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金木犀を知らない私達  作者: 砂山 海


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その8

 心寧の家から指定された病院までは三十分以上かかった。空腹で胃が痛いけど、それ以上に胸が苦しかった。息がまともに出来ていないのか、ずうっと苦しい。まるで溺れているかのよう。

 寒さが身も心も浸食していくのを感じながら、私はひたすら祈っていた。

 病院の入口でお母さんに連絡し、五階のナースステーション前で合流した。お母さんは遠目からでももう十年は老けたような顔をしており、私に気付くなりほんの少しだけ目を輝かせて近付いてきた。当然笑顔はなく、それが私の喉をより締め付けるかのよう。

「お父さん、どうなの?」

 病院に入ってから息を整えるようにしてきたけど、やっぱり呼吸が荒いまま。お母さん

も今日はパートが無かった中で急いで来たのだろう、全く化粧をしていなかった。

「あのね、心筋梗塞だって」

 すうっと目の前が暗くなり、私は意識が飛んでしまいそうだった。同時にずんと身体が重くなり、立っている事さえ辛くてどうしようもない。でも倒れるわけにはいかないという思いだけで、何とかバランスを取っている。

 足元が頼りない雲のようだった。

「え……お父さん、どうなるの?」

「今手術中だけど、さっきお医者さんが来て早期だから命に別状は無いって言ってたよ。だからきっと、大丈夫だと思う」

 お母さんは必死に笑おうとしていた。けれど口角が上がらない。それでも私は最悪の事態を回避できた安心感で、ほんの少しだけ気が楽になった。

「そっか、よかった」

 目の前の不安げなお母さんを少しでも元気付けたくて、私は何とか笑う。頬の筋肉がすごく硬いけど、それでも私がこうしていればお母さんも気が楽になるはずだ。

「和葉、ご飯は食べたの?」

「まだだけど」

 お母さんは眉根を寄せて自分の腕時計を確認すると、私に目を向けてきた。わずかに滲んでいるようにも見えたけど、それも仕方ないだろう。

「まだあと一時間以上はかかるみたいだから、何か食べてきなさい」

 そう言ってバッグから財布を取り出そうとしたので、私はじっとお母さんの疲れ切った顔を見詰める。

「お母さんは食べたの?」

「……そうね、じゃあちょっとどこか行こうか。と言ってももうレストランは閉まっているし、外に行くのは」

 視線を落とし、弱々しく息を吐くお母さんの手を私はつかんだ。久し振りにお母さんの手を触ったけど、こんなにも細く弱々しい感じに胸が苦しくなる。

「二階に売店あるみたいだから、そこで何か買おうよ」

 私が何とかしないといけない。私が、しっかりしないといけない。

 精一杯笑いかけると、私達は二階の売店へと足を向けた。

 幸いにも売店はまだやっており、パンも何種類か置いてあったので私達はサンドイッチを買って売店側にあるフリースペースに座った。そこは入院患者もお見舞いの人も一緒になって座っており、三分の一ほど埋まっている。

「いただきます」

 お腹は空いているけど、食欲がわかない。それでも何か食べないと、今度は自分達が倒れてしまう。それはお母さんもわかっていたので、二人して少しずつだけど食べ進める。百円のコーヒーで流し込み、いつもなら五分で食べ終わるそれも十分経ってもまだ半分残っていた。

「お父さん、会社で倒れたんだよね」

「そう。事務仕事をしている最中に胸を抑えて苦しがって、それを見た会社の人が慌てて救急車を呼んでくれたみたい。病院に運ばれている最中、私の所に電話が来たの」

「人がいる所で良かったね……」

「そうね」

 もしこれで誰もいない所で倒れたりして発見が遅れていたら……そう思うと、身震いする思いだった。

「和葉」

 重苦しい雰囲気の中で私がサンドイッチを食べようと手を動かしたのと同時に、お母さんが呼びかけてきた。私はすぐに手を止め、見詰め返す。その目は暗く沈んでいた。

「大事な時期なのに、ごめんね」

「いいよ、そんな。しょうがないよ」

 自分が悪くないにもかかわらず強く悔やんだ言い方に、私の胸が押し潰されそうになる。

「お父さんこんな事になっちゃったけど、和葉は和葉のやりたい事をやりなさい。お金の援助とかはできないけど、せめて応援くらいはしてあげられるから」

「やりたい事……」

 色んな物が頭を駆け巡る。B判定を一緒に喜んだ心寧、疲れた顔でカレーを作るお母さん、笑顔でねぎらってくれるバイト先の先輩、修学旅行で金木犀を嗅げなくて落ち込んでいた私を慰める心寧、寡黙だけど優しいお父さん、黙々と勉強している心寧……。

 私の未来は……、私の選択は……これしかない。

 ぎゅうっと見えないように私は両拳を握る。視線が落ちかけたけど、頑張ってお母さんの方に目を向けた。どうか涙よ、今は流れないで。

「私、大学行くのをやめるよ」

「和葉!」

 今にも泣きそうな顔のお母さんを見て、私はより決心が強くなる。けれど手が震えてしまう。私はそれを隠そうと、テーブルの下で膝をつかんだ。

「お父さん、いつ復帰できるかわからないでしょ。だから、貯まってたバイト代をそこに使いたい。大学はまぁ、受かるかどうかわからないからさ。願書はもう出しちゃったから、受験料はかかるけど、でももし受かって入学金だとか授業料だとか考えたら現実的には厳しいよね」

「どうして? 和葉、あんなに頑張っていたじゃない。和葉は和葉の人生なんだから、もっと自由にしなさい。私達にそんな重荷を背負わせないで」

 悲痛なお母さんの声は院内だから抑えられていたけど、それでも私の心に爪を立てかきむしる。血が流れ止まらないけど、私は負けじと笑う。

「私の人生だからこそ、こう決めたの。そもそも大学に入ったとして、奨学金を受けないといけなかったの。返済するのは四十歳近いんだよ。それでも、夢を見て行こうとしていた。でも、もう夢から覚める時なんだと思う」

 頭の中で心寧の顔が浮かぶ。喜びも悲しみもふてくされた顔もすがる顔も浮かぶけど、徐々に消えていく。

 残った現実の問題は解決しようとしていたけど、やはり重苦しいものだった。諦める事によって、少し胸が軽くなる。

「私は今まで育ててもらった家族を大事にしたい。私が今、本当にやりたい事はこれなんだよ」

 お母さんは両手で顔を覆い、震えていた。けれど私の心は初夏の青空のように晴れ渡っている。それは初めて自分自身で決めた道だから。心寧と一緒の大学に行きたいと思って一生懸命やってきたけど、でもそれはどこか心寧に依存してやってきた行為。

 だからこそ、私は現実的にお父さんやお母さんを守りたかった。何だかんだ優しくして育ててくれた両親を見捨ててまで、私は生きられない。

 最後に残ったのは家族だった。

 一旦からっぽになった心で改めて思う。私は心寧が好きだった。親友としてではなく、一人の恋愛対象として好きだった。きっと初めて見た時から、ずっと。

 だからあんなに頑張れたし、視界に入ろうとしていたし、誰よりも感情を動かされた。嫉妬も羨望も甘い胸の疼きも、全部ひっくるめて恋だった。恋愛を知らない私が唯一、どうなっても受け入れようとし、特別になりたかった存在。

 それが辻本心寧。

 ぬるくなったコーヒーを口に運んだ。そうしてやや乾いたサンドイッチに手を伸ばし、口に運ぶ。それを噛みしめるほど、心寧との別れを意識してしまった。

 誰にも言えず、私自身はっきりとさせられなかった恋心が咀嚼と共に消えていった。

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