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第7話 結界柱は、沈黙のまま壊れていた

 朝の空気は、夜よりも冷たかった。


 工房の炉に残した火は、灰の下でまだ生きていた。扉を開けた瞬間に流れ出る、煤と熱の匂い。その奥に、井戸から汲み上げたばかりの水の匂いが混じる。村がようやく“朝を迎えた”匂いだった。


 俺は炉床を覗き込み、灰をそっと寄せた。赤い炭が顔を出す。完全には落ちていない。昨夜のうちに火を繋いだ意味はあった。


「生きてるな」


 独り言のように呟くと、背後からトーマの声がした。


「おれ、薪持ってきた!」


 振り返ると、両腕いっぱいに細薪を抱えたトーマが立っていた。眠そうな顔はしているが、目は妙に冴えている。たぶん興奮して、ろくに寝ていない。


「早いな」


「寝坊したら置いてかれると思って」


「置いていく」


「ひどい!」


 言いながらも、トーマはちゃんと薪を乾いた順に並べた。見て覚えるのが早い。こういう子は、仕事を任せると伸びる。


 工房の外では、ガド村長が井戸水の入った桶を運んでいた。エルナはすでに起きていて、工房の壁にもたれながら右腕の調子を確かめている。剣は抜いていないが、肩の動きは昨日より滑らかだ。セルドはというと、珍しく朝からきっちり身支度を整えたまま、泥のついた靴だけがこの村にいる現実を物語っていた。


「結界柱へ行くんですね」


 セルドが言う。


「ああ」


「村の外れでしたか」


「南東の林の手前だ」


 答えたのはガドだった。桶を置き、手の甲で額を拭う。


「昔は祭りのときに子どもらが近づくと叱ったもんだ。村を守る柱だからな。だが、ここ何年も誰も触ってねえ。触る必要がなかった」


「必要がないのが一番いい」


 俺は炉に細薪を差し込みながら言った。


「でも、壊れるときはだいたい、誰も見てないところで壊れる」


 火が小さく鳴る。ぱち、と乾いた音。昨夜繋いだ火は、今朝もちゃんと息をしていた。


 その火を見届けてから、俺たちは村の南東へ向かった。


 朝の村は静かだった。井戸の周りには、もう何人かが集まっている。桶を持つ手つきはまだ慎重だが、水を汲めるというだけで顔つきが違う。東の畑の柵も、夜のうちに崩れはしなかったらしい。応急修復の継ぎ目だらけでも、役目は果たしている。


 ただ、森の気配だけは変わらない。


 朝だというのに鳥の声が少ない。風が枝を揺らしても、葉擦れの音がどこか鈍い。昨日の狼に刺さっていた鉄片のことを思い出す。あれが一頭だけの異常で済むとは思えなかった。


 村の外れを抜け、背の低い林へ入る。踏み固められた古い道の先に、それは立っていた。


 結界柱。


 人の背丈の二倍ほどもある石柱で、表面には古い紋様が幾重にも刻まれている。雨風に晒されて角は丸くなっていたが、柱そのものはまっすぐ立っていた。ひびも欠けも、見た目にはない。


 だが、近づいた瞬間、胸の奥が重くなった。


「……やっぱりか」


 思わず声が漏れる。


 トーマが不安そうに見上げる。


「壊れてるのか?」


「見た目より、ずっと悪い」


 柱の表面に手を当てる。冷たい。石の冷たさだけじゃない。もっと深いところで、流れるべきものが沈黙している。井戸が喉を塞がれていたのとも、工房の煙道が詰まっていたのとも違う。これは——息そのものを忘れかけている。


 俺の“視界”が切り替わる。


 石の内側に走るはずの線が、薄く、かすれ、ところどころで途切れていた。完全に断たれてはいない。だが、流れが遅い。鈍い。まるで、長い間無理をさせられて、疲れ切った身体みたいに。


「どう見える」


 エルナが低く訊く。


「表面は無事。でも中の流れが痩せてる。しかも——」


 俺は柱の根元へしゃがみ込んだ。苔と土を指で払う。石と地面の境目、そのごく細い隙間に、黒いものが見えた。


「やっぱり異物がある」


 セルドがすぐに身を乗り出す。


「王都の案件と同じ?」


「たぶんな。でも、こっちはもっと厄介だ」


 指先で土を掻き分ける。出てきたのは、錆びた釘のような細長い鉄片だった。昨日、狼の脚から出てきたものより細い。だが、表面のざらつきは同じだ。しかも一本じゃない。二本、三本。柱の根元を囲うように、何本も打ち込まれている。


 ガドの顔色が変わる。


「誰がこんなもんを……」


「自然にこうはならない」


 俺は一本を摘まみ、慎重に引いた。抜けない。石の中へ食い込んでいる。


「打ち込まれてる」


 トーマが息を呑む。


「わざと?」


「そう考えるのが自然だ」


 セルドの声が硬くなる。


「村の結界柱に細工をする理由は」


「王都に訊け」


 思わず刺すように返してしまった。セルドは眉をひそめたが、反論はしない。俺だって、今のは八つ当たりに近いとわかっている。だが、井戸も、炉も、狼も、そして柱まで同じ壊れ方をしているとなれば、偶然では済まない。


 エルナが周囲を見回す。


「足跡は古いな。最近打ち込まれたものじゃない」


「でも、効き始めたのは最近かもしれない」


 俺は柱から手を離し、全体を見上げた。


「少しずつ流れを削って、限界が来たところで表に出る。そういう壊し方だ」


「嫌なやり方だな」


 ガドが吐き捨てるように言う。


「すぐには気づかれず、気づいたときには村が弱ってる」


 その通りだ。井戸が枯れ、畑が痩せ、森が近づき、獣が壊れる。全部、柱の弱りと繋がっていたのかもしれない。


 トーマが柱を見上げたまま、小さく訊いた。


「……直せる?」


 その声には、昨日までとは違う重さがあった。井戸や柵なら、目に見える。けれど結界柱は違う。村そのものの呼吸だ。子どもでも、それがわかるのだろう。


「簡単じゃない」


 正直に言う。


 トーマの顔が曇る。だから続けた。


「でも、やる」


 その一言で、少年の目に少しだけ光が戻った。


 俺は柱の周囲を一周した。異物は根元だけじゃない。石の表面にも、ごく細い傷が走っている。紋様に沿うように、わざと目立たない位置へ刻まれた傷だ。そこから流れが漏れ、痩せている。


「まず異物を抜く」


「全部?」


 セルドが訊く。


「全部抜ければ理想だが、無理にやると柱そのものが割れる」


「では」


「順番にだ。流れを支えながら、一本ずつ」


 井戸の石を外したときと同じ。エルナの流路から棘を抜いたときと同じ。急げば壊れる。だから、急がない。


「手伝えることは」


 エルナが言う。


「柱の周りを掘る。根元を見たい。トーマは細い木べらみたいなものを探してくれ。金属は駄目だ。ガドさん、工房から細い釘抜きと、布を。セルドは——」


「また灰寄せ以外の仕事が来ましたね」


「記録してくれ。抜いた異物の数と位置を残したい」


 セルドは一瞬だけ目を瞬いた。だが、すぐに頷く。


「それは本職です」


 役割が決まると、人は動く。エルナは剣ではなく手で土を掘り、トーマは林の端から使えそうな木片を探し、ガドは杖をつきながらも工房へ走った。セルドは懐から手帳を取り出し、柱の周囲を測り始める。


 俺は柱に両手を当て、深く息を吸った。


 石の内側の流れは弱い。だが、まだ死んでいない。なら、支えられる。


 指先から感覚を沈める。柱の中を走る細い線を探り、途切れかけた場所を撫でるように繋ぐ。井戸のときのような即効性はない。工房の火のように目に見えて変わるものでもない。けれど、確かに、沈黙の底で何かが微かに返ってくる。


 ……まだ、諦めていない。


 その感触に、少しだけ胸が熱くなった。


「レイン」


 エルナの声で目を開ける。彼女が掘り出した根元の土の中から、さらに二本の鉄片が見えていた。一本は深く、一本は浅い。


「浅いほうからだ」


 俺は木べらを受け取り、鉄片の周囲の土を丁寧に崩す。石との境目を探り、食い込み方を見る。浅いほうは、紋様の流れを横切るように刺さっていた。これが小さな堰になっている。


「抜くぞ」


 誰にともなく告げる。


 木べらで支え、釘抜きを添え、少しずつ力をかける。ぎ、と嫌な感触。石が軋む。止める。角度を変える。もう一度。


 今度は、すっ、とわずかに動いた。


「そのまま」


 セルドが記録しながら呟く。自分でも無意識だったのか、言ったあとで少し気まずそうに口を閉じた。


 俺は構わず、さらに慎重に引く。


 鉄片が抜けた瞬間、柱の内側で、かすかな震えが走った。


 トーマが目を見開く。


「今、なんか……!」


「ああ」


 俺も感じた。ほんのわずかだが、流れがひとつ、息を通した。


 抜いた鉄片は、やはりあのざらついた黒い金属だった。セルドが布の上に置き、位置を書き留める。


「一本でこれほど影響が」


「一本じゃないから厄介なんだ」


 俺は額の汗を拭った。朝の冷気の中なのに、指先は熱い。柱の流れを支えながら異物を抜くのは、思った以上に消耗する。


 ガドが戻ってきて、布と道具を差し出した。


「工房の釘抜きだ。古いが使える」


「十分です」


 次は深いほうだ。こちらは根元のさらに内側へ食い込んでいる。無理に引けば、柱の芯を傷つける。


 俺は一度、柱に額をつけた。冷たい石の向こうで、弱った流れがかすかに脈打っている。


「……持ってくれよ」


 独り言みたいに呟く。


 それから、深いほうへ手をかけた。


 今度は簡単には動かない。釘抜きが軋み、木べらがしなる。エルナがすぐ横で土を押さえ、ガドが柱の揺れを見ている。トーマは息を止めたまま見守り、セルドの筆先だけが紙の上でかすかに鳴った。


 少しずつ。ほんの少しずつ。


 やがて、鉄片が動いた。


 その瞬間だった。


 柱の表面を走る紋様が、ふっと淡く光った。


「下がれ!」


 反射的に叫ぶ。全員が身を引く。次の瞬間、柱の周囲に薄い風が巻いた。強いものではない。だが、長く止まっていたものが急に息を吸い込んだような風だった。


 林の葉がざわめく。遠くで、鳥が一斉に飛び立つ音がした。


 トーマが呆然と呟く。


「光った……」


 ガドは杖を握りしめたまま、柱を見上げている。エルナの目は鋭いが、その奥に確かな安堵があった。セルドは記録の手を止め、珍しく言葉を失っていた。


 俺は抜けかけた鉄片を最後まで引き抜く。長い。思ったよりずっと長い。こんなものを何本も打ち込まれていたのなら、柱が沈黙していたのも当然だ。


 鉄片が完全に抜け落ちたとき、柱の光はすぐに消えた。だが、さっきまでの死んだような沈黙ではない。弱いながらも、内側で流れが巡り始めている。


「全部は戻ってない」


 俺は息を整えながら言った。


「でも、息は返ってきた」


 トーマがぱっと顔を上げる。


「じゃあ、村は大丈夫になる?」


「すぐには無理だ。まだ異物も傷も残ってる」


 期待だけを膨らませるわけにはいかない。けれど、絶望でもない。


「でも、昨日よりは確実にましだ」


 その言葉に、ガドが深く頷いた。


「それで十分だ。昨日よりましなら、明日まで繋げる」


 老人のその言い方が、この村らしいと思った。


 セルドがようやく口を開く。


「王都の第三結界柱も、同じ手口なら……」


「急ぐ理由はわかった」


 俺は黒い鉄片を見た。


「でも、こっちを放って行かなくて正解だった。根を知らずに王都へ行っても、同じことを繰り返すだけだ」


 エルナが静かに頷く。


「村で起きていることは、王都の縮図かもしれないな」


「あるいは逆だ」


 誰かが村を壊すために柱へ異物を打ち込んだのか。王都で起きている異常の余波がここまで来たのか。まだわからない。だが、点は繋がり始めている。


 林を抜ける風が、さっきより少しだけ軽い。


 俺は柱にもう一度手を当てた。沈黙の底に、かすかな返事がある。まだ弱い。まだ不完全だ。けれど、完全に死んではいない。


 なら、直せる。


「今日はここまでだ」


 俺が言うと、トーマが驚いた顔をした。


「全部やらないのか?」


「やりたい。でも、柱を急に起こしすぎると割れる。今日は息を通しただけで十分だ」


「また明日?」


「ああ。明日も見る」


 セルドがその言葉に反応する。


「三日目ですね」


「そうだな」


 王都へ行くかどうかの約束の日が近づいている。だが今は、まだこの村の呼吸を見捨てられない。


 ガドが柱を見上げたまま、ぽつりと言った。


「長いこと、黙って苦しんでたんだな」


 その言葉は、柱に向けたものでもあり、この村そのものに向けたものでもある気がした。


 俺は何も返さず、抜いた鉄片を布で包んだ。


 沈黙のまま壊れていたものが、ようやく声を上げ始めた。

 なら次は、その声をちゃんと聞かなければならない。

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