第17話 王都へ向かう道で、修復師の名が少しずつ広がり始める
宿場を発つころには、日がだいぶ傾き始めていた。
管理役は水場の封鎖と厩舎の藁の入れ替えに追われ、旅人たちもそれぞれに靴底を払い、荷車の軸を拭き、妙に落ち着かない顔で出立の準備をしている。さっきまでただの故障や疲れだと思っていたものが、見えない異物の仕業かもしれないと知ったのだ。無理もない。
それでも、止まっていた流れは少しずつ動き出していた。
厩舎裏で直した荷車が先に街道へ戻り、そのあとに入口で立ち往生していた一台も続く。御者たちは何度も車輪を確かめながら進んでいくが、さっきまでの苛立ちだけの顔ではない。警戒と、それでも進まなければならないという覚悟が混じっていた。
「見送られる側になるとは思いませんでした」
セルドが帳面の写しを懐へしまいながら言う。
宿場の管理役だけでなく、足を戻した旅人や御者たちまで、俺たちが街道へ出るのを見ていた。礼を言いたいのか、不安を託したいのか、その両方か。視線の意味は一つじゃない。
「好きで見られてるわけじゃない」
俺が言うと、エルナが横で小さく笑った。
「でも悪い気はしてない顔だ」
「してないとは言ってない」
「否定が弱いな」
言い返しかけて、やめた。
実際、少しだけ妙な気分ではあった。村では、最初は余所者として見られ、最後にようやく“見捨てなかったやつ”として送り出された。ここでは、たった半日で荷車と人の足を戻し、宿場の壊れ方を見抜いた修復師として見られている。
どちらも居心地がいいとは言えない。だが、少なくとももう“何もできないやつ”として見られてはいない。
街道へ出ると、空は夕方の色へ変わり始めていた。王都まではまだ距離がある。今日は次の小さな中継所まで進み、そこで夜を越す予定だとセルドが言っていた。
「日が落ちる前に、分岐の石標までは行きたいですね」
「まだ歩かせるのか」
「歩いて王都へ向かっているのは、今さらでしょう」
「言い方があるだろ」
「事実です」
いつものやり取りに、エルナが肩をすくめる。
「この二人、だいぶ馴染んだな」
「不本意だ」
「私もです」
セルドが即答するあたり、たぶん本当に不本意なのだろう。だが、最初の刺々しさはもう薄い。少なくとも、同じものを見て、同じ方向へ進んでいる感覚はある。
しばらく歩くと、後ろから車輪の音が近づいてきた。
振り返ると、宿場で直した荷車の一台だった。御者が手綱を引きながら速度を落とし、俺たちの横で止まる。
「おい、修復師!」
朝に入口で立ち往生していた荷車の御者だ。汗と土にまみれた顔で、だが今ははっきりした目をしている。
「何だ」
「さっきは助かった」
ぶっきらぼうな言い方だったが、礼なのはわかった。男は少し言い淀んだあと、荷台の脇から小さな革袋を取り出す。
「大したもんじゃないが、受け取れ」
「いらない」
「そう言うと思ったよ」
男は苦笑して、代わりに水袋を差し出した。
「じゃあこっちだ。次の中継所まで、街道脇の湧き水は使うな。さっき宿場で聞いた話が本当なら、念のためな」
俺は少しだけ目を見開いた。
ただ礼を言いに来ただけじゃない。自分が聞いたことを、自分なりに考えて返してきたのだ。
「……助かる」
「お前が言うと、妙に重いな」
「気のせいだ」
御者は鼻で笑い、手綱を鳴らす。
「王都へ行くんだろ。なら気をつけろ。あんたの話、たぶんもう次の宿にも回る」
「は?」
「荷車が二台も止まって、人まで足を悪くしてたんだ。そこで余所者の修復師が直した。こんなの、街道じゃすぐ広まる」
そう言い残して、男は荷車を進めていった。
車輪の音が遠ざかるのを聞きながら、エルナが口元を上げる。
「広まるらしいぞ」
「勝手に広めるな」
「もう遅いでしょうね」
セルドが淡々と言う。
「宿場は情報の集積地です。荷と一緒に噂も流れます」
「嬉しそうだな」
「便利だと言っているだけです」
だが、その便利さは確かにある。
王都へ着く前に、俺たちのことを知る者が増える。
それは面倒の種にもなるが、同時に、異物の被害を見た者が声をかけてくる可能性も増えるということだ。
道を進むうち、街道脇の景色は少しずつ開けていった。林が薄くなり、代わりに低い丘と畑が見える。遠くには小さな集落の屋根もある。村の周辺より人の流れが濃いぶん、道そのものも踏み固められていた。
だが、その土の上に、時折あの黒いざらつきが混じる。
完全に消えたわけじゃない。宿場で止めても、流れの先にはまだ残っている。
「……見ろ」
俺が足元を示すと、エルナがしゃがみ込んだ。
「薄いな」
「でもある」
セルドも確認する。
「宿場よりは少ないですが、途切れてはいませんね」
「王都へ近づくほど濃くなるかもしれない」
「あるいは、逆に分散して見えにくくなるか」
どちらもあり得る。厄介なのは、異物が目立たないことだ。黒い粉は土や煤に紛れ、荷車の軸や靴底に入り込み、気づかれないまま運ばれていく。
そのとき、前方から二人連れの旅人がやってきた。片方は年配の男、もう片方は若い女だ。すれ違いざま、女のほうがこちらを見て足を止める。
「……あの」
俺たちも止まる。女は少し迷ったあと、意を決したように言った。
「宿場で、荷車と人の足を直した修復師って、あなたですか」
もう回っているのか。
セルドが小さく息を吐き、エルナは面白そうに眉を上げる。
「そうだが」
俺が答えると、女はほっとしたような、逆に切羽詰まったような顔になった。
「父の足も、朝から急に重くなって……転んではいないんです。でも、歩くたびに膝が抜けるみたいで」
隣の年配の男が気まずそうに顔をしかめる。
「大げさだ。少し休めば——」
「さっきもそう言って、三回つまずいたでしょう」
俺は男の足元を見る。靴底、裾、膝の流れ。やはり浅いが、噛んでいる。
「座れ」
「え?」
「今ならすぐ戻せる」
男は戸惑ったが、娘に押されるようにして道端の石へ腰を下ろした。
処置は宿場でやったのと同じだった。膝裏に溜まったざらつきを押し戻し、足首へ逃がし、靴底の粉を払う。男は最初こそ顔をしかめたが、立ち上がって数歩歩いたあと、驚いたように目を見開いた。
「……軽い」
娘の顔がぱっと明るくなる。
「本当に……!」
「街道脇の水は使うな。靴底は乾いた布で払え。次の宿で足を洗うなら、流れのいい井戸水にしろ」
俺が言うと、女は何度も頷いた。
「ありがとうございます。本当に……」
年配の男も、気まずそうに頭を下げる。
「助かった」
二人が去っていくのを見送りながら、エルナがぽつりと言う。
「もう始まってるな」
「何がだ」
「お前の名前が、道の上で役に立ち始めてる」
否定しようとして、言葉が出なかった。
村では、俺はただ目の前のものを直していただけだ。
宿場でも、止まっていた流れを戻しただけだ。
だが、その結果が噂になり、次の誰かが声をかけてくる。
それは少し、不思議な感覚だった。
追放されたとき、俺の名は価値を失った。
けれど今、王都へ向かう道の上で、修復師としての名が少しずつ別の意味を持ち始めている。
「悪くないだろ」
エルナが言う。
「……まだわからない」
「そう言うと思った」
セルドが前を見たまま口を開く。
「ですが、少なくとも無駄ではありません。王都で話を通すときにも、街道での実例は効きます」
「結局そこか」
「そこです」
現実的すぎる返答に、少しだけ肩の力が抜けた。
日がさらに傾き、前方に石標が見えてくる。分岐を示す古い標だ。その向こうに、今夜の中継所があるはずだった。
街道にはまだ人が行き交っている。荷車、旅人、馬、商人。誰もがそれぞれの目的地へ向かっている。その足元に黒い流れが潜み、その上を俺たちも進んでいる。
だが、もうただ追われるように歩いているわけじゃない。
壊れたものを見つければ直す。
止まりかけた流れがあれば戻す。
その積み重ねが、少しずつ道の先へ届いていく。
王都へ向かう道で、修復師の名が少しずつ広がり始めていた。
それは噂にすぎないのかもしれない。
けれど、壊れた流れを辿るこの旅にとっては、確かな追い風になり始めていた。




