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第35話:仕組まれた偽装通信 (フェイクインジェクション)

 ――スウゥ……と、まるで世界の境界が書き換わるかのように、研究室の空気が一瞬で静まり返る。


 ライナスがデスクの引き出しから『魔導共有核 (モバイル・ターミナル)』を取り出し、両手をかざした瞬間、部屋の明かりすら呑み込むような、深海を思わせる鮮やかな青白い光が、音もなく滑らかに溢れ出した。


 幾重にも重なる半透明の光の輪――『術式陣 (インターフェース)』が空中に展開され、少年の小さな指先がその光の膜に触れるたび、波紋のように光が広がっていく。

 複雑な幾何学模様の『魔法陣 (コード)』が、ズラリと溢れ出すように周囲へ浮遊していくその光の海の中央には、先ほど防衛大臣の派閥から持ち込まれた『万象(ばんしょう)魔鏡(まきょう)(監視カメラ)』の仕様書が、血のような真っ赤な警告色で不気味に点滅していた。


 18時の定時まであとわずか。お城の人間が次々と帰り始めるこのタイミングこそ、敵のクラッカー(ハッカー)が一番活発に動き出す時間帯だ。


(定時が過ぎてお城の監視の目が手薄になれば、向こうはここぞとばかりにデータを引き抜きにかかる、あるいは痕跡を消してバックドアを閉じるはずだ……! その前に、まず向こうの目を盗むための『偽の正常ログ』を送り込み続けるしかねえ……!)


 そんな命がけのデスマーチが始まろうとしていた。



◆◆◆



 その頃、研究室の頑丈な扉の外では、フォール家の有能なる執事・ノーマンが、18時直前の懐中時計を見つめながら静かに佇んでいた。中の邪魔をしないようノックはせず、ただ坊ちゃまが出てくるのを待っているのだ。

 そこへ、一日の仕事を終えた研究員が部屋から出てくる。ノーマンはそっと声をかけた。


「申し訳ございません。少々よろしいでしょうか。フォール伯爵家のご子息は、まだ中に?」


「あ、はい。何か作業をされているみたいですよ」


 研究員のその言葉を聞き、ノーマンは時計に視線を落として、小さく微笑んだ。


(おや、どうやら坊ちゃまの『残業』が確定のようです。……ならば、戦うための燃料が必要ですね)


 ノーマンは、不測の事態に備えて用意していた、甘い香りを漂わせる特製のドーナツが詰まった小さなバスケットを、その研究員に託した。


「中にいる坊ちゃま方へ、差し入れです。届けていただけますか」



◆◆◆



 研究室の中では、クロード主任が青い顔でライナスの背中を見つめていた。

 そこへ、研究員が恐る恐るドーナツの入ったバスケットを運び込んでくる。研究員はノーマンの頼みを快く引き受け、主任へと手渡した。


「フォール伯爵の執事から、皆様がたへの差し入れだそうです。では、お先に失礼します」


「そうか、ありがとう。悪いね、お疲れ様」


 研究員を見送ると、主任はバスケットを手にライナスの元へと歩み寄った。


「ライナス、君の執事のノーマンからの差し入れだ。……終わったら、ちゃんと私に説明しなさい。ほら、これでも食べて落ち着くんだ」


 クロード主任が、浮遊する魔法陣の隙間から、バスケットの中のドーナツをそっと差し出した。

 その瞬間、暴力的なまでに脳の糖分を刺激する甘い香りが、ライナスの鼻腔をくすぐる。


「……っ、申し訳ありません。いただきます!」


 ライナスは視線を光の術式陣から一切外さないまま、ドーナツを小さな口でガブッ!と頬張った。もちもちとした食感と砂糖の甘さが、限界までオーバークロック状態だった8歳児の脳細胞(CPU)にじわぁ……と染み渡っていく。


「ふぉぐっ……うまい……! 」


 ライナスがドーナツを飲み込んで、バッと席を立った。


「手元の魔導共有核 (モバイル・ターミナル)じゃ帯域が細すぎて、逆探知の処理(演算スピード)が追いつかない……! クロード主任、王宮基幹魔導核 (メインサーバー)のコンソールを直接使います!」


 少年は部屋の中央にある巨大な王宮基幹魔導核の前に立ち、自らの手を『主駆動輪 (メインコンソール)』へダイレクトに接続した。


 刹那、部屋全体を埋め尽くすほどの超巨大な『術式陣 (インターフェース)』がブワッと広がり、そこで『仕組まれた偽装通信 (フェイクインジェクション)』を展開!


「よし、偽装アクセスルートの構築開始……!」


 ライナスの小さな指先が、その心臓部へと滑り込む。

 それは現代のパッケージ化された魔法陣のように簡単に動く代物ではない。数百年前の設計思想 (アーキテクチャ)が遺した、膨大な『魔力の糸』の塊だ。


 縦横無尽に張り巡らされた魔力の糸は、階層 (レイヤー)ごとに配置された複数の『光の歯車』を複雑に繋ぎ、巨大な時計のムーブメントのように立体的なシステムを形作っている。


 ライナスは、その歯車を連動させている糸の一本一本を恐るべき正確さで手繰り寄せ、敵の目を欺くための新たな回路 (ロジック)へと高速で編み替えていく。その指先が触れるたび、複雑に絡み合う魔力の糸が、張り詰めた弦のように眩い輝きを放ち、光の歯車がガチ、ガチ、と逆回転を始めた。


 そんな、世界を揺るがすハッキング戦(泥臭い手作業)の最中、ライナスのドーナツをじーーーっと見つめている人物がいた。


「……カイル」


「はい、殿下。いかがなさいましたか」


 アルマ殿下は、ライナスが美味そうに食べているドーナツを凝視しながら、カイルの服の袖をぐいぐいと引っ張った。


「……私も、あのドーナツが食べたい!」


「殿下……、そんなに物欲しそうに袖を引っ張らなくとも、あちらのバスケットにまだ山ほど残っておりますよ。ノーマン殿が殿下の分もと、たくさん差し入れてくれたのですから」


「な、何……!? そうなのか!?」


 カイルはこめかみを押さえ、深いため息を吐いた。


 命がけのハッキング戦に挑むライナスと、目の前のドーナツに気づかずにおねだりしていた10歳の第一王子。

 研究室の中に、凄まじい温度差の空気が流れる中、ライナスの目がカッと見開かれた。


「敵の監視を欺く『正常ルートの無限ループ』、構築完了。――術式名『仕組まれた偽装通信』、展開!!」


 お城の明かりを呑み込むほどの光の奔流が荒れ狂う中、ライナスは心の中で「……あ」と、急激に血の気が引くのを感じていた。


(……いやいや。仕組まれた偽装通信 (フェイクインジェクション)って。……これ、あの『エンデス』さんの痛いネーミングセンスと全く同じ発想(中二病)じゃねーか……!)


 自分でつけた技名のあまりの恥ずかしさに、ライナスは口の周りに砂糖をつけたまま、内心で盛大に苦笑するのだった。

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