第5話 東の畑で、壊れた音が鳴く
工房を出ると、夕暮れはもう村の屋根に沈みかけていた。
雨上がりの空気は重く、湿った土の匂いの奥に、獣臭とは違う、鉄が擦れるような匂いが混じっている。東の森から聞こえる鳴き声も、普通の獣のものじゃない。喉で鳴いているというより、ひび割れた器の内側で音が反響しているような、耳に引っかかる声だった。
先を走る村の女の背を追いながら、俺は足元のぬかるみを踏みしめる。隣ではエルナが剣の柄に手をかけたまま、森の気配を探っていた。右腕は戻ったばかりだが、歩き方にもう迷いはない。
後ろから、セルドの声が飛ぶ。
「本当に行くのですか。日が落ちます」
「だから今行く」
「村人だけで柵を直させれば——」
「壊れた音が鳴いてるって言っただろ」
振り返らずに返すと、セルドは一瞬黙った。あの男にはまだ聞こえないのだろう。森の奥から響く、あの“軋み”が。
ガド村長が杖をつきながら追いついてくる。
「東の畑は、村の端だ。向こうはすぐ森になる。昔は結界柱の加護が強くて、獣も寄らなかったんだが……」
「今は違う」
「ああ。井戸が死んでから、少しずつおかしくなった。水が減り、畑が痩せ、柵が傷み、夜になると森が近くなった気がする」
順番はいつも同じだ。ひとつの“息”が止まると、別の場所に歪みが出る。井戸だけの問題じゃなかったのだ。
東の畑は、村の家並みを抜けた先にあった。低い石積みと木柵で囲われた小さな畑だが、その一角が大きく崩れている。杭は根元から折れ、横木は外れ、泥の上には何かを引きずったような跡が残っていた。
トーマが息を切らして追いつき、崩れた柵を見て顔を強張らせる。
「昼にはまだ、ここまでじゃなかった」
「足跡は?」
エルナがしゃがみ込む。泥に残る跡を指でなぞり、眉をひそめた。
「獣の形だが、深さが不自然だ。重い。しかも、片方だけ沈み方が違う」
俺も近づく。確かに、四足の跡に見える。だが左右の均衡が悪い。片脚だけが妙に深く、もう片方は引きずるように浅い。まるで、壊れた足で無理やり歩いているみたいだ。
そのとき、森の縁で、また鳴き声がした。
ぎい、と。
獣の咆哮ではない。古びた蝶番を無理に捻ったような、嫌な音だ。
トーマがびくりと肩を震わせる。ガドが低く唸った。
「やっぱり瘴気獣か……」
「まだ決めるな」
俺は森の方を見た。木々の間は暗く、夕暮れの残り火も届かない。だが、その奥に“流れの乱れ”が見える。黒い靄のようなものが、地面すれすれを這っていた。
「エルナ」
「わかってる」
彼女は剣を抜いた。銀の刃が、薄暗い空気を受けて冷たく光る。構えは低く、無駄がない。出会った頃のぎこちなさはもうないが、俺は念のため言った。
「無理はするな」
「善処する」
「信用ならない」
「今はそれでいい」
短いやり取りの直後、森の影が動いた。
最初に見えたのは、目だった。暗がりの中で、濁った黄緑の光が二つ、低い位置に浮かぶ。次に、泥にまみれた毛皮。狼に似ている。だが、右前脚だけが異様に太く、骨の継ぎ目が外れたまま固まったように歪んでいた。歩くたびに、その脚の中で何かが擦れ合い、ぎい、ぎい、と鳴く。
瘴気獣——いや、瘴気に侵されて“壊れた”獣だ。
トーマが息を呑む。村の女が小さく悲鳴を上げ、ガドが前に出ようとするのを俺は手で制した。
「下がって」
狼は畑の崩れた柵の前で止まり、こちらを睨んだ。飢えているのか、苦しんでいるのか、その目だけではわからない。ただ、普通の獣なら避けるはずの火と人の気配を前にしても退かない時点で、まともじゃない。
エルナが半歩前へ出る。
「斬る」
「待て」
「待っていたら村に入る」
「見えてる。脚だ」
俺の言葉に、エルナが一瞬だけ視線をずらす。狼の歪んだ右前脚。そこから黒い靄が濃く滲んでいる。あれが核だ。
「壊れてるのは、あそこだけじゃない」
俺には見える。脚の歪みから肩へ、肩から胸へ、黒い流れが食い込んでいる。骨が折れたのではない。何かが“壊れたまま繋がっている”。
狼が低く唸り、次の瞬間、跳んだ。
「来る!」
エルナが踏み込む。速い。戻った剣筋は、夕闇の中でも迷わない。狼の牙が届くより先に、彼女の刃が歪んだ前脚を打った。
金属を叩いたような音がした。
狼が弾かれ、泥の上を転がる。だが脚は落ちていない。刃は通ったのに、何か硬いものに逸らされた。
「骨じゃない!」
エルナが叫ぶ。
「中に異物がある!」
俺はすでに走っていた。狼が起き上がるより先に、崩れた柵の横木を拾う。片端は折れて尖っている。十分だ。
狼が再び跳ぶ。今度は俺へ。
正面から来る黄緑の目を見据え、ぎりぎりまで引きつける。怖くないわけじゃない。牙の白さも、腐った息も、嫌というほど近い。だが、見えている。壊れた流れの中心が。
「今だ、エルナ!」
俺は横へ転がりながら、尖った横木を狼の歪んだ脚の付け根へ突き込んだ。
ぎゃり、と嫌な音が鳴る。
狼の動きが一瞬止まる。その隙に、エルナの二太刀目が走った。今度は脚そのものではなく、俺が突き込んだ横木ごと、歪みの中心を断つように。
銀の閃き。
次の瞬間、黒いものが弾けた。
泥の上に転がったのは、骨でも牙でもない。錆びた鉄片だった。釘とも刃片ともつかない、ねじれた黒い欠片。狼の脚の中に食い込んでいたらしい。
狼が絶叫する。いや、それは悲鳴というより、長く止まっていた歯車が無理やり外れる音に近かった。
黒い靄が脚から噴き出し、夕暮れの空気に溶ける。狼は二、三歩よろめき、畑の泥に倒れ込んだ。
トーマが叫ぶ。
「やったのか!?」
「まだだ、近づくな!」
俺は手を上げて制し、倒れた狼へ慎重に近づいた。エルナも剣を構えたまま横につく。狼の身体は痙攣していたが、さっきまでの異様な軋みは消えている。黄緑に濁っていた目も、少しずつ色を失っていった。
やがて、狼は長く息を吐いた。
その音は、もう壊れた蝶番の音ではなかった。
ただの、疲れ切った獣の呼吸だった。
「……戻ったのか」
エルナが低く呟く。
「完全じゃない。でも、少なくとも“壊れたまま動かされていた”状態は切れた」
俺は泥の中の鉄片を拾い上げた。冷たい。だが、ただの鉄じゃない。表面に、見覚えのあるざらつきがある。井戸で使った名もない金属片や、エルナの流路に刺さっていた呪具の欠片に近い。
セルドが遅れて畑へ着き、その鉄片を見て顔色を変えた。
「それは……」
「知ってるのか」
「王都の保管結界で見つかった劣化片に似ています」
やはり繋がっている。
ガドが狼を見下ろし、苦い顔をした。
「殺さずに済んだのか」
「まだわからない」
俺はしゃがみ込み、狼の脚に触れた。骨はひどく歪んでいる。長く異物に食い込まれていたせいで、筋も関節も壊れかけていた。だが、流れそのものは少し戻っている。
狼が薄く目を開ける。さっきまでの濁りはない。怯えと痛みだけが残っていた。
「……水を」
俺が言うと、トーマがすぐに走った。井戸の水だ。さっきまで死んでいた井戸の水が、今は獣を生かすために使われる。その巡りに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
エルナが剣を下ろした。
「斬って終わりじゃなかったな」
「壊れてるなら、まず見る」
「相手が獣でも?」
「相手が何でもだ」
エルナは少しだけ黙り、それから小さく笑った。
「お前らしい」
トーマが桶を抱えて戻ってくる。俺は手で少しずつ水を掬い、狼の口元へ運んだ。最初は警戒していたが、やがて乾いた舌が水を舐めた。生きる気はあるらしい。
村人たちの間に、張り詰めていた空気とは別のざわめきが広がる。
「助かるのか?」
「瘴気獣じゃなかったのか」
「じゃあ、あれは何だったんだ」
セルドが鉄片を見つめたまま言う。
「王都の案件と同じです。見た目の破損ではなく、異物による機能不全……」
「言い方が役所だな」
俺が返すと、セルドは不本意そうに口を結んだ。
「ですが、事実です。もしこれが村の外でも起きているなら——」
「王都だけの問題じゃない」
俺は鉄片を握りしめた。冷たさが掌に食い込む。
井戸、工房、エルナ、そしてこの狼。全部、同じ壊れ方をしている。見た目は違うのに、芯のところで同じ“異物”が噛んでいる。
ガドが東の森を睨む。
「森の中にも、まだいるかもしれねえな」
「いるだろうな」
エルナが答える。剣を納めはしたが、目は鋭いままだ。
「だが今日は追わない。日が落ちる。村の守りを固めるほうが先だ」
その判断は正しい。戻ったばかりの腕で、暗い森へ踏み込むのは無茶だ。俺も頷く。
「まず柵を立て直す。今夜だけでも、形にする」
トーマが目を丸くする。
「今から?」
「今だからだ。壊れたまま夜を迎えるほうがまずい」
ガドがにやりと笑った。
「工房に火が戻った日に、さっそく仕事だな」
「火は使うために戻したんだろ」
そう返すと、村人たちの顔に少しずつ色が戻る。怖かったのは確かだ。だが、怖いまま立ち尽くすより、手を動かしたほうが人は前を向ける。
セルドが俺を見る。
「三日と言いましたね」
「言った」
「その三日で、どこまで直すつもりです」
俺は崩れた柵、泥に倒れた狼、東の森、そして村の奥にある工房の煙突を順に見た。
「少なくとも、息が続くところまでは」
曖昧な答えだ。だが、今はそれしか言えない。
完全に直すには時間が足りない。王都の問題も待っている。けれど、ここで息を繋がなければ、その先はない。
夕暮れの最後の光が、畑の泥を赤く染める。遠くで、工房の炉がまだ低く唸っている気がした。
俺は折れた杭を拾い上げる。
「トーマ、縄を持ってこい。ガドさん、使える木材を集めてくれ。エルナは——」
「見張りだろ」
「助かる」
エルナは短く頷き、畑と森の境へ立った。戻った剣を携えたその背中は、もう迷っていない。
狼は泥の上で浅く息をしている。壊れた音は、もう鳴かない。
なら次は、村のほうだ。
壊れたまま夜を越させるわけにはいかない。




