第41話:前世(アーカイブ)の展開と、湯船の警告
ディラックをとらえ、データの解析をし、医療チームへ引き継いだあの日の夜に、時は少しさかのぼる――。
すべての対処を終え、ようやくフォール伯爵家へと帰り着いた頃には、王都の空はとっくに深い夜の帳に包まれていた。
「……ただいま、戻りました……」
小さな声で戻ったことを知らせる。まったく覇気がない。
床を踏み締める足取りすら、鉛を詰め込んだように重かった。幸い、この日は大きな障害対応が終わった直後の『定時退社』に近い時間だったが、8歳の小さな体にかかった負荷は、前世で三日三晩徹夜したデスマーチの最終日に匹敵していた。
すると、厨房に居たのであろうエプロン姿の母・シルヴィアが慌てて出迎えてくれた。
「お帰りなさい、ライナス。もうすぐお夕飯ですからね」
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
その後ろでは、メイドのマーサも控えて笑顔を浮かべている。
「あぁ、母上、マーサ、ただいま戻りました」
夕食の準備を告げる温かい香りが漂ってくる中、ライナスはふらふらと二階の自室へ向かった。
フォール伯爵家の二階、ライナスの部屋と次男・ヴァンスの部屋の間には、二人で共有するバスルームと洗面所がある。どちらの部屋からも繋がっているその場所は、兄弟にとってのプライベートな動線だった。
「……まずは、シャットダウン……じゃなくて、お風呂だ」
埃と冷や汗にまみれた体をさっぱりさせるため、ライナスは風呂場へ入り、なみなみと注がれた湯船に体を沈めた。
「はぁぁぁぁ…………」
(極楽、極楽)
まさに日本人の魂ここにあり、だな。
熱い湯が、凝り固まった筋肉と神経をじわじわと解きほぐしていく。あまりの心地よさに、ライナスの視界がゆっくりと、抗いようもなく暗転していった。
意識は深い、深い闇の底へと沈み込む。
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――キンッ、と。
ジョッキがぶつかる、小気味良い音が響いた。
「いやぁー、お疲れさん! 巧、飲んでるか?」
鼻をくすぐるのは、香ばしい焼き鳥の煙と、一日の仕事の疲れを癒やす、働く大人たちのガヤガヤとした賑やかな喧騒。
視界が開けると、そこはライナスとしての今世の世界ではなく、懐かしい都会の片隅にある居酒屋だった。
目の前には、キンキンに冷えた生ビールのジョッキ。
そして、ネクタイを緩めて枝豆をつまむ、同僚の疲れた顔。
(あぁ……そうか。俺は、ここにいたんだ)
34歳の佐藤巧。かつてシステムを支える仕事に就いていた男。
彼は、ビールをグイッと煽ると、日頃の鬱憤をぶちまけるように口を開いた。
「……なぁ、聞いてくれよ。上はさー、わかってないんだよな。俺たちが裏でどんだけ地味に頑張ってるかってのをさ。アップデートなんて、ボタン一つでポチッとやれば簡単だろ、とか。そんなわけねーだろっての!」
巧はジョッキをテーブルにドンと置くと、ぶつくさと続けた。
「ろくにテストもしないで本番アップデートなんて、怖すぎてできるかっての! 冗談じゃねえわ、一歩間違えれば全システムがお陀仏だっつーの。あいつら、マジで俺らの苦労を一ミリも理解してないんだよな、まったく……」
「まったくだ、ほんと、わかってないんだよな。あいつらには、困ったもんだぜ」
同僚が苦笑しながら頷く。
自分たちの仕事に対するプライドがあるゆえの、愚痴の応酬である。
(そうだ……いつだって、動いて当たり前の世界を作るのは、上との温度差や思い通りにならない葛藤を抱えながらも、地道に検証を重ねているからこそなんだ)
巧はビールの泡を唇につけたまま、ふっと笑った。
その瞬間。居酒屋の喧騒の向こうから、別の『警告 (アラート)』が割り込んできた。
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「――おい! 起きろライナス!! ダメだ寝たら、おーい起きろーーーっ!!」
耳元で響く怒鳴り声と共に、肩を激しく揺さぶられた。
ライナスはガバッと顔を上げた。
「……うあ、兄さん……?」
視界に飛び込んできたのは、焼き鳥屋のネオンではなく、フォール伯爵家の風呂場の天井と、脱衣所のドアから身を乗り出して真っ青な顔をしている次男・ヴァンスの姿だった。
「『兄さん……?』じゃない! 湯船で寝落ちるやつがあるか! 本気で死ぬぞボケ!」
「あ……ごめん、ヴァンス兄さん……つい……」
ライナスが力なく笑うと、ヴァンス兄さんは「はぁー、心臓が止まるかと思ったぞ……」と脱衣所の壁に背中を預けて大きなため息をついた。
「母上が、夕飯だから呼んでこいって。……おい、そんなに疲れてるならもう寝るか? ……もし寝るなら、お前の分のご飯も俺が食べておいてやるぞ?」
(次男よ食い意地はりすぎだって)
「……食べないで。ちゃんと、食べるから」
「なんだ、食べるのか。じゃあさっさと上がれ、風邪ひくぞ!」
(あぁ、あからさまに残念がるなよ……あはは)
乾いた笑いを内に秘めながら、ヴァンス兄さんの背中を見送る。乱暴に脱衣所のドアを閉め、去っていく足音が聞こえる。
ライナスは湯船から上がり、鏡に映る自分の小さな顔を見つめた。
(……『怖すぎてできるかっての』、か)
夢の中で佐藤巧が言った言葉が、今のライナスの胸にすとんと落ちてくる。
明日からは、数百人の被害者の魔力回路を救うため、医療班による緻密な治療プロセスが始まる。
自分は医者ではないから直接治療はできないし、知識もない。けれど、かつて培った技術者の端くれとして、裏方からできる限りの協力をしよう――ライナスは心の中でそう強く誓った。
一歩間違えれば、患者の回路は破裂し、二度と元には戻らない。だからこそ、前世の自分(佐藤巧)がそうであったように、絶対に妥協せずサポートする。
「ま、色々あったけどさ、仕事上がりのビールは旨かったなー……」
ぽつりと溢した。それは前世の懐かしい記憶。
しかし、いつまでも感傷に浸ってはいられない。両手でほほをパンと軽く叩き気持ちを切り替える。
「よし……。まずは、ご飯を食べて、エネルギーの充填 (チャージ)だ」
ライナスは体を拭いて楽な部屋着をまとうと、前世から受け継いだ『技術者の魂』のアーカイブを展開し直し、賑やかな食卓が待つ一階へと、足取り軽く降りていった。




