第4話 王都の使者は、火の前で待たされる
工房の炉は、まだ低く唸っていた。
火が安定すると、音が変わる。ぱちぱちと表面だけが騒ぐ火ではなく、奥で空気を噛み、熱を抱え込みながら燃える火は、獣が喉の奥で眠るみたいな音を立てる。俺はその音を聞きながら、炉床の炭の位置を火かき棒で整えた。
背後では、王都の書記官セルドが黙って立っている。
待たせているのはわざとだ。
もちろん露骨にやれば角が立つ。だから、必要な作業を必要な順番でやっているだけ、という形を崩さない。実際、戻ったばかりの炉はまだ不安定だ。ここで目を離して火を落とせば、せっかく村に戻った“働く心臓”がまた止まる。
セルドもそれはわかっているのだろう。急かしはしない。ただ、急かさないこと自体が圧力になる種類の人間だった。
「……ずいぶん慎重なんですね」
やがて、背後から声が飛んできた。
「火は、急がせると拗ねる」
俺が答えると、セルドは少しだけ間を置いた。
「人ではなく、火に気を遣うと」
「人より火のほうが、理屈が通ることが多い」
トーマが吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。ガド村長は咳払いで笑いを誤魔化す。エルナだけが、壁際に立ったまま、わずかに口元を緩めていた。
セルドは不快そうにするかと思ったが、意外にも表情を変えなかった。
「なるほど。では、その理屈の通る火が落ち着くまで待ちましょう」
言い方は丁寧だが、棘はある。俺はそれ以上返さず、炉の脇に置かれた曲がった火ばさみを手に取った。先端が少し開きすぎている。これでは細い釘や炭を掴みにくい。
「ガドさん、槌を借ります」
「おう」
金床の上に火ばさみを置く。炉に差し入れて赤みを入れ、引き上げる。熱した鉄を打つ音が、工房に響いた。
カン。カン。カン。
さっきまで死んでいた工房に、仕事の音が戻る。村人たちがその音を聞いている。王都の使者も、その前で待たされている。
それが、今は大事だった。
火ばさみの先を整え、軽く水にくぐらせる。じゅ、と白い息が上がった。試しに炭をひとつ摘まむ。今度はしっかり噛んだ。
「よし」
俺が呟くと、トーマが目を輝かせた。
「それも直せるんだな」
「壊れ方が素直ならな」
「壊れ方が素直じゃないのもあるのか?」
ある。人間とか、王都とか。
だが口には出さず、俺は火ばさみを元の位置に戻した。
「ある。そういうのは、だいたい面倒だ」
今度こそトーマが笑い、ガドも肩を揺らした。セルドの前でやるには少し意地が悪いが、村の空気を王都に呑まれないようにするには必要な軽さだった。
エルナが壁から背を離し、俺のそばへ来る。右腕を軽く回してみせた。もう動きに引っかかりはない。
「痛みは?」
「鈍い熱が少し。だが、剣は振れる」
「今日は振るな」
「……そう言うと思った」
「戻ったばかりの流れは、細い糸みたいなものだ。無理に引けばまた切れる」
エルナは不満そうではあったが、反論はしなかった。剣を取り戻したばかりの人間にとって、振るなと言われるのは酷だろう。それでも従うあたり、この人は本当に騎士だったのだと思う。
セルドがそのやり取りを見て、静かに口を開いた。
「診立ての続きは、王都で専門の記録官に——」
「行くとはまだ言ってない」
俺が遮ると、セルドはわずかに眉を寄せた。
「話は聞く、と先ほど」
「聞くとは言った。従うとは言ってない」
工房の空気が少し張る。トーマが俺とセルドを交互に見た。ガドは腕を組み、エルナは無言で立っている。
セルドは一度だけ息を整えた。感情を表に出さない訓練を積んでいるのだろう。
「では、順を追って説明します」
「そうしてくれ」
俺はようやく炉から離れ、工房の中央に置かれた古い作業台へ向かった。ガドが気を利かせて、上に散っていた釘や木片を脇へ寄せる。セルドはそこへ書状を置いたが、俺はまだ開かない。
「まず確認したい」
俺はセルドを見る。
「なぜ俺の居場所を知っていた」
「追跡したわけではありません」
「答えになってない」
セルドは少しだけ黙った。こういう沈黙は、言えないことがあるときのものだ。
「王都には、あなたの職能に関する記録が一部残っています」
「勇者一行の荷物持ち、じゃなくて?」
「表向きはそうです。ですが、補給局は装備の損耗記録を扱う。誰が、どの程度の破損を、どれだけ短時間で復旧させたかも」
なるほど。前線で剣を振らなくても、後方の帳面には残る。目立たない仕事ほど、数字になると消えない。
「それで?」
「半年前から、王都では説明のつかない“機能不全”が増えています。壊れているのに壊れていない。傷はないのに働かない。術式は正常なのに、結果だけが出ない」
エルナの右腕みたいなものか。
「医師、神官、魔術師、鍛冶師——それぞれの専門では異常なしとされる。だが、実際には使えない。そういう案件が積み上がった」
セルドはそこで一度言葉を切り、工房の火を見た。
「あなたが追放された直後から、です」
その一言で、空気が変わった。
トーマは意味がわからない顔をしていたが、ガドは目を細めた。エルナはセルドを睨むように見ている。
「言いたいことは何だ」
「偶然かもしれない。ですが、あなたがいなくなってから、王都の“綻び”が表面化した」
綻び。
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。俺が見ているものを、こいつは名前だけ知っているのかもしれない。
「案件の内容は」
「ひとつは、北倉庫群の保管結界。見た目は正常、魔力供給も足りている。だが、内部の保存機能だけが落ちている。薬材が腐り、金属が急速に劣化し始めた」
補給局付き書記官が来る理由としては筋が通る。兵站が死ねば、前線は持たない。
「もうひとつは?」
セルドは少しだけ声を落とした。
「王都外郭の第三結界柱です」
ガドが息を呑んだ。村の結界柱ですら、ひとつ傷めば村全体が揺らぐ。王都の外郭結界柱となれば、比べものにならない。
「ひびが入っているのか」
「見た目には無傷です」
「でも働かない」
「正確には、働きが鈍い。反応が遅れ、負荷が偏る。今は他の柱で補っていますが、長くは持たない」
俺は作業台の木目を指でなぞった。井戸、炉、エルナの流路。どれも“見た目はそこまで壊れていないのに、機能だけが死んでいた”。同じ種類の壊れ方だ。
「……誰が俺を指名した」
セルドは答える前に、ほんの一瞬だけエルナを見た。
「補給局、騎士団の一部、そして王都実務官僚の連名です」
「勇者一行は?」
「関与していません」
それは少し意外だった。いや、関与できないのか。俺を追放した手前、今さら呼び戻す顔がないのかもしれない。
「正式な召喚命令ではありません」
セルドは続ける。
「要請です。報酬も出す。身分も保証する。必要なら、あなた個人に工房を与えることもできる」
王都らしい言い方だ。必要な人材には、場所と肩書きを与える。だが、その代わりに囲う。
「断ったら?」
「先ほども言いましたが、放置はできません」
「つまり、囲いたいわけだ」
「保護です」
「言い換えただけだな」
セルドの目が、初めて少しだけ冷えた。
「あなたの力は、個人の裁量に任せるには危険です」
その言葉に、トーマがむっとした顔をした。ガドも眉をひそめる。エルナは一歩前に出かけて、止まった。
俺は逆に、少しだけ納得した。
ああ、こいつは本気でそう思っているのか。便利だから欲しい、だけじゃない。制御できないものを怖がっている。
「危険、ね」
「井戸を直し、炉を直し、人の流路まで戻した。しかも短時間で。王都がそれを把握しない理由はありません」
「把握して、どうする」
「管理します」
言い切った。
工房の火が、ぱち、と弾ける。
その瞬間、エルナが低く言った。
「だから私は嫌だった」
セルドが振り向く。
「エルナ殿」
「剣を失ったあとも、同じだった。治せるかもしれないと言われて、回されて、記録されて、判断を保留される。人間じゃなく、案件として扱われる」
声は静かだったが、刃みたいに鋭かった。
「だが、ここでは違った」
エルナは右手を見た。さっきまで死んでいたはずの、自分の剣を取り戻した手だ。
「この人は、最初に私に訊いた。どうしたい、と」
セルドは何も言わない。言い返せないのだろう。
俺はエルナを見て、それからセルドに向き直った。
「俺も訊く。王都は、何を直したい?」
「機能不全を解消し、損耗を止めることです」
「違う」
セルドの眉が動く。
「それは手段だ。王都は、何を守りたい」
問い返すと、セルドは初めて言葉に詰まった。
補給局の人間なら、兵站。騎士団なら、防衛。貴族なら、権威。だが王都全体となると、答えは一つじゃない。
「……秩序です」
しばらくして、セルドはそう言った。
「人が生きるための、最低限の秩序」
悪くない答えだ。少なくとも嘘ではない。
「なら、こっちも条件を出す」
俺はようやく書状に手を伸ばした。封蝋はまだ割らない。
「この村の井戸と工房は、戻ったばかりだ。結界も見ていない。俺が動くなら、まずここを最低限回る状態にする」
「時間はありません」
「そっちの都合だ」
「第三結界柱が落ちれば——」
「だからって、ここを見捨てて王都へ行けって?」
セルドが黙る。
ガドが、静かに口を開いた。
「俺たちは、あんたを縛る気はねえ」
老人の声は低いが、よく通った。
「だが、来てすぐ井戸を直し、炉に火を戻し、あの騎士様の腕まで戻した。そんなやつに、明日にはいなくなられたら困る」
トーマが何度も頷く。
「困る!」
その真っ直ぐさに、少しだけ笑いそうになる。
セルドは村人たちを見回し、最後に俺へ視線を戻した。
「どれくらい必要です」
「三日」
「長い」
「短いほうだ」
井戸の水質確認、工房の本修復の段取り、結界柱の診断。最低でもそれくらいはいる。
セルドは考える。計算している顔だ。王都の猶予と、この村で失う時間を天秤にかけている。
「二日」
「三日」
「二日半」
「値切るな」
思わず言うと、トーマがまた吹き出した。今度はガドも隠さなかった。エルナは露骨に顔を背けたが、肩が揺れている。
セルドだけが真顔のまま、深く息を吐いた。
「……三日。ですが、その間に状況が悪化した場合、私は再度強く要請します」
「聞くだけは聞く」
「そればかりですね」
「便利な言葉だろ」
ようやく、セルドの口元がわずかに歪んだ。笑った、というほどではない。だが、人間らしい表情だった。
「では、三日後。日の出とともに出立できるよう準備を」
「行くとはまだ言ってない」
「聞くだけは聞く、でしたか」
「そうだ」
セルドは諦めたように首を振った。
そのとき、工房の外から、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。村の女がひとり、息を切らして飛び込んでくる。
「村長! 東の畑の柵が倒れてる! それに、森のほうで変な鳴き声が——」
ガドの顔色が変わる。
「瘴気獣か」
「まだ見えてないけど、犬が怯えてる」
井戸が戻り、炉に火が入り、少しだけ緩んだ空気が、一気に引き締まる。
俺は火かき棒を置いた。
「東の畑、案内してくれ」
セルドが眉をひそめる。
「今からですか」
「今だからだ。壊れるのは待ってくれない」
エルナがすぐに剣へ手をかける。俺はそれを見て、先に言った。
「振りすぎるなよ」
「善処する」
「信用ならない返事だな」
「お互い様だ」
短いやり取りに、トーマが目を輝かせた。ガドは杖を握り直し、村の女は何度も頷く。
セルドだけが、その場に取り残されたみたいに一瞬立ち尽くしたあと、静かに言った。
「……なるほど。あなたは本当に、順番を自分で決めるらしい」
「言っただろ」
俺は工房の外へ踏み出す。雨はもう止んでいた。湿った土の匂いの向こう、森の奥から、確かに妙な鳴き声が聞こえる。獣の声にしては、どこか軋んでいる。壊れた音だ。
東の空は、夕暮れの色に沈みかけていた。
井戸の次は、火。
火の次は、たぶん——村そのものだ。
背後で、工房の炉が低く唸る。
あの音が消えないうちに、次を直さなければならない。




