第3話 折れた剣と、折れなかった誇り
王都の紋章をつけた馬車は、村の門をくぐるとき、ぬかるみに車輪を取られて大きく揺れた。
その揺れ方ひとつで、乗っている人間の性格が少しわかる。御者は慣れている。馬も悪くない。だが荷の重心が高い。急ぎで積み込んだか、あるいは本来こういう道を通るつもりではなかったのだろう。
工房の前にいた村人たちは、さっきまで火を囲んでいた熱を忘れたみたいに、すっと身を引いた。王都の紋章には、それだけで人を黙らせる力がある。良くも悪くも。
俺は炉の前から一歩だけ下がり、手についた煤を払った。ガド村長は釘を握ったまま、門の方を睨んでいる。トーマは俺の後ろに半歩隠れた。
馬車は二台。先頭は飾り気の少ない実務用の箱馬車で、後ろは護衛か荷車かと思ったが、幌の張り方が違う。人を乗せるためのものだ。
先頭の扉が開き、降りてきたのは、灰色の外套を着た男だった。三十代半ばほど。髪はきっちり撫でつけられ、靴には泥ひとつ跳ねていない。こういう道を歩く前提で生きていない人間の靴だ。
男は村を見回し、最後に俺へ視線を止めた。
「修復師レイン殿、で間違いありませんね」
声は丁寧だが、温度がない。確認というより、照合だ。
「そうですが」
「王都より参りました。私は王都補給局付き書記官、セルドと申します」
名乗りながら、男は胸元から小さな金属札を見せた。確かに公的なものだ。偽物ではない。
「補給局が、こんな辺境に?」
俺がそう返すと、セルドはわずかに口角を上げた。
「本来なら来ません。ですが、あなたが来た」
言い方が気に障る。だが、いま噛みついても得はない。
「用件は」
「その前に」
セルドの視線が、俺の背後——工房の炉へ向いた。白く息づく炭、立ち上る熱、煤けた壁に戻った火の色。男の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「井戸に続いて、工房まで。報告より早い」
「報告?」
「こちらの話です」
さらりと流されたが、十分だ。少なくともこの男たちは、俺がこの村に来る前から何かを追っていた。そして井戸と工房の復旧は、もう“報告対象”になっている。
ガド村長が一歩前に出た。
「王都の役人が何の用だ。税なら払えるもんはねえぞ」
「徴税ではありません。むしろ逆です」
セルドはそう言って、二台目の馬車へ目配せした。
幌がめくられる。中から降りてきたのは、女だった。
長身。濡れた灰銀の髪を後ろで束ね、旅装の上から濃紺の外套を羽織っている。腰には剣。だが、その歩き方に違和感があった。足を引きずるほどではない。けれど、重心が微妙にずれている。剣士の歩き方じゃない。
女は馬車から降りると、まず工房の火を見た。次に井戸の方へ視線を流し、最後に俺を見た。
その目は、妙に静かだった。諦めきった人間の目だ。だが、完全には死んでいない。奥に、消え残った火種がある。
「紹介します」
セルドが言う。
「元王都騎士団所属、エルナ・ヴァイス。現在は補給局預かりの身です」
「預かり、ね」
女——エルナが、低く呟いた。自嘲に近い響きだった。
騎士団所属。なるほど、立ち姿の芯はそこか。だが“元”という言葉がつく理由も、見ればわかる。腰の剣は上等だが、柄に触れる手が硬い。癖が死んでいる。
「彼女を、直していただきたい」
セルドの言葉に、村人たちがざわついた。
「人を、直す……?」 「そんなことまでできるのか」 「井戸や炉とは違うだろう」
当然の反応だ。俺だって、軽々しく頷ける話じゃない。
「どういうことです」
俺が問うと、セルドは少しだけ間を置いた。
「半年前、北方防衛線で呪具災害がありました。エルナ殿はその際、剣技の核となる“流路”を損傷しています。傷は癒えた。骨も筋も問題ない。だが、剣を振るうための感覚だけが戻らない」
言葉は理路整然としている。だが、説明の仕方が気に入らない。人を書類みたいに扱う声だ。
「医師も、神官も、魔術師も試した。結果は同じです」
セルドは続ける。
「身体は正常。ゆえに復職不能の理由が曖昧で、処遇も宙に浮いた。そこで——」
「そこで、壊れたものを直す修復師に押しつけた?」
俺が遮ると、セルドは否定しなかった。
「可能性があるなら、試す価値はある」
その瞬間、エルナの眉がわずかに動いた。怒りではない。慣れだ。そういう言われ方に、もう慣れてしまっている顔だった。
俺は彼女を見た。
「あなたは、どうしたい」
セルドではなく、本人に訊く。
エルナは少しだけ目を見開き、それから真っ直ぐ俺を見返した。
「剣を、取り戻したい」
短い。だが、迷いはなかった。
「騎士に戻りたいから?」
「違う」
即答だった。
「戻る場所が欲しいわけじゃない。ただ——あの日、守れなかったものがある」
そこで初めて、彼女の声にひびが入った。
「剣を失ってから、私は何も守れていない」
工房の火が、ぱち、と鳴る。
その一言で十分だった。地位でも名誉でもなく、守れなかった悔いが彼女をここまで引っ張ってきたのだ。
「見せてください」
俺が言うと、エルナは無言で頷き、腰の剣を抜いた。
刃は美しい。手入れもされている。欠けも歪みもない。だが、俺の目には別のものが見えた。
剣そのものではない。彼女の中を流れるはずの“型”が、途中で千切れている。肩から肘、肘から手首、手首から刃へと繋がるはずの線が、胸の奥で一度ねじれ、そこで途切れていた。
……呪いだ。
しかも、ただ壊しただけじゃない。無理やり別の向きに折り曲げてある。悪質だ。
「剣を振ってみてください」
エルナは一歩下がり、工房の前の空き地へ出た。足を開き、構える。形は美しい。訓練の積み重ねが見える。だが、次の瞬間、その美しさが崩れた。
踏み込みが浅い。肩が遅れる。刃が空気を切る前に、手首がぶれる。
そして二太刀目で、彼女は顔をしかめた。
「っ……!」
剣先が地面を擦る。止めようとしても止まらない。まるで、自分の身体なのに噛み合っていないみたいに。
トーマが息を呑んだ。村人たちも、何が起きているのかはわからなくても、異常だけは感じ取ったらしい。
エルナは剣を下ろし、何事もなかったように鞘へ戻そうとした。だが、その指先がわずかに震えているのを、俺は見た。
「痛みますか」
「……少し」
「嘘だな」
思ったより先に言葉が出た。
エルナが目を細める。怒るかと思ったが、そうではなかった。むしろ、見抜かれたことに少しだけ力が抜けたようだった。
「動かすたびに、焼けるみたいに痛む」
「最初からそう言ってください」
「言ったところで、治せる者はいなかった」
その返しは、重かった。
俺は一度、目を閉じる。井戸や炉と違って、人は簡単じゃない。形だけ戻しても意味がない。流れを見て、どこで折れ、どこで逆流しているかを確かめる必要がある。
「触れます」
そう告げると、エルナは一瞬だけ迷い、それから剣を左手に持ち替えて右腕を差し出した。
手首に指を当てる。
冷たい。だが脈の下に、細い針のような違和感が走っている。流れるべきものが、流れるたびに傷口を擦っている感覚。俺の“視界”が深くなる。皮膚の下、筋の奥、もっと内側。剣を振るうための感覚の道筋が、黒く捻れていた。
その中心に、小さな棘みたいなものが刺さっている。
「これか……」
「何かわかるのか」
「呪具の欠片です。完全には抜けていない」
セルドが眉をひそめた。
「そんな報告は受けていない」
「見落としたんでしょう。あるいは、見えても手が出せなかったか」
俺はエルナから手を離した。
「抜けば終わり、ではありません。流れそのものが折れています。戻すなら、痛みます」
「構わない」
即答だった。
「最後まで聞いてください。痛いだけじゃない。途中で止めれば、今より悪くなるかもしれない」
それでも、エルナは目を逸らさなかった。
「それでも構わない」
工房の火が、また低く鳴る。まるで、答えを急かすみたいに。
俺はガドを見る。
「椅子を借りたい。あと、布と、噛むもの」
「すぐ持ってくる」
ガドはもう迷わなかった。トーマも走る。さっきまで“王都の客”だった女が、今はこの工房の中で、直すべきものとして受け入れられ始めている。
椅子が運ばれ、エルナが腰を下ろす。俺は布を細く折り、彼女に差し出した。
「無理なら、途中で止めます」
「止めるな」
「それを決めるのは俺です」
言うと、エルナはほんの少しだけ口元を緩めた。初めて見た表情だった。
「……そうか」
右腕に再び触れる。今度は、もっと深く。
棘に触れた瞬間、エルナの肩が跳ねた。
「っ、ぁ……!」
「息を止めないで。吐いて」
黒く捻れた流れを、少しずつ正しい向きへ撫で戻す。棘は流れに逆らって食い込んでいる。無理に引けば裂ける。だから、周囲からほどく。井戸の石を外すみたいに。炉の詰まりを崩すみたいに。急がず、一つずつ。
エルナの額に汗が滲む。布を噛む音がした。椅子の脚が、ぎ、と鳴る。
村人たちは息を潜めて見守っていた。トーマは拳を握りしめ、ガドはランプを持つ手を微動だにさせない。セルドだけが、少し離れた場所で腕を組んでいる。あの男は結果しか見ない。なら、見せてやればいい。
「もう少し」
棘が、動く。
黒い流れの中心で、異物がわずかに浮いた。そこへ指先の感覚を集中させる。引くんじゃない。押し出す。折れた流れが、自分で自分を思い出せるように。
エルナが、喉の奥で声にならない声を漏らした。
「——今だ」
最後のひと押し。
指先に、硬い感触が抜けた。
同時に、捻れていた流れが、ばち、と音を立てるみたいに繋がった。
エルナの身体が大きく震える。だが次の瞬間、その肩から先に通る線が、まっすぐ刃の先まで伸びたのが見えた。
戻った。
俺はゆっくり手を離す。掌の上には、豆粒ほどの黒い欠片がひとつ、汗に濡れて転がっていた。
「これが、刺さっていた」
セルドが目を見開く。ガドが低く息を呑む。トーマは「ちっちゃい……」と呟いた。
エルナは俯いたまま、荒い呼吸を繰り返していた。痛みが消えたわけじゃない。だが、さっきまでの焼けるような歪みは、もうないはずだ。
「立てますか」
数秒の沈黙のあと、エルナは自分の足で立ち上がった。
右手を開き、閉じる。肩を回す。手首を返す。そのたびに、彼女の目が少しずつ見開かれていく。
「……軽い」
信じられないものに触れた声だった。
「剣を」
俺が言うと、エルナは鞘を払った。
今度の構えは、さっきと違った。重心が落ちる。肩と腰が噛み合う。刃が、手の延長になる。
一歩。
踏み込む。
銀の線が、空気を裂いた。
速い。
さっきまでのぎこちなさが嘘みたいに、刃がまっすぐ走る。返す二太刀目はさらに鋭く、三太刀目で風が鳴った。工房の前の湿った空気が、剣圧で押しのけられる。
最後に、彼女は半歩引いて剣を止めた。
ぴたり、と。
その静止の美しさに、誰もすぐには声を出せなかった。
最初に息を吐いたのは、トーマだった。
「すげえ……!」
その一言で、張り詰めていた空気が弾けた。村人たちがどっとざわめき、ガドが目を細める。セルドでさえ、言葉を失っている。
エルナは剣を見た。次に、自分の右手を。そうしてから、ゆっくり俺を見る。
「……戻った」
「ああ」
「本当に」
「本当です」
彼女の喉が震えた。泣くのを堪えるみたいに、一度だけ目を閉じる。
それから、エルナは剣を鞘に納め、俺に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう」
その声は、さっきまでの諦めを少しも残していなかった。
俺は肩の力を抜く。
「礼は、まだ早い。流れは戻ったけど、長く止まっていた分、癖は残る。無茶をすればまた痛む」
「なら、鍛え直す」
即答だった。今度のそれは、折れていない声だった。
ガドが、ふっと笑う。
「火が戻った日に、剣まで戻るとはな」
「今日はよく息をする日らしい」
俺がそう返すと、トーマがけらけら笑った。つられて、何人かも笑う。小さな村の、煤けた工房の前で。さっきまで死んだみたいだった場所に、火と水と笑い声が揃っていた。
だが、その空気を壊すように、セルドが咳払いをひとつした。
「感動のところ申し訳ありませんが、話は終わっていません」
やっぱりそう来るか。
「エルナ殿の件は、あくまで確認の一つです。本題は別にある」
セルドは懐から封蝋付きの書状を取り出した。王都の正式印。補給局だけじゃない、もっと上の権限が絡んでいる印だ。
「王都で、修復不能とされた案件が発生しています」
工房の火が、ぱち、と鳴る。
「聖剣ではありません。ですが、それに準ずる重要案件です。あなたに、王都への同行を要請したい」
村人たちの空気が、また固くなる。せっかく戻った火が、外から吹き込む風で揺れるみたいに。
俺は書状を見た。次に、井戸のある広場の方を見る。水音が、まだかすかに聞こえる。ここは、ようやく息をし始めたばかりだ。
「断ると言ったら」
セルドは少しだけ目を細めた。
「その場合でも、あなたを放置はできません」
脅しではない。事実の形をした圧力だ。
エルナが一歩、俺の横に並んだ。
「なら、私も残る」
セルドが眉をひそめる。
「エルナ殿、あなたは——」
「預かりの身、だったな」
彼女は静かに言った。
「だが今、剣は戻った。なら、次は私が選ぶ番だ」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
直す相手は、俺が選ぶ。
さっき道標に向かって言った言葉が、別の形で返ってきた気がした。
工房の炉は、安定した音で燃えている。井戸は水を返し、剣は風を切った。
次に来るのが王都の厄介事だとしても——少なくとも今は、悪くない。
俺はセルドの差し出す書状を受け取らず、先にこう言った。
「話は聞きます。でも、順番はこっちが決める」
セルドの口元が、わずかに硬くなる。
その反応を見て、胸の奥で小さな火が灯った。
追放されたときにはなかった感覚だ。
ここには、俺の手で直したものがある。
そして、俺の言葉を待つ人たちがいる。
なら、もう簡単には奪わせない。




