が年齢もバラバラで同じ事務所にいる。バイトをしていた時にはあまり感じられなかった社員としての立場や状況も、今の私にはまだ荷が重い。

 そしてそれは他の社員もうそうなのかのしれない。

 現に私だってやたらと気を遣われているんだなというのがわかる。最近はどんなのが流行ってるの、このキャラクターって若い子には人気あるんでしょ、などと無理にでも私との会話を作ろうとしてくれているからだ。

 私も私で何とか話をしようとか話題についていこうとするけど、まだ距離感がわからずに愛想笑いばかり。凄く優しく教えてくれているし、休みだって優先して取らせてくれる。ミスしても怒られはしない、やんわり注意されるだけ。

 嬉しいけど、それがかえって私の心を疲弊させていく。

 朝の八時に出社した私は夕方五時半に仕事を終える。先輩達はまだ残っていらしいから、これは新人の私への配慮なのかもしれない。ともあれまだまだ身も心も慣れていないからありがたく、私は「お疲れ様でした」と頭を下げると事務所を後にした。

 ここから少し歩いて地下鉄に乗り、そうして電車で最寄り駅へ。通勤時間は多めに見積もって一時間。疲れた身体で立ちっぱなしだったり、人に押されるのは辛いからそろそろ車が欲しくなってきた。

 実は免許は持っている。受験を諦めた数日後、すぐに私は自動車学校に行ったのだった。北海道で就職するなら免許が無いと始まらないと言うのが両親の持論だったため、集中的に通いつめ一ヶ月ちょっとで取得した。

 けれど車が無かった。いや買おうと思えば安い中古でもいいのだが、どうせなら新車を買いたいなという欲望が私の中で確かにあったのだ。受かるかどうかわからなかったけど、心寧とのキャンパスライフを捨ててまで選んだ道。せめてそのためにと貯めた貯金をご褒美ってわけじゃないけど使いたかった。

 ただ、最近の物価高で軽自動車は凄まじく高かった。

 家にお金を入れているけど、ちゃんと自分の分は残してある。それでもなお六十万ほど足りない。免許を取ったからというのもあるけど、車は驚くほど高かった。今は家に月十万円入れてるけど、それ以上は減らせない。だってお父さんは退院したものの、まだ自宅でリハビリ中。仕事に復帰していないから、家計的に厳しい。

「というわけで、どうしようか迷っているんだよね」

 夜十時、私は久し振りに心寧と通話していた。違う道を行く事になったものの、こうしてたまに話す。一週間ぶりの通話なのに、毎回メッセージを送って電話していいかと訊く時は怖くて泣きたくなる時がほとんどだ。

「えー、和葉すごい。車買うんだ。でも高そうだよね」

「そうなの。私が欲しい奴は新車で二百万以上するからさ」

「えぇ?! 軽でしょ? そんなにするの?」

 感情豊かな心寧の言葉に私はつい頬が緩む。心寧と話している時だけはあの机を並べていた時に戻れる。それが胸をいつも熱くさせる。

「そうなのさ。ローン組むのは怖いし、金利とかで高くなっちゃうんだよね」

「そっかー。でも折角だったら新車は欲しいよね」

「まぁ、色々考えてみるよ。それより心寧、大学はどう?」

 自分の話ばかりしていても何だからと心寧に水を向けると、少しだけ間が空いた。

「まぁ、楽しいよ。とりあえずサークルにも入ったし」

「へぇ、何て言うサークル?」

「植物研究会ってとこ」

 随分と真面目そうなところだな。でも、そういうのが心寧には合っているのかもしれない。

「なんでまた、そこにしたの?」

「誘ってくれた先輩がいい感じだったんだよね。あと、高校の時に金木犀の匂いの話題をしたの覚えてる?」

「うん、覚えてるよ。修学旅行の時に嗅げなかったのは今でも残念だなって思ってるよ」

 まだ残る胸の痛み。きっと一生取れない傷になったあの日の出来事。

「私も。でね、その頃から私、花の匂いってのに興味が湧いてたんだよね。それでまぁ、将来は調香師にたりたいなって思うようになってきたんだ」

「チョウコウシ? なにそれ?」

 聞き慣れない言葉に私はスマホを持ったまま首を傾げる。

「えっとね、匂いを作る職業って言ったらいいのかな。制汗剤とか香水とか、色んな物を調合してそのものの匂いに近付ける仕事」

「えー、カッコイイ。心寧ならなれるよ」

 大学生になり、さっそく将来の夢に向かって歩き出そうとする心寧は電話越しでも輝いているかのようだった。まだあれから会えていないけど、きっとあの頃よりも素敵になっているんだろうな。

「ありがと。和葉にそう言ってもらえるのが一番嬉しい」

 弾むような声に私もわずかに口角が上がる。香水とかを作る職業かぁ、自分の叶えたい夢に向かって就く仕事ってのはきっと素敵なんだろうな。

「それじゃあ自分で電話しておいてなんだけど、明日も仕事あるからここらで」

「うん。また話そうね。おやすみ、和葉」

「おやすみ、心寧」

 通話を終えると少し熱くなったスマホをそっと置き、私は思わず天井を見上げた。電灯が眩しく薄目になるが、すぐに慣れてぼうっと数秒そのまま。そうしてゆっくりベッドに倒れ込むと、胸にこもった息を吐く。

 いいなぁ。

 羨んでも仕方ない、憧れたってどうしようもない。わかっているのに、考えてしまう。それに対して心寧に負の印象を持つことはもうない。だってまだ……好きだから。

 悪感情を向けてしまうのは自分自身に対して。

 私は今までの人生、本当に精一杯やってきたのだろうか。それがわからない。就職だって妥協で選んでしまったというのはある。全て手を尽くした結果ではない。

 そもそも受験勉強だってやろうと思えばもっとできたはずだ。睡眠時間をもっと削って、もっと隙間時間を有効に活用して、心寧くらいの成績だったとしたらあの時私は就職を選んでいたのだろうか。あの時は受かるかどうか不安定なラインだった。けれどもう合格間違い無しだったら、どうだっただろうか。

 そっと目を閉じ、溜息もう一つ。

 それができないから私なんだろう。

 明日も仕事だと思うと、気が重い。仕事を終えてからどこかに行く気力がわかないから家と職場の往復になっている。休日だって疲れて寝てばかり。隙間時間といえばスマホでショート動画をあさるくらいしかやっていない。

 まだ寝たくないけど、寝ないと明日が辛い。そう思うと私は渋々部屋の電気を消した。私は枕元に置いてあるスマホに名残惜しさを含みながら目を遣る。もうスマホも、すっかり暗くなっていた。

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