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第31話 火の区に潜む手



 工房区の空気は、火の熱とは別の意味で張り詰めていた。


 炉の前に立つ職人たちは、手を止めてはいない。止めれば、その瞬間に火が死ぬ。だが動いているからといって、流れが戻っているわけでもなかった。炭車は通る。鉱材も運ばれる。排出路も人がついている。にもかかわらず、どこかで必ず噛み合わない。ひとつを通せば別のひとつが詰まり、ひとつを救えば別の炉が息を詰まらせる。


 まるで、誰かが見えないところで、わざと継ぎ目をずらしているようだった。


 レインは、さっき樋の内側から抜き取った油じみた布切れを見下ろしていた。黒い粉を含み、水を吸って重くなった布。完全に流れを止めるものではない。だが、樋の内側に押し込めば、水量をわずかに鈍らせるには十分だ。しかも、表から見ただけでは気づきにくい。


「こんな細工、工房の外の人間には無理だ」


 ガルムが低く言った。怒りを押し殺した声だった。


「どこへ詰めれば、どの炉に遅れが出るか知ってやがる」


「知ってるだけじゃない」


 セルドが布切れを受け取り、指先で重さを確かめる。


「見つかりにくい場所を選んでる。しかも、すぐ壊れない程度に。現場が『たまたま調子が悪い』と思うくらいの加減だ」


 エルナが鼻を鳴らした。


「性格の悪い手だね」


「だから厄介なんだ」


 レインは樋の縁に残る黒い粉を見た。


「壊すことより、壊れたように見せることを優先してる」


 その言葉に、ガルムの顔がさらに険しくなる。工房区の職人たちにとって、炉の不調は腕の問題と見られかねない。火を扱う者にとって、それは侮辱に近い。だからこそ、こういう壊し方は効く。現場が自分を責め、互いを責め、原因を外に求める前に自壊していく。


 ガルムは拳を握りしめた。


「誰だ。うちの中に、こんな真似をするやつがいるのか」


「中にいるか、出入りしてるかはまだわからない」


 レインは答えた。


「でも、現場の事情に通じてるのは確かだ」


 そのとき、奥の通路からエルナが戻ってきた。肩で息をしている。


「逃げ足だけは速い。灰捨て場の裏から抜けられた。あの道、普段から使ってるやつじゃないと迷うよ」


「やっぱり工房区の地理を知ってる」


 セルドが言う。


「しかも、逃げるだけじゃない。見つかったときの逃げ道まで用意してる」


 ガルムが舌打ちした。


「くそったれが……」


 だが、怒っているだけでは足りない。レインはそう思った。今必要なのは、目の前の細工を暴くだけではなく、**どういう手で妨害が入っているかを現場全体に見せること**だ。そうしなければ、また別の場所で同じことが起きる。


「ガルム」


「何だ」


「今から、わざと一つ流れを動かす」


 ガルムが眉をひそめる。


「何?」


「相手がどこを触ってるか、炙り出す」


 周囲の職人たちがざわついた。今でさえ危うい工房区で、さらに流れを動かすなど正気ではない、と顔に書いてある。


 だがレインは続けた。


「今の妨害は、全部を止めるためのものじゃない。少しずつ遅らせて、現場が自分で崩れるようにしてる。なら、こちらが意図的に順を変えれば、相手は必ずどこかで合わせに来る」


「待て」


 ガルムが低く言う。


「それで余計に崩れたらどうする」


「だから全部は動かさない。東二列だけだ」


 レインは炉の並びを指した。


「今、東二列はかろうじて生きてる。ここに炭と鉱材を寄せるふりをする。相手がそこを止めたいなら、排出か冷却か搬入のどこかに手を入れる」


 セルドがすぐに意図を理解した。


「つまり、罠だね」


「そうだ」


 エルナが口の端を上げる。


「やっと追う側に回れるってわけか」


 ガルムはしばらく黙っていた。職人頭として、危うい現場で賭けを打つのは簡単ではない。だが、何もしなければ相手の好きにされるだけだということも、もうわかっている。


「……やるなら、失敗は許さん」


「失敗しないように動く」


 レインは短く答えた。


 そこからの動きは速かった。ガルムが職人たちへ指示を飛ばし、東二列へ炭車と鉱材を寄せる。セルドは帳場付きと見習いを使って、どの通路に誰が出入りしたかを記録させる。エルナは灰捨て場と搬入口の間を見張り、逃げ道を潰す。レイン自身は、樋と排出路と搬入口の継ぎ目を見て回った。


 工房区は混乱している。だからこそ、紛れ込むには都合がいい。桶を持つ者、炭を運ぶ者、灰を捨てる者、雑役、見習い。誰もが忙しく、誰もが他人を細かく見ていない。


 だが、だからこそ見えるものもある。


 東二列へ炭車が寄ったとき、ひとりの雑役が、必要もないのに南樋の脇へ回った。桶を持っているが、水を汲む様子がない。視線だけが、周囲を窺っている。


 レインは何も言わず、その動きを目で追った。


 男は樋の陰へしゃがみ込み、袖の中から何かを出した。


「今だ」


 レインが低く言うより早く、エルナが飛んだ。


「そこだ!」


 男が弾かれたように立ち上がる。手から黒い布束が落ちた。逃げようとした瞬間、反対側からセルドが足元へ木箱を蹴り込み、男の進路を塞ぐ。


「右はないよ」


 男は舌打ちし、左へ切り返す。だがそこにはガルムがいた。職人頭の太い腕が、男の胸ぐらを掴み上げる。


「誰の差し金だ」


 男は答えない。目だけが鋭く動く。怯えているというより、計算している目だった。


 レインは落ちた布束を拾った。中には黒い粉を含ませた布のほかに、細い木片と小さな金具が入っている。樋の内側や排出路の継ぎ目に差し込み、流れを鈍らせるための道具だ。


「やっぱり、現場を知ってる」


 レインが言うと、男の目が一瞬だけ揺れた。


 セルドはその揺れを見逃さない。


「工房区の人間じゃないにしても、出入りはしてるね。そうでなきゃ、どこへ差し込めば効くかなんてわからない」


 ガルムが胸ぐらをさらに締め上げる。


「喋れ」


 男は唇を噛んだまま黙っていた。だが、完全に無表情ではいられない。レインが布束を開き、黒い粉を見せたとき、男の視線がわずかに逸れた。


「これをどこで受け取った」


 レインの問いに、男は初めて口を開いた。


「……知らねえよ」


「知らないやつが、こんな細工道具を持って樋に手を入れるか」


「雑役だ。言われた通りにやっただけだ」


「誰に」


 男は黙る。


 その沈黙が、逆に答えだった。

 ただの小悪党ではない。口を割れば、自分だけでは済まないと知っている沈黙だ。


 セルドが男の袖口を見て、ふと眉をひそめた。


「これ、煤じゃない」


 袖の内側に、薄く赤い線がついている。染料のようにも見えるが、工房区の煤汚れとは違う。


「印か?」


 エルナが覗き込む。


 男は反射的に腕を引いた。その動きが、かえって不自然だった。


 レインは静かに言う。


「見せろ」


 ガルムが腕をねじ上げる。袖がずれ、内側に細い焼き印のような痕が見えた。文字ではない。だが、ただの火傷でもない。何かの印だ。


 工房区の職人たちがざわめく。


「うちの印じゃねえ」 「見たことないぞ」


 男は歯を食いしばったまま、なおも口を閉ざしていた。だが、その目が一瞬だけレインを見たとき、そこにあったのは憎しみではなく、**警戒**だった。


 レインはその視線を受け止めた。


「……俺を知ってるな」


 男の喉がわずかに動く。


 セルドが息を呑む。


「やっぱりそうか」


「何がだ」


 ガルムが問う。


 レインは男から目を離さずに答えた。


「こいつは、たまたま見つかったから逃げたんじゃない。最初から、俺を避けるように動いてた」


 エルナが低く笑う。


「つまり、向こうはもう知ってるってことだね。倉区を戻したやつが、工房区にも来たって」


 男はそこで初めて、はっきりと顔を歪めた。

 それは否定ではなかった。


 ガルムの手に力がこもる。


「修復師を止めろ、ってか」


 男はなおも喋らない。だが、もう十分だった。


 工房区の妨害は偶発的な不調ではない。

 誰かが意図して流れを壊し、しかも**レインの修復を止めるために動いている**。


 その事実が、現場の真ん中で暴かれた。


 ガルムは男を見下ろし、吐き捨てるように言った。


「ただの雑役じゃねえな」


「違う」


 レインは答えた。


「でも、こいつが全部でもない」


 男のような手が、工房区の中にまだあるかもしれない。あるいは、外から出入りしているかもしれない。いずれにせよ、敵は現場の事情に通じ、こちらの動きまで見ている。


 工房区の火はまだ不安定なままだ。危機は去っていない。だが、敵の手口は見えた。


 そして何より、敵はもう、レインをただの流れ者の修復師とは見ていない。


 止めるべき相手として、認識している。


 その事実が、工房区の熱よりも重く、場に落ちた。

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