3. ラブリーベイビー
「空気がよどんでおる」
甲斐多町の蛇子神社、石段を登ったその先で。落ち葉掃除をしていた巫女さんが私を見るなりそう言った。
私は思わず絶句して、その巫女さんを見つめてしまった――。
◇
それは、あじさい祭りの後夜祭が終わった帰り道でのことだった。
「カリン、付き合って」
私を送ると言って商店街のアーケードを歩いていた夜道で、不意に大ちゃんの低い声が耳に流れ込んできた。
その日はお祭りでも後夜祭でも、CJとメジャーバンド・SODA FISHとの共演は大成功。何より大ちゃんが相当かっこよかったことで、私はかなり上機嫌だった。それで聞いた。
「うん、いいよ~! いつ、どこに行く?」
そう言って大ちゃんを見上げたら、いつも落ち着いた雰囲気の彼が、珍しく息を止めて私を見てる。
(……あれ?)
そういう意味では、なかったのかな?
数秒の沈黙。ざあっと音がして、六月の湿度の高い風が私たちの間をすり抜けていった。大ちゃんはこれまた珍しく、少し瞳を伏せて微笑んだ。
「じゃあ、今度の日曜の午後、空いてる?」
「うん、午後はバイトお休み。空いてるよ」
「この前出来たっていう、甲斐多町の美術館に行ってみるか?」
いいね、と笑った。それで待ち合わせの約束をして、私たちはそこで別れた。
あれってあれってもしかして、そういう意味だった?
私は完全に想定外の答えを言って、……それで大ちゃんを、失望させてしまっただろうか……?
◇
大ちゃんはCJというバンドを組んでいる。
あじさい祭りの日、CJは、ボーカルの槇くんが午前中に大学の教授から用事を頼まれてしまい、その上、ドラムとベースを務める高校生たちが受験生だから駄目だと親から叱られて参加できなくなったなど、水面下での波乱があった。
それでお祭り本番は、大ちゃんと槇くんが二人で、夕方のステージに十分ほどの出演となり、後夜祭も二人参加になったのだけれど。
結果的には、メジャーバンド・SODA FISHとのコラボも、自分たちの楽曲も、それはそれはすばらしいものとなった。
私はあじさい祭りのステージも、後夜祭のホロホロでも、彼らのステージングを真剣に観てた。
……きらきらなライトに照らされていた。
金色やピンク、赤や青。そんな強い照明に負けない激しいギターリフを弾く大ちゃん。槇くんの声が乗ると、かすかに口の端を上げて笑う。大ちゃんはいつもいつでも自信満々に見えて、それは隣にSODA FISHという有名な人たちがいても変わらない。
まぶしすぎた。
観ているうちに、私は上機嫌な気持ちの裏側で、大ちゃんのことが大好きでこれからも見ていたいけれど、それだけにした方がいいんじゃない? と控えめな気持ちになっていた。そんな矢先のその台詞だったのだ。
「……かっこよかったなあ……」
土曜日の夕方、私はバイト上がりに近くの根子川沿いの道をのんびり歩きながら、お祭りの時のことを回想していた。
槇くんとSODA FISHのボーカルの晶叶くんの声は綺麗なハーモニーを奏でていた。ギターの透真さんと並んで演奏する大ちゃんの胸には、薄いピックをペンダントヘッドみたいにつけたゴールドのネックレスが光っていて、それも良かった。
ライブ後に褒めたら、似合うだろ? って笑った。
あのちょっとシニカルで自信満々な、大ちゃんの笑った顔。
あの顔を見るだけで私は幸せなんだよね。
もし好きって伝えて、あの笑顔が見れなくなったらどうしよう。
そんな気持ちで動けずにいる。
でもでも、付き合ってってまさか彼氏彼女になってって意味だったのかな。
勘違いかな。
そんなことを考えながら、私は川縁の、ちょっと芝生みたいになっているところにすとんと座った。
後夜祭のとき、最近仲良くなったあんこちゃんも来ていて、背伸びして一生懸命ステージを観ようとしてたから、だっこして見せてあげたらうれしそうにしていた。その時、ステージ上の大ちゃんと目が合った。大ちゃんもなぜだかそんな私たちを見て、優しく笑ってた気がした。
あの笑顔を、なくしたらと思うと怖すぎる。
でも、他の人のものになったりしたら?
「そんなの嫌だあ~……」
呟いたとき、ふわりと風が吹いた気がして視線を流した遠くに、蛇子神社の裏の森がこんもりと見えた。そうだ。困ったときの神頼みだ。
「……お参りしてこよっ」
私は気を取り直して、蛇子神社へと向かった。
◇
「……周りの空気がよどんでおる」
神社の境内へと続く石段を登った先で、落ち葉を掃いていた巫女さんが私を見て、突然そう言った。数秒間見つめ合ったあと、きょろきょろと周囲を見回すけれど、私と巫女さん以外は誰もいない。
「……私、ですか……?」
「他に誰がおる」
おそるおそる聞くと、そっけない返事……。
そうか、そんなにどんよりしてたのか……と思ったその時。その巫女さんはかすかに笑った。
「自分の気持ちに正直になれば良いこともあろうぞ」
「えっ」
「お言葉をくださいと念じて、おみくじを引いて見ればよい」
それだけ言って、何事もなかったかのように掃き掃除を再開する彼女に私はぺこりとお辞儀して、神社詣りへと歩を進めた。
「……二礼二拍手、一礼、と」
看板に手順が書いてあって、お賽銭を入れて作法通りにお参りをした。
(どうか私が、結果がだめだったとしても、これまで通り大ちゃんに笑って接することができますように……!)
ハタから見たら笑い話かもしれなかったけど、私の中ではかなりものすごく切実だった。
そして、言われた通り、賽銭箱の横にある、自販機のおみくじを引いてみる。
「お言葉をください……!」
かたんと音がして、取り出し口に落ちてきたおみくじを開いたら、大吉だった。
「おお……!」
願いごと:叶う。待ち人:来る。すごい。良すぎる……と思って恋愛のところを見ると。
自分の気持ちに正直に、精進せよ。と書かれていた。
気持ちに正直に。
大ちゃんのことが好きという気持ちも、自信がない気持ちも本当だ。
そして、あの笑顔をずっと見ていたい気持ちも、本当。
私はおみくじを大事に持って神社の鳥居の方に引き返しながら呟いていた。
「明日の午後、美術館で大ちゃんに会って。それで、付き合ってっていうのが彼氏彼女って話なら、自信がなくてもイエスだし、単にどこかに行こうって話だったんなら、私ががんばって、大ちゃんに、好きって伝える」
言いながら声が震えた。
でも、そう自分に囁くみたいに言葉を発したとき、ふわんと背中から……さっきお参りした神社の本殿の方から、気持ちいい風が吹いてきた感じがした。
気のせいかな?
私のアッシュピンクの髪が風になびいて、午後の日差しの中でひるがえった。
いや、気のせいじゃない。
力をもらったってことにする。
私は頷いて、本殿の方にぺこりともう一度お辞儀した。
気休めかも知れないし思い込みかもしれなかったけど。やわらかい風にパワーをもらった気持ちになったんだ。
◇
「カフェでなんか飲むか?」
日曜日の夕方の美術館は人もまばらだった。あと二時間くらいで閉館で、若手作家の抽象画や、甲斐多町美術館の見所らしい数々の彫刻を眺めた後で、大ちゃんがそう聞いた。
そのどこか優しい声の響きに、私は頷く。
「いいね。でも、美術館併設のカフェってお値段けっこう高めかな?」
言うと、大ちゃんは微笑んで首を振った。
「いや? なんか、ホロホロの店長が言ってたけど、安めな値段設定にしたって」
「町の人も入りやすいようにかな?」
「そうらしい」
二人で入って、白木のカウンターの奥にあるケーキのショーケースを覗くと、小ぶりのショートケーキやレモンケーキに桃のタルト、キャロットケーキにモンブラン……どれも五百円以内で値段設定されている。
「ほんとだ! 学生にやさしい~」
「ケーキセット六五〇円だって」
「やさしすぎる!」
私が歓喜の声を上げて、どれにしようかとケーキの陳列を眺めていると、大ちゃんが面白そうに笑う。
「席にもメニューあるみたいだからそっちでじっくり見たらいい」
促されて、私と大ちゃんは窓側の二人席に座ることにした。
「……すごい、お庭も綺麗に見えるね」
なんだかご機嫌で私が言うと、大ちゃんは頷いて。一度座ったけど立ち上がるから、席を替わるのかと思って私も腰を浮かす。
「ああ、大丈夫。カリン座ってて。水はセルフサービスっぽいから取ってくる」
「え、あっ、ごめん私、気付かなくて」
「大丈夫、大丈夫」
大ちゃんの大丈夫って言葉にいつも励まされてる私だけれど。気が利かないって思われてたらいやだなあと、お水のサーバーの方に歩いて行く大ちゃんを見守った。今日も、空間を泳ぐみたいな綺麗な歩き方。なんだか見とれるような気持ちになる。
黙って見つめていたら、両手にグラスを持って戻ってきた大ちゃん、うん? と笑って。
「どうした?」
目の前に置かれた色ガラスのコップに外からの日光が透けて、テーブルに綺麗な透明な色がかすかに映った。私はピンクで大ちゃんはブルー。この前のライブハウスのライティングみたい。綺麗だなあと思った。
「いや……お水、ありがとうゴザイマス」
「なにその突然の敬語」
くすくす笑う。
ちょうどお店のスタッフの人が注文を取りにきてくれて、二人でケーキセットを注文した。私は桃のタルトにミルクティー、大ちゃんはキャロットケーキにコーヒーを。キャロットか……。
「……人参好き?」
尋ねる私にちょっと笑う。
「カリンは人参苦手なのか?」
「うう~グラッセとかは、食べないかも……」
「ケーキならすりおろしたのが入ってるはずだから、食えるんじゃねえ?」
他愛ない会話が幸せすぎる、と思いながら、私はお水を一口飲む。
ほんのり、レモンの香りがした。
そうしたら、大ちゃんが言った。
「カリンに話したいことがあったんだ」
どきん。
心臓が脈打つ。
幸せなんて考えている場合じゃなかったかもしれなかった。
私はこの、つきあっていないけど、一緒に時々待ち合わせてお出かけをするような、この曖昧な関係を続けたいと思っていた。
正直、壊すのが怖かった。
だから、好きと伝えることなく、初めて会ったときから一年以上、宙ぶらりんな関係を楽しんでいたけど。
「……どんなことかな?」
そうっと私が言ったら、そんな私の小さな声を聞いて、大ちゃんは不思議そうに首をかしげた。
「なんでそんな、叱られた猫みたいに縮んでんの?」
「えっ、猫みたい! そうかな!」
なんとなく続きを聞くのが怖くて、冗談めかして大声で言ってた。私の急な大声に、大ちゃんはびっくりしたみたいに目を見開いて。その後でくっくと笑い始める。
「おかしかった……?」
もう一度そっと聞いたら、笑いを収めて首を振った。そして、ポケットの中から、小さな包みを取り出した。
「そんな不安そうな顔しなくて大丈夫だって。そしたら、先にこっちから渡そうかな」
「こっち?」
今度は首をかしげるのは私の方だ。大ちゃんは、小さなリボンのついた包みをそっと私に差し出した。
「この前、MOONでケーキ食ってた時に渡しそびれた。遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「ありがと……開けていい?」
「どうぞ」
余裕しゃくしゃくって雰囲気で、足を組んでゆったり微笑む大ちゃんを見ながら、私は少し安心してその包みを開く。そこには、シルバーのギターピックに小さな穴を開けて、細い鎖に繋げてペンダントみたいにしたものが、入っていた……。
「これ、大ちゃんの……」
「俺のはゴールド。カリンはシルバーが似合うかなと」
「すごい。かっこいい……つけてみていい?」
泣くのを必死でこらえて私は言っている。話というのは、お別れではないらしい。いや、もしかしたらこれを別れの記念に……? いやいや、と思いながら、私は繊細なそのペンダントを首元にかけてみる。
大ちゃんに視線を流したら、うん、と頷いて私を見ていた。
「…………」
その大ちゃんのいつになく優しい視線に言葉をなくして、私が彼を見つめたそのときだった。
「俺と付き合って」
やっぱりそういう意味だった。
私は何にも考えられないような気持ちで、大ちゃんを呆然と見る。
「カリンのことが好きなんだ」
そう大ちゃんが言って、私が目を見開いて彼を見つめていたその時、ちょうど店員さんがケーキと飲み物を持って来た。おお、と思って私はペンダントの包みをそっと手に取ってバッグに入れる。
そして、ケーキとドリンクを前にした後で、大ちゃんが聞いた――。
「返事は?」
その時、締め切ってあるはずのカフェの中にふわりと風が吹いた。
〝良いことがあったじゃろ?〟
やさしい風にのって囁くみたいに昨日の巫女さんの声が聞こえた気がしたんだ。
そうして、私は泣きそうな気持ちを抑えて、にっこり笑って大ちゃんに伝えていた。
「うれしい。私も大ちゃんのことが大好き」
……と。




