第4話 最初の危機
時系列で言えば、汐遠と知り合う少し前の話だ。
絵空事のような春休みが明けた登校初日。
始業式と、それに付随する諸々を終え、僕は独りで校内を彷徨っていた。用事なんて何もないけれど、そうしていたかったのだ。学園に居ることに意味はなく、家に帰るまでの時間を引き延ばせればどこでも良い。だが、制服姿で町中をうろつくのは抵抗がある。そんなどうでもいい理由で僕は校舎に居残り、そして――死にかけた。二年生になって早々に、人知れず。
原因は思い返すのも馬鹿らしい。なにしろ僕はただ、階段を上っていただけだ。これが足を滑らしたなんて間抜けな話なら良かったのに、そうじゃないから性質が悪い。より正確に言えば、行方不明になる瀬戸際に立たされたのである。
◇◆◇
人気のない校舎には、妙な静けさが漂っていた。
……なんて考えるのは僕の悪い癖かもしれない。つい先程まで大勢の生徒が居たという認識。その名残りが違和感に繋がっただけだろう。この感覚はそれだけの話だ。時刻はまだ十三時を回ったばかり。校舎内は春の日差しが暖かく、不穏な気配もまるで無い。もし机に座っていたら、僕はいま頃きっと、心地よい眠気に誘われている。こんな空間なら普通は、穏やかな印象で形容されるべきだと思う。
だからおかしいのは僕の方だ。
例え不自然なまでに、がらんとしている気がしたとしても。
そんな極めて私的な臆病風に吹かれながら、僕はそこに辿り着いた。新校舎の端にある、二階と三階を結ぶ階段。ただの段差なのに、なぜかやたらと印象的な場面に登場する舞台装置。そしてこの時の僕にとっては、暇つぶしの遊具だった。
上まで何段あるか数えながら上がるという、実用性の欠片もない遊び。人間は優秀だ。あまりに手持ち無沙汰になると、身近なあらゆるものに価値を見出せる。その結果がこのくだらない行為であるという事実は、気にしてはいけない。
目を閉じて、一段一段確かめるように足を運ぶ。いま、どこまで上がったんだろう。なんて考えた時には足が空ぶり、慌てて目を開けていた。
――二十五段。何の面白みもない段数だ。十三段みたいな、曰く付きの話も思いつかないただの数字。けれど、その考えには引っかかるものがあった。
曰く付きの話……そう言えば、ウチの学園には新校舎の階段にまつわる噂があった気がする。たしか――、
「招き階段、招き階段、僕の後ろに誰がいる?」
小耳に挟んだ階段の怪談。
その中にある、お決まりのキャッチコピーみたいな言葉。
うろ覚えだけれど、この文言だけは耳に残っている。それらしく印象的なフレーズだったからだろう。でも、それが最大の過ちだった。
呟いた台詞が空しく消える、その瞬間。
「――――!?」
喉まで出かかった悲鳴を飲み込んだ。
僕の右肩に、何かが触れている。服が沈みこむ五本の感触には覚えがあった。触れているだけじゃない。軽く掴まれるような、肌に指の引っかかる感覚。
――――手だ。
呼びかけるような気軽さで、誰かが肩を叩いている。
「だ……誰だ?」
先生か知り合いか、きっと知らぬ間に後ろに居たのだろう。そのはずだ。そう信じて声をかける。だが返事はない。気配も、無い。それなのに――僕の肩には手が乗っている。
酷く悪質な悪戯だと思いたかった。けれど異変は、淡い期待を裏切っていく。寒い。僕の背後だけ真冬にでもなったみたいだ。服の背中に氷を詰められたような違和感。冷気に当てられた身体が凍り付いていた。目の前の廊下は明るい。だというのに、視界の端ギリギリに闇が広がっている。息遣い一つ聞こえない静寂は、かえって僕の想像を掻き立てた。後ろに何かがいるのに居ない。その矛盾が、人間である|可能性を否定する。
「っ……!?」
また肩を叩かれ、心臓が跳ねた。だが、それ以外は何もしてこない。とん、とん、とん。一定のリズムで、ただ繰り返されるだけの動作だった。いつの間にか、じっとりと掻いていた汗が頬を伝い落ちていく。
(なんだ……なんなんだよ。僕にどうしろっていうんだ)
次第に、恐怖とも怒りともつかない感情が湧きあがってきた。いったい何がしたいのか。何かを催促されているようにも思える反復。その要求に、嫌な予感だけが膨れ上がっていく。
どれくらいそうしていただろう。相変わらず手はずっと同じ動きを繰り返している。それがあまりに気持ち悪くて……ついに僕は限界を迎えた。異常な状況に耐えきれず、振り返ってしまったのだ。
いや、振り返ろうとした、と言うべきか。
けれど出来なかった。
僕の首が半ばまで回ろうとしたその時、
「いけません。振り返っては駄目です」
目の前に現れた『彼女』に止められたから。空中に、僕の目線の高さでうつ伏せに――と言っていいか分からないが――なって現れた彼女に。それもがっちりと、顔を両手で固定されたうえで。
だが、そのおかげで僕はいま、辛うじて生きている。
『彼女』曰く、僕が行き遭った七不思議――この階段の怪異は、振り返った人間をどこかに連れ去ってしまうものだったらしい。
要するに、後ろを向いた瞬間アウトの、実にシンプルで実に洒落にならないルールである。
この話を聞いている間も、僕は生きた心地がしなかった。何かの手がずっと、肩を叩き続けていたからだ。未練がましく、おぞましい執念。あるいは底なしの悪意だろうか。そんなものを感じて震えていた。
――『彼女』の血まみれの顔を、間近に見続けながら。
それからほどなくして、背後の何かは消えた。
顔を掴まれてなかったら、その場に崩れ落ちていただろう。
こうして僕は、怪異と怪異に挟まれながらも、間一髪で最初の危機を乗り越えたのである。




