第6話 炉の火は消さず、村の夜をつなぐ
東の畑に夜が落ちるころには、空気の冷たさが骨まで染みるようになっていた。
夕暮れの赤はとうに消え、森の縁はひとかたまりの黒になっている。崩れた柵の前では、泥にまみれた杭と横木が積まれ、村人たちの息だけが白く浮いた。さっきまで畑を脅かしていた狼は、少し離れた乾いた場所へ移され、古い毛布を掛けられている。まだ立てないが、呼吸は落ち着いていた。
俺は折れた杭の断面を確かめ、使えるものと使えないものを分ける。完全に新しく作り直す時間はない。今夜必要なのは、獣を村へ入れないための“形”だ。応急でも、息が通るように組めば持つ。
「縄、持ってきた!」
トーマが両腕いっぱいに麻縄を抱えて駆けてくる。息は上がっているが、目はまだ死んでいない。怖かったはずなのに、逃げずに戻ってくる。その強さは、たぶんこの村がまだ終わっていない証拠だ。
「ありがとう。細いのと太いの、分けて置いてくれ」
「うん!」
ガド村長は村の男たちと一緒に、工房から持ち出した木材を運んできた。古い荷車の側板、使われなくなった棚板、割れた樽の胴。どれも本来の役目は終えているが、今夜の柵にはなる。
「こんなもんで足りるか」
「足りない分は、組み方で補う」
俺は横木を一本持ち上げ、崩れた柵の間に仮置きした。地面はぬかるみ、杭の根元は緩い。深く打ち込んでも、土ごと持っていかれる。なら、縦に耐えるより横へ逃がす。二本の杭を斜めに交差させ、外側から横木で噛ませる。荷車の軸を応急で戻したときと同じ理屈だ。
「ここを押さえて」
村の男が言われた通りに木を支える。俺は槌を振り下ろした。湿った木に鉄が食い込む鈍い音が、夜気に響く。
カン。ドン。ギ、ギ。
工房の中で鳴る仕事の音とは違う。荒く、急ごしらえで、けれど確かに“守るための音”だった。
少し離れた場所では、エルナが森の縁を見張っている。剣は抜いていないが、いつでも抜ける姿勢だ。右腕を庇う様子はない。ただ、俺の言葉を守っているのか、無駄に動き回りはしなかった。
セルドはというと、最初こそ畑の端で腕を組んで見ているだけだったが、やがて痺れを切らしたように口を開いた。
「私にできることは」
思わず手を止めて振り返る。役人が自分からそう言うのは少し意外だった。
「泥を嫌がらないなら、縄を締めてくれ」
「……それくらいなら」
言い方は相変わらずだが、断らないだけましだ。セルドは外套の裾を持ち上げ、ぬかるみに足を踏み入れた。靴はたちまち泥を被ったが、文句は言わない。縄の締め方はぎこちないが、指示すればきちんと従う。
トーマがその様子を見て、小声で俺に囁いた。
「王都の人でも、縄って結べるんだな」
「覚えれば誰でもできる」
「でも、ちょっと遅い」
「聞こえてますよ」
セルドが無表情のまま返し、トーマが慌てて口を押さえた。こんな状況でも、少し笑いが起きる。それだけで、村人たちの肩から力が抜けるのがわかった。
柵の骨組みが半分ほど戻ったころ、森の奥で枝の折れる音がした。
全員の動きが止まる。
エルナがすぐに片手を上げた。静かに、という合図だ。彼女は一歩前へ出て、闇を睨む。俺も槌を置き、折れた横木を手に取った。さっき狼の脚に突き込んだのと同じ、即席の武器だ。
だが、次に聞こえたのは唸り声ではなく、か細い鳴き声だった。
くぅ~ん、と。
トーマが目を瞬く。
「子犬……?」
「違う」
エルナが低く言う。
「だが、敵意は薄い」
森の縁から現れたのは、小さな影だった。狼だ。さっきの個体よりずっと若い。痩せていて、毛並みも悪い。だが脚は壊れていない。そいつは畑の手前で止まり、毛布を掛けられた狼のほうを見て、怯えたように鼻を鳴らした。
「仲間か」
ガドが呟く。
若い狼は人間を恐れている。だが、去ろうとしない。倒れた狼の匂いを追ってきたのだろう。家族か、群れの仲間か。
俺はゆっくり息を吐いた。
「近づくな。刺激するな」
若い狼は一歩、また一歩と前へ出る。毛布の下の狼が、かすかに目を開けた。鼻先が動く。互いの匂いを確かめるように、短く息を交わす。
その瞬間、トーマが小さく言った。
「……生きてるって、わかるんだな」
誰も答えなかったが、たぶん皆、同じことを思っていた。
若い狼はそれ以上近づかず、やがて森の縁へ下がった。完全には去らない。見張るように、暗がりの中へ座り込む。
エルナが剣の柄から手を離した。
「襲う気はないらしい」
「なら放っておく」
俺は再び柵へ向き直る。今夜守るべきなのは、村と、余計な殺しを増やさないことだ。
作業を再開すると、さっきより皆の手が早くなった。怖れが消えたわけじゃない。だが、何を相手にしているのかが少し見えたことで、動けるようになったのだ。
柵の最後の一角を組み終えたころには、夜はすっかり深くなっていた。応急修復の継ぎ目だらけで見栄えは悪い。だが、崩れたまま口を開けていた畑の境は、ひとまず閉じた。
俺は全体を見回し、横木を手で揺する。軋むが、持つ。今夜一晩なら十分だ。
「よし。これで朝までは保つ」
その言葉に、村人たちの間から長い息が漏れた。達成感というより、ようやく肩を下ろせる安堵の息だった。
ガドが柵に手を置き、何度か頷く。
「十分だ。十分すぎる」
「明日、工房で釘と留め具を打つ。ちゃんと直すのはそれからだ」
「明日がある、って言えるだけで違うな」
老人のその言葉が、妙に胸に残った。
明日がある。たったそれだけのことが、壊れた場所ではいちばん難しい。
トーマが毛布を掛けた狼のそばへしゃがみ込む。
「こいつ、村の中に運んだほうがいいかな」
「まだだ」
俺は首を振った。
「人の匂いが濃い場所に入れると、逆に暴れるかもしれない。火の見えるところで、でも近づきすぎない場所に置く」
「じゃあ、工房の外?」
「それがいい」
エルナが狼を見下ろし、静かに言った。
「見張りは私がやる」
「お前は休め」
「剣は振っていない」
「立ちっぱなしだっただろ」
「それくらいで折れるなら、戻った意味がない」
言い返そうとして、やめた。意地ではなく、彼女なりの責任感なのだろう。なら、全部は止めない。
「一人じゃなく、交代だ。トーマは駄目」
「えっ、なんで!?」
「子どもだからだ」
「もう子どもじゃない!」
「じゃあ明日、杭を十本打てたら考える」
トーマは不満そうに頬を膨らませたが、ガドに頭を軽く叩かれて黙った。セルドがそのやり取りを見て、珍しく少しだけ目を細める。
「……ずいぶん自然に、この村の采配を取るんですね」
「取ってるつもりはない」
「ですが、皆あなたの言葉を待っている」
言われて、少しだけ周囲を見る。確かに、村人たちは次に何をするかを俺の口から聞こうとしていた。追放されたときには、誰も俺の言葉なんて待っていなかったのに。
「待たせてるだけだ」
「それを采配と言います」
セルドの声には、皮肉より観察の色が強かった。
俺は答えず、東の森へ目を向ける。若い狼の影はまだそこにある。毛布の下の狼も、浅いながら呼吸を続けていた。
工房へ戻る道すがら、村の家々には少しずつ灯りがともり始めていた。井戸の水が戻り、炉に火が入り、柵が立った。たった一日で全部が解決したわけじゃない。むしろ問題は増えている。王都の要請も、森の異変も、結界柱も、何ひとつ片付いていない。
それでも、村の夜は昨日までとは違う。
工房の前に着くと、炉の熱がまだ残っていた。扉を開けると、赤く沈んだ炭が暗がりの中で息をしている。完全には消えていない。ここで火を落とせば、明日の仕事がまた遠くなる。
「薪を少し足す」
俺が言うと、ガドがすぐに頷いた。
「俺がやる」
「いや、火床の並びは俺が見る。ガドさんは水を。トーマ、細い薪。セルドは——」
「また縄ですか」
「灰を寄せてくれ」
「……承知しました」
役人に灰寄せをさせるのはどうかと思わなくもないが、本人が帰る気配を見せないのだから仕方ない。
炉の前にしゃがみ、炭の位置を整える。細い薪を渡されるたび、空気の通り道を残して差し込む。火は小さく揺れ、やがて赤が少しだけ明るくなった。ふいごを一度、ゆっくり踏む。炉の奥で、熱が目を覚ます。
ぱち、と火が鳴る。
その音に、工房の中にいた全員が、ほんの少しだけ安堵したのがわかった。
火がある。
水がある。
柵も、今夜は立っている。
壊れたものを全部直せたわけじゃない。けれど、夜を越えるための息はつないだ。
トーマが炉の火を見つめながら、小さく言う。
「明日も、直すんだよな」
「ああ」
「井戸も、工房も、柵も、森のことも?」
「順番にだ」
「王都のことも?」
その問いに、セルドがわずかに顔を上げる。エルナも、工房の入口にもたれてこちらを見た。
俺は炉の中の火を見た。赤い炭の奥で、白くなりかけた芯が静かに息をしている。
「……その前に、この村の結界柱を見る」
ガドの表情が引き締まる。
「やっぱり、そこか」
「井戸も炉も戻ったのに、森の異変が止まらないなら、根は別にある」
東の畑の狼だけじゃない。あの鉄片が村の外から来たのか、中で生まれたのか。それを確かめるには、村を守っているはずの柱を見なければならない。
セルドが静かに言った。
「王都の第三結界柱と、同じ種類の異常かもしれませんね」
「かもしれない、じゃなく、たぶんそうだ」
俺は立ち上がる。腰と肩が重い。今日一日で、井戸、炉、流路、柵、狼と、直しすぎた。疲れていないわけがない。だが、不思議と手はまだ動く気がしていた。
エルナが入口から身を起こす。
「なら、明日は柱か」
「朝一番でな」
「その前に寝ろ」
「お前もだ」
言い合いになりかけて、トーマがくすくす笑う。ガドも喉の奥で笑い、セルドは呆れたように目を伏せた。
工房の炉が、低く、安定した音で燃えている。
その音を背に、俺はようやく一息ついた。
今夜はまだ終わっていない。見張りもいるし、狼の様子も見なければならない。
それでも、少なくともこの村は、昨日より少しだけ“明日”に近づいた。
火を消さずに夜をつなぐ。
今は、それで十分だった。




