第14話 宿場町では、旅人たちまで静かに壊れ始めていた
宿場の入口で動きを取り戻した荷車は、そのまま厩舎の脇へ移された。
御者は何度も振り返りながら車輪を確かめ、周囲の旅人たちもまだ半信半疑の顔をしている。さっきまで押しても引いても動かなかったものが、俺が軸の隙間を少しいじっただけで動き出したのだから無理もない。
だが、俺にとって大事なのはそこじゃなかった。
問題は、**同じ壊れ方がこの宿場でも起きている**ことだ。
「こっちです!」
宿場の管理役の男が、厩舎の裏手へ俺たちを案内する。年の頃は五十前後、日に焼けた顔に疲れが滲んでいた。さっきの荷車の件で少しは信用したらしいが、それ以上に切羽詰まっているのだろう。
厩舎の裏には、もう一台の荷車が止められていた。
こちらは街道の真ん中で止まっていたものより状態が悪い。左前輪が斜めに沈み、荷台もわずかに傾いている。だが、やはり見た目ほど派手には壊れていない。木材の割れも、車軸の折れもない。なのに動かない。
「朝からこのままでして」
管理役が言う。
「最初は泥に取られたのかと思ったんですが、引いても押しても駄目で……」
俺はしゃがみ込み、車輪の根元を覗き込む。
やはり黒い粉だ。しかも、さっきの荷車より多い。軸受けの奥だけじゃない。車輪の留め具、荷台の継ぎ目、金具の合わせ目にも入り込んでいる。まるで“動くための箇所”を狙って噛ませているみたいだった。
「セルド」
「ええ、同じです」
セルドも膝をつき、布越しに粉を確かめる。
「村の林道、放置されていた荷車、そしてここ。偶然ではありません」
「わかってる」
エルナが荷台の周囲を見回した。
「積荷は普通に見えるな」
「普通に見えるのが厄介なんだろう」
俺は立ち上がり、管理役へ向き直る。
「最近、こういう荷車は何台くらいあった」
「はっきり数えたわけじゃありませんが……五台、いや六台は見ています」
「多いな」
「しかも、車輪だけじゃないんです」
男は声を潜めた。
「旅人の中にも、急に足を悪くする者が出てまして」
その言葉に、俺はすぐ反応した。
「どこにいる」
「水場の近くで休ませています。熱があるわけでも、怪我をしたわけでもないのに、脚が重い、立つと力が抜けると……」
ハルトとミナと同じだ。
俺は荷車から手を離した。
「こっちは後だ。先に人を見る」
管理役が目を丸くする。
「荷車はいいんですか?」
「壊れた荷車は逃げない。人は悪くなる」
言い切ると、男は慌てて頷いた。
「わ、わかりました。こちらです」
宿場の中央には、小さな水場があった。石を組んだ浅い溜め場に、街道脇の井戸から水を引いているらしい。旅人たちが手や顔を洗い、馬にも飲ませる場所だ。今はその脇の日陰に、三人の男が座り込んでいた。
一人は若い御者、もう一人は商人風の中年男、最後の一人は旅装の女だ。三人とも顔色は悪くない。熱もなさそうだ。だが、脚を投げ出したまま、立ち上がる気配がない。
「この人たちです」
管理役が言う。
若い御者がこちらを見上げた。
「なんだよ、また様子見か。休めば治るって言われたんだが」
「治ってないだろ」
俺が言うと、男は顔をしかめた。
「……立つと、膝の裏が変なんだ。痛いっていうより、力が抜ける」
旅装の女も頷く。
「足首のあたりが重いの。歩けないほどじゃないけど、長く歩くと急に動かなくなる」
商人風の男は靴を脱いでいた。足の甲を押さえながら、苛立ったように言う。
「怪我もしてないのに、こんなの気味が悪い」
俺は三人の足元を見た。
靴底、裾、足首の周り。うっすらと黒い粉が付いている。街道の土に混じっていたものと同じだ。だが、それだけじゃない。流れを見ると、足先から膝にかけて、細いざらつきが噛んでいる。ハルトたちほど深くはないが、放っておけば同じように悪化する。
「水場はいつから使ってる」
俺が訊くと、管理役が答える。
「毎日です。旅人も馬も、ここを使います」
「最近、掃除はしたか」
「ええ、もちろん……」
言いながら、男の声が弱くなる。俺は水場の縁へしゃがみ込み、石の継ぎ目を指でなぞった。ざらり、とした感触。溜め水の底にも、黒い細かな沈殿がある。
「……ここにもある」
セルドが低く言う。
「水そのものというより、出入りする土や靴底から混じったのでしょうか」
「たぶん両方だ」
水場は人も馬も集まる。靴底についた粉が落ち、泥に混じり、また別の足へ移る。荷車の車輪にも付く。そうやって宿場全体へ広がる。
エルナが眉を寄せた。
「つまり、ここはもう撒かれた後か」
「そう見ていい」
管理役の顔が青ざめる。
「ま、待ってくれ。じゃあこの宿場じゅうが危ないのか?」
「今すぐ全員倒れるわけじゃない」
俺は立ち上がる。
「でも、放っておけば増える」
男は唇を引き結んだ。宿場を預かる立場なら、その意味はわかるはずだ。旅人が足を悪くし、荷車が止まり、馬が進まなくなる。そんな宿場はすぐに使われなくなる。ここは村より人の流れが多いぶん、壊れ方も早い。
「……どうすればいい」
その問いに、俺は少しだけ息を吐いた。
村でやったことを思い出す。全部を一度に直せないなら、順番を決める。今ここで優先すべきは三つだ。
「まず、水場を止める」
「止める!?」
「一時的にだ。別の桶に井戸水を汲んで使え。ここは人も馬も近づけるな」
管理役は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「わ、わかった」
「次に、足を悪くしたやつの靴と裾を払う。できれば洗うな。乾いた布で落とせ」
「洗わないのか?」
旅装の女が怪訝そうに言う。
「今この水場を使うほうがまずい」
「……なるほど」
「最後に、荷車は動くものから順に見る。完全に止まる前なら戻せる」
セルドが小さく目を見開いた。
「戻せる、と断言するのですね」
「さっき一台戻した」
「それはそうですが」
「壊れ方が浅いなら間に合う」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
村では、目の前のものを直すだけで精一杯だった。だが今は違う。壊れ方の筋が見えている。どこを噛ませ、どう止まり、どこまでなら戻せるか。異物のやり口が少しずつ読めてきた。
それは腹立たしいことでもある。誰かが意図して、こういう壊れ方を“設計”しているということだからだ。
だが同時に、対処の道筋でもある。
「足を見せろ」
若い御者の前にしゃがみ込む。男は戸惑いながらも脚を差し出した。膝裏から足首へ、流れの筋を探る。やはり浅い。黒いざらつきが表面近くに噛んでいるだけだ。
「少し痛むぞ」
「え?」
答えを待たず、足首の外側を押さえ、膝裏へ向けて流れを押し戻す。ざり、と嫌な抵抗が指先に伝わる。男が息を呑んだ。
「うっ……!」
「我慢しろ」
もう一度。今度は膝裏から足先へ逃がす。黒い細かな粉が、靴下の縫い目からぱらりと落ちた。
男が目を見開く。
「な、なんだ今の」
「噛んでたものを外した。立てるか」
半信半疑のまま、男が足をつく。ゆっくりと体重をかけ、次にもう一歩踏み出す。
「……あれ」
もう一歩。
「軽い」
その声に、周囲がざわついた。
「本当か?」
「さっきまで座り込んでたのに」
「何したんだ、あの兄ちゃん」
旅装の女と商人風の男も、露骨に表情を変える。疑いより先に、期待が出た顔だ。
「次」
俺が言うと、女がすぐ脚を差し出した。
同じように流れを探り、噛んでいるざらつきを押し戻す。こちらは足首に溜まっていた。処置を終えると、女は立ち上がって何度か足踏みし、驚いたように笑った。
「本当に歩ける……」
最後の商人風の男も、処置のあとで何度も足を見下ろしていた。
「なんなんだ、これ……病気じゃないのか」
「病気じゃない」
俺は落ちた黒い粉を布で集める。
「少なくとも、ただの疲れでもない」
管理役が呆然としたまま言う。
「旅人まで、こんなふうに……」
「荷車も、人も、同じだ」
俺は水場と街道を見た。
「動くものから順に噛ませてる」
その言葉に、宿場の空気が変わった。
ただの故障じゃない。
ただの体調不良でもない。
見えない何かが、道を通るものすべてを静かに壊し始めている。
それを、ここにいる全員がようやく実感したのだろう。
エルナが剣の柄に手を置いたまま、低く言う。
「嫌なやり方だな」
「ああ」
「でも、お前は直せる」
その一言は、妙にまっすぐ胸へ入った。
直せる。
全部じゃない。まだ元凶にも届いていない。
それでも、壊れ方が見えるなら、止められるものはある。
村で繋いだ火が、ここでも消えていない気がした。
セルドが管理役へ向き直る。
「最近、同じような荷や旅人がどこから来たか、記録はありますか」
「ある、はずだ。宿帳と荷の控えなら……」
「見せてください」
「わ、わかった」
管理役は慌てて走っていく。
俺はもう一度、水場の縁へ視線を落とした。石の継ぎ目に入り込んだ黒い沈殿。人の足、馬の蹄、車輪の軸。全部がここで交わる。
なら、この宿場はただの通過点じゃない。
異物がどう広がるかを示す、ひとつの縮図だ。
「レイン」
エルナが呼ぶ。
「なんだ」
「顔が変わった」
「どういう意味だ」
「村を出たときより、ずっといい顔をしてる」
自覚はなかった。だが、否定もしなかった。
たぶん俺は、ようやく“次に直すべきもの”を掴み始めている。
村の井戸でも、工房でも、結界柱でもない。
道そのものだ。
人と荷と街を繋ぐ流れそのものが、今壊されている。
なら、修復師としてやることは一つしかない。
「厩舎裏の荷車に戻る」
俺は言った。
「次はあれを動かす。そのあと宿帳だ」
セルドが頷き、エルナが口元だけで笑う。
宿場町では、旅人たちまで静かに壊れ始めていた。
だが同時に、ここで俺たちは、壊れ方の輪郭をはっきり掴み始めていた。




