第32話 脅威としての名
捕らえた男は、結局ほとんど喋らなかった。
工房区の詰所へ連れて行かれ、ガルムとミハイルが交互に問い詰めても、返ってくるのは「知らない」「言われた通りにやった」ばかりだった。だが、それでも無意味ではない。喋らないこと自体が、男の背後に何かある証拠だった。
しかも、男の持っていた細工道具と袖の内側の印は、工房区の誰にも見覚えがなかった。現場の雑役にしては手慣れすぎている。かといって、ただの雇われ仕事なら、ここまで口を閉ざす理由も薄い。
「口を割らないのは、割れないからだろうね」
セルドが詰所の外で言った。
「喋ったら自分だけじゃ済まないと思ってる」
エルナが壁にもたれ、腕を組む。
「脅されてるか、縛られてるか。どっちにしろ、下っ端だ」
「でも、下っ端でも十分だ」
レインは短く答えた。
「向こうが、こっちを止めるために動いてるってわかった」
その一言の重みは、倉区のときとは違っていた。倉区では、壊された流れを見抜いた。工房区では、壊している手を掴んだ。しかもその手は、ただ現場を乱すためではなく、**レインが直す前に止めるため**に動いていた。
それは、周囲の見方を変えるには十分だった。
詰所の外には、工房区の職人たちが何人も集まっていた。昨日まで露骨にレインを嫌っていた者たちもいる。だが今、その視線は違っていた。好意ではない。もっと切実なものだ。
――この男がいなければ、見えなかった。
そう認めざるを得ない視線だった。
ガルムが詰所から出てきた。顔は険しいままだが、昨日までの拒絶はもうない。
「喋らん。だが、十分だ」
「十分?」
エルナが聞き返す。
「工房区の中で、誰かが意図して流れを壊してる。それを現場の前で暴いた。職人どもも見た。もう『たまたま不調が重なった』じゃ済まん」
ガルムはそこでレインを見た。
「お前の言った通りだった」
それは感謝ではない。職人頭なりの、重い認定だった。
レインはうなずくだけに留めた。ここで言葉を重ねても意味はない。大事なのは、工房区の現場がようやく同じ前提に立ったことだ。
だが、その変化は現場だけに留まらなかった。
昼過ぎ、倉区からミハイルの使いが戻ってきた。倉区の古参管理者が、工房区の詰所へわざわざ顔を出したのだ。以前なら考えにくいことだった。
「本当に工房区でも同じ手が入っていたのか」
古参管理者は、捕らえた男と細工道具を見て、苦い顔をした。
「倉区だけの恥じゃなかったってわけだ」
「恥で済めばいいがな」
ガルムが吐き捨てる。
古参管理者は鼻を鳴らしたが、レインを見る目には、もう露骨な侮りはなかった。
「西門の修復師、だったか」
その呼び名が、工房区の中でも自然に通じたことに、レインは少しだけ違和感を覚えた。倉区で広がった名が、もうここまで届いている。
「倉区を戻し、工房区の妨害まで暴いた。噂になるのも当然か」
セルドが小さく言う。
「噂で済めばいいけどね」
その言葉の意味は、すぐに現れた。
夕方、詰所の裏口で見張りをしていた見習いが、妙な紙片を拾った。丸めて捨てられていた小さな紙だ。何気なく開いた見習いが青ざめて、セルドのところへ持ってきた。
紙には短く、乱暴な字でこう書かれていた。
**――修復師を通すな。火を戻させるな。**
それだけだ。署名もない。だが十分すぎた。
エルナが紙を見て、目を細める。
「ずいぶん親切に教えてくれるじゃないか」
「親切じゃない」
セルドは紙の端を指でなぞった。
「これは命令の写しだ。たぶん、誰かが受け取ったものを捨てた」
「わざと落とした可能性は?」
「ある。でも、どっちでも意味は同じだよ」
セルドはレインを見た。
「向こうは、もうはっきりお前を名指しで止めようとしてる」
ガルムが低く唸る。
「修復師を通すな、か」
「つまり、工房区の不調は偶然じゃないどころか、レインが入った後にさらに強められる可能性がある」
ミハイルの声には緊張が滲んでいた。
その場にいた職人たちの空気が変わる。
昨日まで「外から来た修復師」だった男が、今は敵にとって止める価値のある相手になっている。
それは、現場の人間にとって何よりわかりやすい証明だった。
「……そこまでか」
古参管理者がぼそりと呟く。
「倉区で流れを戻しただけじゃない。向こうにとって、邪魔になるほど見えてるってことだ」
レインは紙片を見下ろした。
修復師を通すな。
火を戻させるな。
短い文だ。だが、その裏にははっきりした意志がある。壊すだけでは足りない。直されることまで織り込んで、止めに来ている。
セルドが静かに言う。
「これで、周りの見方は変わるよ」
「変わってほしいわけじゃない」
レインは答えた。
「必要なのは、工房区を落とさないことだ」
「でも、変わる」
ガルムが言った。
「現場の連中は、役に立つかどうかでしか人を見ない。お前はもう、便利な手伝いじゃない。止められなきゃならん相手だ」
その言葉は、妙な重みを持っていた。
評価された、というだけではない。
敵にとっての脅威として、王都の現場に位置づけられたのだ。
だが、良いことばかりでもなかった。
詰所の隅で、工房区の帳場付きの一人が小声で言うのが聞こえた。
「そこまで目立つと、上の連中が嫌がるぞ」 「現場を勝手に動かす修復師なんて、扱いづらいからな」
セルドもそれを聞いていたらしく、苦笑した。
「評価が上がると、別の面倒も増える」
「上が勝手に面倒になるのは後でいい」
エルナが言う。
「今は目の前だろ」
その通りだった。
工房区の危機は、まだ終わっていない。むしろ、敵がレインを止めようとしているとわかった以上、これからさらに強く来る可能性が高い。
そして、その予感はすぐに現実になった。
日が落ちる少し前、東二列の奥から、今までとは質の違う音が響いた。金属が軋む音ではない。もっと重い、腹に響くような低い唸りだ。
ガルムが顔を上げる。
「何だ、今のは」
次の瞬間、見習いが駆け込んできた。
「頭! 東四番炉の排出が逆流してます! 五番も熱が抜けません! 南樋の水が急に落ちた!」
詰所の空気が凍る。
レインはすぐに立ち上がった。
「連鎖が始まった」
「今すぐ動かなきゃまずいってことか」
エルナが問う。
レインはうなずく。
「工房区だけじゃ済まない。ここが落ちると、倉区へ戻す荷も止まる。王都全体に響く」
ガルムが歯を食いしばる。
「……来やがったな」
敵は、こちらを認識した。
そして認識した上で、止めに来ている。
工房区の本格崩落は、もう目の前だった。




