第10話 壊れた荷車の中に、王都行きの異物があった
ハルトとミナを工房の脇へ休ませると、村の空気はまた少しだけ張り詰めた。
井戸の水を飲んだ兄妹の顔色は、さっきよりましになっている。だが、完全ではない。脚の流れに噛んでいた黒い細片は押し出せたものの、身体の奥に残っている違和感までは消えていないはずだ。放っておけば、また重くなる可能性もある。
工房の炉は低く鳴り、村の女たちは兄妹のために薄い粥を用意していた。ガドは入口の見張りを増やし、トーマは何か言いたげに何度もこちらを見ている。行くなと言われたばかりなのに、もう次の騒ぎへ首を突っ込みたくて仕方ない顔だ。
「お前は残れ」
先に釘を刺すと、トーマは露骨に肩を落とした。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「そんなにわかりやすいか?」
「わかりやすい」
エルナが横から淡々と追い打ちをかけ、トーマは唇を尖らせた。だが反論はしない。昨日までなら食い下がっていたはずだ。少しは危険の重さがわかってきたのだろう。
俺は作業台の上に並べた黒い鉄片と、林道の土から拾った黒い粉を見比べた。形は違う。だが、匂いは同じだ。ざらついた、流れを噛ませる嫌な感触。粉のほうはもっと細かく砕けていて、風や泥に混じりやすい。
セルドが手帳を閉じる。
「兄妹の証言では、街道を外れた商人の荷車を見たのは昨日の昼でしたね」
「ああ」
「まだ近くにある可能性は高い」
「見つけるなら今だな」
雨が降れば痕跡は流れる。村の周辺にこれ以上粉が広がる前に、元を押さえたい。
ガドが腕を組んだ。
「俺も行く」
「駄目だ」
即答すると、老人は不満そうに眉をひそめた。
「村長が何も知らねえまま待ってろってのか」
「待てとは言わない。村を見ててくれ」
俺は工房の外、井戸、東の畑、そして休んでいる兄妹へ視線を向けた。
「今この村で、全体を見られるのはガドさんだ。俺たちが外を見るなら、中を任せる者がいる」
ガドはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らした。
「……うまいこと言いやがる」
「本音だ」
「なら任された」
それでいい。村長が村に残るのは、弱気だからじゃない。今はそれが最善だ。
結局、林道へ向かうのは俺、エルナ、セルド、それに見張り役の村人が一人の四人になった。トーマは最後まで不服そうだったが、ハルトとミナの世話を頼むと、少しだけ胸を張った。役目を渡せば、あいつはちゃんとやる。
南の林道は、昼を過ぎても薄暗かった。
昨日までなら気づかなかっただろう黒い粉が、今日は目につく。轍の溝、草の根元、倒れた枝の影。土に混じればただの汚れにしか見えない。だが、一度正体を知ってしまえば、そこかしこに散っているのがわかる。
エルナがしゃがみ込み、指先で土を払った。
「昨日より増えて見える」
「見えるようになっただけかもしれない」
「どっちにしろ気分は悪いな」
その通りだった。見えない毒ほど厄介なものはない。
ハルトの話では、荷車は街道から外れ、この林道の奥へ入っていったという。普通なら商人がわざわざこんな細道へ入る理由はない。近道にもならないし、村へ売りに来るにしては道が悪すぎる。
「逃げたか、隠したか」
セルドが言う。
「あるいは、壊れて動けなくなった」
俺が返すと、エルナが周囲を見回した。
「なら、そう遠くない」
林道を進むにつれ、轍は深くなる。片側だけ沈み込みが強い。重い荷を積んだ荷車が、無理に曲がった跡だ。途中、木の幹に車輪の縁が擦れた傷も見つかった。急いでいたのか、まともに操れなかったのか。
やがて、道が少し開けた場所に出る。
そこに、荷車はあった。
横倒しではない。だが、道の脇へ半ば突っ込むように止まり、右の車輪が深く泥へ沈んでいる。荷台を覆っていたはずの幌は裂け、片側が垂れ下がっていた。馬の姿はない。綱だけが切れたようにぶら下がっている。
「……あれか」
見張りの村人が息を呑む。
俺は手で制し、すぐには近づかなかった。
荷車そのものが、嫌な音を立てていたからだ。
ぎ、……ぎ。
風で軋んでいるだけじゃない。壊れた狼の脚が鳴らしていたのと同じ、“噛み合っていない音”だ。木と鉄の間で、本来そこにないものが擦れている。
「近づくな」
エルナが剣の柄に手をかける。
「何かいるか」
「わからない。でも、荷車が壊れてる」
「見ればわかる」
「そういう意味じゃない」
俺はゆっくり前へ出た。泥に沈んだ車輪、歪んだ車軸、裂けた幌。見た目にもひどい。だが、本当にまずいのはそこじゃない。荷台の下、軸受けの奥、木組みの継ぎ目に、黒い粉と細片が入り込んでいる。まるで荷車そのものの“流れ”を噛ませるように。
セルドが低く言う。
「積荷は」
「まだ見るな」
まず外側だ。壊れ方の順番を見誤ると、荷台ごと崩れる。
俺は車輪のそばへしゃがみ込み、泥を払う。車軸の金具に、黒いざらつきがこびりついていた。しかも、ただ付着しているだけじゃない。金具の隙間へ押し込まれ、回転を殺している。
「……意図的だな」
「やはり」
セルドの声が硬くなる。
「自然にこうは詰まらない。しかも片輪だけだ。曲がったところで沈ませて、動けなくした」
エルナが周囲へ視線を走らせる。
「襲われた形跡は?」
「まだ見えない」
血も争った跡もない。だが、馬だけがいないのは不自然だ。逃げたのか、連れ去られたのか。
俺は幌の裂け目から荷台の中を覗いた。
木箱が三つ。うち二つは割れ、中身がこぼれている。布袋、乾物、金具類——そして、その隙間に混じる黒い粉。もう一つ、奥に小さな木箱があり、その蓋には王都の商印が焼き付けられていた。
セルドが息を止める。
「その印……王都の補給局に納める商会のものです」
「確定か」
「少なくとも、王都へ向かう荷です」
村の外れに捨てられた荷車。王都行きの積荷。黒い粉。偶然で済ませられる段階は、もう過ぎていた。
そのとき、エルナが鋭く言った。
「音」
全員が止まる。
林の奥から、かすかな物音がした。枝を踏む音。ひとつではない。二つ、三つ。人か獣かはまだわからない。だが、こちらを窺っている気配がある。
見張りの村人が青ざめる。
「ま、まだ何かいるのか……」
「下がってろ」
エルナが前へ出る。剣はまだ抜かない。だが、いつでも抜ける。
俺は荷車から目を離さず、耳を澄ませた。風の向き。枝の揺れ。足音の重さ。獣にしては軽い。人間だ。
「出てこい」
俺が言うと、少し間があってから、林の影から一人の男が現れた。
商人風の男だった。服は泥と汗で汚れ、片袖が裂けている。年は四十前後。顔色は悪いが、ハルトたちほど身体の流れは壊れていない。代わりに、怯えが強い。
「ま、待ってくれ! 斬らないでくれ!」
「お前の荷車か」
男は何度も頷いた。
「そうだ……そうだよ。俺のだ。昨日の昼に車輪が急に噛んで、馬が暴れて……!」
「馬は」
「逃げた。綱が切れて、そのまま森へ……追えなかった」
嘘ではなさそうだ。だが、全部でもない気がする。
セルドが一歩前へ出る。
「王都補給局向けの荷ですね。なぜ街道を外れた」
男の目が泳ぐ。
「そ、それは……近道を——」
「この道は近道にならない」
俺が切ると、男は口をつぐんだ。
エルナの視線が冷える。
「本当のことを言え」
男は唇を震わせ、やがて観念したように肩を落とした。
「……街道で、検めを避けたかった」
「何を運んでた」
「俺は知らない! いや、本当に全部は知らないんだ。ただ、追加の小箱を積めって言われて……王都へ着くまで開けるなって」
俺とセルドが同時に荷台の奥の小箱を見る。
王都の商印。開けるなと言われた追加の箱。嫌な予感しかしない。
「誰に言われた」
「商会の上からだ。俺はただ運ぶだけで……!」
その言い訳は半分本当だろう。末端の運び手が中身を知らないことは珍しくない。だが、検めを避けて脇道へ入った時点で、後ろ暗さは理解していたはずだ。
俺は荷台へ手をかけた。
「開ける」
セルドが頷く。
「立ち会います」
エルナは周囲の警戒を続ける。見張りの村人は男を逃がさない位置へ回った。
小箱は見た目には普通だった。だが、留め具の隙間に黒い粉が入り込んでいる。蓋そのものが“噛んで”いる。慎重に布を巻き、直接触れないようにして留め具を外す。
ぱき、と乾いた音。
蓋を開けた瞬間、全員が息を止めた。
中に入っていたのは、黒い細片だった。
釘のようなもの、砂のようなもの、削り屑のようなもの。大小さまざまな異物が、緩衝材もなく詰め込まれている。しかも箱の底には、薄い紙が一枚敷かれていた。そこには簡単な記号と数字、そして王都の区画番号らしきものが書かれている。
セルドの顔色が変わる。
「配送先の符号です」
「どこだ」
「……第三結界柱の管理区画に近い」
空気が凍る。
村の結界柱に打ち込まれていた異物。林道に撒かれた黒い粉。人の身体に入り込む細片。そして、王都の結界管理区画へ向かう箱。
線が、繋がった。
商人の男が震える声で言う。
「お、俺は知らなかったんだ……!」
「全部はな」
俺は箱の中身を見下ろしたまま答える。
「でも、危ない荷だとは知ってたはずだ」
男は何も言い返せなかった。
エルナが林の奥を見たまま言う。
「これで決まりだな」
「ああ」
村を守るだけでは足りない。
この異物は、道を通って、荷に紛れ、人に入り、結界へ届く。
なら止めるべき場所は、もう村の中だけじゃない。
セルドが静かに言った。
「王都へ持ち帰るべき証拠です」
「持ち帰る」
俺は頷いた。
「でもその前に、村へ戻る。ガドさんにも見せる。村を守るために、何を相手にしてるか共有しないといけない」
商人の男は膝から崩れ落ちた。助かった安堵か、終わった絶望かはわからない。たぶん両方だ。
俺は黒い箱の蓋を閉じ、布で包む。
荷車は道の外で口を閉ざしていた。
だが、その中身はもう、十分すぎるほど多くを語っていた。




