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第29話 火の区の拒絶

 工房区へ足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。


 倉区に満ちていたのが、麻袋の繊維や木箱の乾いた匂い、荷車の軋みと人足の怒鳴り声だとすれば、こちらはまるで別の生き物の腹の中だった。熱い。鉄の焼ける匂い、油の焦げる匂い、湿った石床に落ちた水が蒸気になる匂い。耳に入るのも、荷の呼び声ではなく、槌が金属を打つ高い音、炉の唸り、ふいごの息づかい、職人たちの短く荒い声だ。


 火で動く区画。


 レインはそう思った。


 だが、その火の流れが、どこかで噛み合っていない。


 入口から見えるだけでも、妙なことはいくつもあった。炉の前に立つ職人の数に対して、素材を運ぶ台車が少ない。逆に、搬入口の脇には鉱材の箱が積まれたまま動いていない。炭置き場は空ではないのに、奥の炉場では「炭が遅い」と怒鳴る声がする。熱気はあるのに、区画全体の動きに勢いがない。


 倉区で見た「詰まり」とは違う。

 だが、これもまた流れの異常だった。


「止まれ」


 低い声が飛んだ。


 工房区の中央へ続く石敷きの通路を塞ぐように、数人の男が立っている。先頭にいたのは、肩幅の広い大柄な男だった。煤けた革前掛けをつけ、腕には古い火傷の跡が走っている。片目の上の傷が、睨みつける視線をさらに険しく見せていた。


「ここから先は工房区だ。見物なら帰れ」


 ミハイルが一歩前へ出る。


「ガルム、見物じゃない。倉区を戻した修復師を連れてきた」


「聞いてる」


 ガルムと呼ばれた男は、レインを頭から足先まで値踏みするように見た。


「西門だか倉区だかで、少し当てたらしいな」


「少し、ではありません」


 ミハイルが言い返しかけたが、ガルムは手で制した。


「だがここは倉じゃねえ。荷の順を並べ替えりゃ済む場所じゃない。火を扱う場所だ。炉の癖も、素材の癖も、職人の手の速さも違う。外から来た修復師に、わかったような顔をされるのが一番腹立たしい」


 周囲の職人たちが、あからさまにうなずく。


 歓迎されていない。

 それどころか、最初から拒絶されている。


 エルナが小さく舌打ちした。


「感じ悪いな」


「感じで鉄は打てん」


 ガルムは吐き捨てるように言った。


 セルドがレインの横で、静かに周囲を見回している。彼もまた、倉区とは違う種類の緊張を感じ取っているはずだった。倉区では、反発の中心は「外から来た者に現場を荒らされたくない」という意地だった。だが工房区のそれは、もっと根が深い。ここには、修復師という存在そのものへの偏見がある。


 壊れたものを後から直す者。

 火を扱わず、手を汚さず、口だけで現場に入ってくる者。

 そういう見方が、視線の端々に滲んでいた。


 レインは反発しなかった。ただ、入口から見える範囲をゆっくりと見渡した。


 炉の列。炭置き場。鉱材の搬入口。排出路。冷却水の樋。職人たちの立ち位置。止まっている台車。動いているのに進んでいない人の流れ。


 そして、床に薄く残る黒い粉。


「……直してほしいのは、炉そのものじゃないな」


 その一言で、空気が止まった。


 ガルムの眉がぴくりと動く。


「何だと」


「炉が悪いなら、同じ型の炉が同じように死ぬはずだ。でも違う。火が弱い炉、熱がこもる炉、素材が遅れて止まる炉が混ざってる」


 レインは一歩進み、石床に落ちた粉を指先でなぞった。


「問題は火じゃない。供給と排出と搬入の噛み合わせだ」


 ざわ、と職人たちの間に波が走る。


「見ただけで何がわかる」 「口でなら何とでも言える」


 そんな声が上がる中、レインは続けた。


「炭置き場は空じゃないのに、奥の炉場では炭が遅れてる。なら足りないんじゃない。届く順が崩れてる。鉱材も同じだ。先に入るべきものが後ろに回されてる。しかも排出路が詰まりかけてるから、熱の抜け方まで狂ってる」


 セルドがしゃがみ込み、床の黒い粉を拾った。


「これ、倉区の裏搬入路で見たものに近い」


 ガルムが振り向く。


「倉区だと?」


「逃げた下役の逃走路に残っていた粉です」


 ミハイルが言う。


「工房区か水路区に繋がる手がかりではないかと見ていました」


 ガルムの顔色がわずかに変わった。だが、すぐに険しさを取り戻す。


「だから何だ。粉が似てるだけで、うちが倉区と同じように壊されてるとでも言うのか」


「同じじゃない」


 レインは首を振った。


「倉区は順番を壊されていた。ここは、火が生きるための継ぎ目を壊されてる」


「継ぎ目?」


「炭が届く、素材が入る、熱が抜ける、水が回る。そのどれか一つじゃなく、噛み合う順番が少しずつ狂ってる。だから一つの炉の故障に見えて、実際は区画全体が鈍ってる」


 ガルムは黙った。


 その沈黙は、納得ではない。だが、完全な否定でもなかった。レインの言葉が、現場で起きている違和感と噛み合ってしまったのだ。


 そのとき、奥の炉場から怒鳴り声が上がった。


「送風が足りねえ!」 「誰だ、炭車を止めたのは!」 「鉱材が来ないぞ!」


 さらに別の方向から、金属の嫌な軋み音が響く。


 ガルムが振り返る。


「またか……!」


 職人の一人が駆け込んできた。


「頭! 三番炉が熱を保てません! 五番の排出路も詰まりかけてる!」


「さっき抜いたばかりだろうが!」


「だからおかしいんです!」


 レインはそのやり取りを聞きながら、視線を奥へ向けた。入口から見えない位置にある炉場で、複数の不調が同時に起きている。偶然にしては、噛み合いすぎている。


「案内してくれ」


 ガルムが振り返る。


「何?」


「見れば、どこが先に死ぬかわかる」


 その言い方が気に障ったのか、ガルムの顔が険しくなる。


「死ぬだと」


「このままなら、だ」


 レインは淡々としていた。


「今はまだ、各工房が自分の不調だと思ってる。でも違う。流れ全体が崩れ始めてる。ここで見誤ると、一つずつじゃなく連鎖で来る」


 職人たちの間に、今度は別のざわめきが広がる。

 不快さではなく、不安だ。


 ガルムはしばらくレインを睨んでいた。やがて、低く言う。


「……ついてこい。ただし、勝手に触るな」


「まだ触らない」


 レインは答えた。


「まず、どこが壊されてるかを見る」


 その返答に、ガルムは一瞬だけ目を細めた。

 “壊れている”ではなく、“壊されている”。


 その言葉を、工房区の職人頭は聞き逃さなかった。


 奥へ進むにつれ、工房区の不調はさらに露わになった。炉の前で職人が苛立ち、炭車が通路で止まり、排出待ちの半製品が積み上がり、冷却水の桶を持った見習いが右往左往している。誰も怠けてはいない。むしろ全員が必死だ。だが、必死であるほど、全体の噛み合わせは見えなくなる。


 レインは足を止め、三番炉と五番炉、その間の排出路、さらに南側の樋を見た。


「……ここだな」


「何がだ」


「最初に崩れる場所だ」


 ガルムが息を呑む。


「どうしてそう言える」


「三番炉は火が弱いんじゃない。熱が保てない。五番炉は逆に熱が抜けない。なら炉そのものじゃなく、間にある流れが狂ってる。しかも南樋の水が遅い。ここが噛み合わなくなると、東側まで巻き込む」


 セルドが樋の縁を見て、眉をひそめた。


「ここにも粉がある」


 倉区の裏で見たものと同じ、黒い粉。


 ガルムの顔から、ついに侮りが消えた。


「……お前、本当に見えてるのか」


「見えてるのは、壊れ方だ」


 レインは答える。


「まだ、誰がやったかまでは見えてない」


 そのとき、まるで言葉を待っていたかのように、奥から一斉に叫び声が上がった。


「火が落ちる!」 「排出が詰まる!」 「冷却水が来ない!」


 工房区の空気が、一瞬で変わった。


 前兆が、現実になったのだ。


 ガルムはレインを見た。さっきまでの拒絶は、もうそこにはなかった。代わりにあるのは、認めたくない現実を前にした職人の目だった。


「……どうする」


 その問いは、まだ全面的な信頼ではない。

 だが、工房区の職人頭が初めて、レインに判断を求めた瞬間だった。


 レインは崩れ始めた火の区を見渡し、静かに息を吐いた。


「まず、全部を守ろうとするのをやめる」


 工房区の危機は、ここから本当に始まる。

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