その9
「じゃあ、気をつけて。私は一晩泊っていくから」
お父さんの手術が無事終わったのを見届けてから、私はお母さんに勧められて一人家に帰った。もう真っ暗なのでタクシーで駅へと向かい、それから電車で最寄り駅へと向かう。
雪が少し強まっており、街頭の灯りに彩られ赤く不気味な色をしていた。
どう話したらいいものか……。
病院を出てからそればかりずっと考えている。心寧に受験を辞めると話さないとならないけど、言い出しにくい。ぎゅうぎゅうという雪を踏む音がやたらと耳に響く。まるで私の心の叫びのよう。
あんなにも応援し、一緒に勉強をしてきた。成績が上がれば自分の事のように喜び、丁寧に教えてくれた。そんな時間を全部無かった事にしてしまうのだ、どう取り繕った所で落ち込まれるだろう。
かと言って言わないわけにはいかないし、隠し通せるものではない。だって当日、試験会場に私はいないのだから。
「まいったなぁ」
今更受験に戻るつもりはなかった。お母さんにはきっと自分達のせいだと思わせたけど、でも仕方ない。だってこうしないと生活できないのだから。生活にあえぐ両親を尻目に大学に通うなんてできるわけがない。
答えが出ないまま家に帰ったのはもう夜の十一時だった。
シャワーを浴びる気力もなく部屋着に着替えると、私はもうそのままベッドに寝転んだ。誰もいない家は淋しく、寒い。お母さんは今日は病院に泊まると言っていたので、明日の朝までは私一人だ。
このまま寝てしまおうかと思ったけど、変に気が昂って寝られそうにない。私はスマホを手にするけど、表示されている時間を見て唇を真一文字に結び、また枕元に置く。けれど五分もしないうちにまた手に取り、じっと画面を見る。暗い部屋の中で煌々と光るスマホに引き寄せられる私はまるで蛾のよう。
枕を握り、何度か叩き、バタバタともがくように布団を蹴飛ばす。ぐぐっと枕にしばらく顔を押し付け、それでも脳裏に浮かぶ顔に私はもう朝まで我慢できそうになかった。泣きそうになりながら、震える指先で通話ボタンを押す。
三回目のコール音で呼び出しから通話に切り替わった時、私は一度強く目を閉じた。
「もしもし。遅くにごめん」
「あ、ううん、大丈夫。でもどうしたの、こんな時間に?」
きっと起こしてしまったのだろう、心寧の声はぼやけていた。私はまた更に胸に強い棘が刺さるのを感じると、時間も時間だからと覚悟を決める。
「心寧。私ね、受験しない事にした」
「えぇ?! なんで? どうしたの?」
耳に刺さる心寧の驚きに私はいたたまれなかった。当然の反応、予想していたリアクション。けれど、その驚きと悲痛が強く入り混じった声に私の胸はもう潰れる寸前だった。
「お父さんがね、倒れたの。心寧の家を出てからすぐ、電話かかってきたんだ」
「え……」
一気に温度が下がる。私はなるべく感情を出さないよう、淡々と言葉を続けた。
「手術は無事終わったみたいだし、命に別状はないみたい。でも、しばらく働けないだろうから、さ……とても受験どころじゃなくて」
「そう、なんだ……」
諦め、悔しさ、絶望がその一言で容易に伝わってきた。スマホを握る手が震え、耳が熱い。色んな思いが浮かんでは交差し、消えていく。喜びも悲しみも、希望も絶望もぐちゃぐちゃに入り混じり汚い虹のよう。
「今まで手伝ってくれたのに、ごめん」
私は何とかそれだけを絞り出す。
「そんな……謝らなくていいから。大変なのは和葉でしょ。だっていっぱい頑張ってきたのは誰よりも私、知ってるし。だからそんな、そんな事……」
涙声の心寧に気付くと、逆に冷静になれた。そうだ、私は泣かせるような事をしてしまったんだ。自分のせいではないけど、誰のせいもでもないけど、心寧を泣かせてしまった。それだけでもう、大きな罪を背負ってしまったかのよう。
「心寧。私ね、一緒に勉強できて楽しかった。本当に、マジのマジで楽しかった。自分が順位を上げたり、無理だと思われていた北大の合格圏内に近付く度、嬉しかった。でもそれ以上に、心寧の部屋で勉強できていたのが嬉しかったんだ」
「和葉……」
かすれた私を呼ぶ声。泣くもんか、絶対に泣かない。そんな資格、私には無い。だって私、好きな人を泣かせている。出来る事は道化でも何でもいいから、悲痛さを見せない事。ただその一点でいい。
「私さ、これから就職活動するよ。もう学校の援助は時期的に受けられないからあれだけど、高卒なら何とかなるでしょ。ま、私は何とかなるよ。だから心寧、受験頑張って。絶対受かると思うけど、最後まで気を抜かないでね」
「和葉!」
心寧の叫び声。私はもう伝えるべき事は伝えた。これ以上話していたら、未練しか生まれない。きっと泣いて、惨めったらしくすがってしまう。そうなれば泥沼だ。
「夜中にごめん。どうしても伝えたかったんだ。勝手な事ばかり言って、ごめんね。おやすみ、心寧」
「待って和葉。私、和葉と」
何か叫んでいたみたいだったが、私はもうスマホを耳から離して通話ボタンをオフにした。これ以上、何ももう無い。
今はもう、心寧の声を聞きたくなかった。
熱くなったスマホを置き、充電するためにケーブルを刺す。そうして一分もしないうちに先程までの感情を置き去りにしたまま、すうっと画面が暗転した。私は真っ暗になったスマホをしばらく見詰めていたけど、やがて背を向けるようにして寝る。
これでよかったんだ。これで。
だけど何故だろう。枕がしとどに濡れた。




