第6話 変調と模索
七不思議の噂に曰く。
旧校舎の窓から『彼女』に手を振られても、決して手を振り返してはいけない。
もし振り返してしまえば――――。
彼女は窓から飛び降りて、凄まじい速さで追いかけて来るのだそうな。捕まれば、頭をねじ切られて持ち去られてしまう。そして頭部だけのお人形として、ずっと彼女のそばに置かれることになるらしい。
◇◆◇
「囮くーん! おはよー!!」
長い黒髪に、学園の制服とは違う白いセーラー服。その襟元は不自然に黒ずんでいる。不吉極まりない姿だが、手を振り返さなければただの女生徒と変わりない。だから何も問題は無いのだけれど……僕はこの毎朝の光景に、少しだけ理不尽を感じていた。
元気いっぱいに呼びかけてくる声は、校庭に響き渡っている。だが、僕以外の生徒は誰一人反応を示さない。
最初から誰にも聞こえていないのだ。
僕以外の、誰にも。
まるで、自分が日常から排斥されたような孤独感。そんなつまらない感傷を覚える。
とはいえ、彼女は毎回無邪気に声をかけてくるわけで。聞こえてしまうものは仕方がないし、それをずっと無視するのもなんだか気が引ける。だから妥協案として、軽く会釈だけを返すようになっていた。
「あ。囮、たまにそれやってるよな。それってなんなの? 鳥居潜る前にお辞儀するみたいな感じ?」
旧校舎に頭を下げる僕を見て、弘人がおかしなことを言い出した。
「んなわけないだろ。学園の校舎になんで作法がいるのさ」
「いや、今日も勉強頑張ります、よろしくお願いします。みたいな?」
「そんな殊勝な人間なら僕は今頃、学年上位の成績とってるよ」
弘人がズレた納得をして「試しに俺も」と真似をし始める。行為の意味を知れば悲鳴を上げて逃げ出すだろう。悪戯心がうずくけれど、今日ばかりは真実を伏せておく。僕には弘人に頼みたいことがあるのだ。
「やーん! 囮くんってば律儀ー! もー大好き!」
弘人とくだらないやり取りをしている間も呼び声は続く。でも放っておけば大丈夫――そう思っていた、次の瞬間。
「だから、手ヲ振リ返シテー?」
周囲の温度が、一気に氷点下まで下がった気がした。
視線を旧校舎へ戻す。
そこに、見慣れた怪異の姿はなかった。
無邪気だった目と口が、ぽっかりと開いたどす黒い穴に変貌している。華やいだ黄色い声も唐突にしわがれ、低く濁った陰りを帯びていた。およそ生き物の発する音ではない。粗悪な機械音声を思わせる、無機質な異物感。
(なんで?……いつもと様子が違う?)
「ネェー? 手ヲ振ッテー? オ願ーイ」
耳に届くたび全身が粟立ち、指先が冷えていく。口調だけは愛らしいままなのが、なおさら不気味だった。
(落ち着け――――ルールさえ守れば襲われない)
地面に貼り付いた足を理性で引きはがし、歩みを進める。
(あぁ、だから嫌なんだ。こんな体質。ほら見ろ、全身冷や汗まみれだし、口の中だってカラカラだ。それなのにあんなものと、どう向き合っていけって言うんだ)
同居人は『逃げないで』と言った。
おまけに『貴方は大丈夫』とも、言っていた。
疑うつもりは毛頭ない。が、「なら大丈夫だ」なんて安心できるかは別の問題だ。
「冗談じゃないぞ、くそっ」
「ん? どうかしたか囮?」
「囮クーン! 待ッテー? 首頂戴ヨー!! ネーネーネーネー! アハハハハハハハハッ!」
隣にいるのに何も知らないで、ごく普通の朝を迎えられる弘人が、心底羨ましかった。
進級してから確実に、僕の周りで何かが悪化している。それが僕の体質なのか、学園のそういう気配なのかは分からないけれど、放っておくのは不味い。
ただでさえどこからか時折、視線のようなものまで感じるんだ。旧校舎の彼女じゃない。いまもどこかで、誰かが僕を見ているという感覚がある。
何とかしなければ。
僕の命が無くなってからじゃ遅い――――
狂気じみた叫びを背に受けながら、新校舎の中へ駆け込む。昇降口に足を滑り込ませると、笑い声は嘘のように途絶えた。
彼女のルールから外れたからだろう。
……ふう、と荒い息を吐き出す。
『手を振られる』――つまり、彼女から見える位置でなければいけないのだ。散々煽ってはいたけれど、追いかけてきたりはしない。
それは何故か?
そう定義されているからだ。
噂によって。
ルールを遵守する怪異。
逸脱の可能性は?
――たぶん、ない。
破れば矛盾が生まれる。
矛盾。
曖昧。
不確定。
定義の揺らぎ。
自己否定。
ルールを破れば、消滅する怪異。
身を守る術は――ある。
問題は、僕が七不思議をすべて知らないことだ。
ルールとトリガーを正しく把握しなければ。
「弘人、頼みがあるんだけど」
上履きに履き替えた弘人に声をかける。
「おう。どうした?」
「学園の七不思議について調べてほしい。出来る限り詳細に」
交友関係の広い弘人なら、詳しい知り合いもいるだろう。
「あー……七不思議、ね」
苦手な話題に弘人の顔が曇る。
だが、ここで遠慮するわけにはいかない。
「すまん。苦手なのは分かってるんだけど」
「あぁ、いや。じゃなくってさ、調べるまでもないのよ」
下駄箱を離れ、二階の教室へ向かう途中。
弘人の口から出たのは予想外の言葉だった。
「俺もう全部調べたんだわ。間違っても関わりたくないからな」
まさか、である。持つべきものは友人だと、いまほど感じたことはない。
「マジか。それは流石に神過ぎる」
「全部説明すると長くなるし、昼休みに飯食いながらでいい?」
「助かる。お礼に奢るよ」
「オムライスの大盛な」
「オムライス? ラーメンじゃなくて?」
「そうそう。今日はカレーの気分だから」
「オムライスどこいったんだ」
「掴めない男ってさ、なんか良くね?――って、見ろ囮、あれ」
馬鹿なやり取りの途中、弘人が二階の廊下を指し示した。その瞬間、僕は怪異の恐怖も忘れ、息を呑む。
「半月ぶりに顔見たわ。冴夜ちゃん」
僕らの教室の前で、静かに佇む一人の女子生徒。
周囲の視線を独占する、流れるような銀糸の髪と、吸い込まれそうな青い瞳。黒タイツに包まれた華奢な脚が、彼女の持つ非現実的な美しさを際立たせている。
そんな彼女は周囲からの印象も多種多様だった。憧れと羨望を一身に集める、孤高の存在。ヒロイン然としていながら、ラスボスのような風格を漂わせる稀有な女の子。
それが彼女――影守冴夜である。
端的に言えば、他の生徒と同様に、僕も憧れているクラスメイトだ。




