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第16話:我が家が一番(後編)〜静寂のサロン〜

 自室へと続く階段を上っている途中、屋敷の奥にある父の書斎から「ええええええっ!?」という、およそ伯爵家の当主らしからぬ盛大な叫び声が響き渡った。


(荒れてるなー……そうだよね、そうなるよね。ごめんよ、父上……)


 ライナスはビクッと肩を揺らしつつ、心の中で深く頭を下げながら自室に逃げ込んだ。


 窮屈な正装から着心地の良い普段着に着替え、ホッと一息ついたライナスは、お茶の準備ができているはずのサロンへと向かう。

 扉を開けると、そこには優雅にお茶を楽しむ母・シルヴィアと、すでに皿の上の焼き菓子を平らげかけている脳筋の次男・ヴァンス兄さんの姿があった。


「母上! この焼き菓子、もっとないのか!?」


「坊ちゃま。これ以上召し上がると、お夕飯が食べられなくなりますよ?」


 部屋の隅に控えていたメイドのマーサがたしなめる。


「そうよ、ヴァンス。今日の夕食は私が腕によりをかけて作るんだから」


 シルヴィアがふんわりと微笑むと、ヴァンス兄さんはパッと顔を輝かせた。


「えっ!? 母上の手料理!? ……なら、焼き菓子は我慢だな!!」


(うん、今日もヴァンス兄さんは通常運転だ……)


 そんな平和すぎるやり取りを見て、ライナスはほっこりと心を和ませながら席に着き、温かい紅茶を一口飲んだ。


 ――その時だった。


「……はぁぁぁぁ……」


 地の底から響くような特大の溜息とともに、父・コンラッドとクレスト兄様がサロンに入ってきた。二人とも、見事なまでに頬がこけ、死んだ魚のような目をしている。


 重い足取りでソファに沈み込んだ父は、胃のあたりを必死に押さえながら、震える声で口を開いた。


「……ライナス……クレストから、聞いたぞ……。アルマ殿下とクロード様とのやり取りを……。そしてこれから来るであろう、正規の手順を踏んだ『共同研究』のご命令を……」


「……はい」


「第一王子からの直接の指名だぞ……? 断れるわけがないだろう……ああ、胃が……」


 この世の終わりかのような顔で頭を抱える父。 その重すぎる空気の中、シルヴィアがふんわりと小首を傾げた。


「あらあら……共同研究ってことは、ライナスはもう王宮でお勤めを始めるの? いくらなんでも、まだ少し早すぎないかしら?」


「「「(いや、そういうことじゃないです)」」」


 男三人の心が一つになった瞬間だった。 だが、そんな絶望など全く意に介さない人物が、もう一人この空間にいる。


「よし! 食った食った!!」


 ヴァンス兄さんは(我慢すると言いつつ)皿に残っていた最後の焼き菓子をポイッと口に放り込むと、カップに残っていた紅茶を一気に流し込み、パンッ!と元気よく手を合わせた。


「ごちそうさまー! それじゃ、俺はもう一稽古してくるかな!」


 颯爽と立ち上がる次男。 あまりのマイペースっぷりに、コンラッドもクレストもライナスも呆然とするだけで、誰も彼を止めようとしない。もはや、この脳筋に声をかける気力のある者はこの場にいなかった。


 ただ一人、マーサだけが静かに頭を下げる。


「坊ちゃま、お夕飯前にはお戻りくださいませ」


「おう! じゃあな!」


 バタン。 ヴァンス兄さんが元気よく出ていき、扉が閉まる。


 しん……と、静まり返る。 遠くで、どこかの部屋の扉が閉まる音だけが、やけに鮮明に響いた。


 サロンに、いたたまれない静寂が落ちた。 重く、息の詰まるような沈黙。


 その静寂を破ったのは、またしても母・シルヴィアだった。


「そうね……やっぱり、お勤めは……。まだ早いと思うのよね……」


 一人でウンウンと頷きながら立ち上がると、彼女はおもむろにエプロンを手に取った。


「さて、お夕食の支度をするわね」


 そして、夫と息子たちの顔色など全く気に留めることなく、優雅な足取りでサロンから出て行ってしまった。


 ――カチ、カチ、カチ……。 壁にかかった時計の秒針だけが、残酷なほど正確に時を刻んでいる。

 先ほどよりもさらに深く、重たい「無」の時間が、三人を包み込んだ。


 残されたコンラッド、クレスト、ライナスの三人は、ただ虚空を見つめて固まるしかなかった。


「……コホン」


 そんな男たちの哀れな空気を断ち切るように、壁際に控えていた執事のノーマンが、静かに咳払いをした。


「旦那様。今から胃を痛めても仕方がありません。ここはまず、王宮から書状が届くのを待ちましょう。それから、ゆっくりと思案してお返事いたしましょう」


 極めて冷静で、的確な有能執事の言葉。

 それにすがるように、コンラッドは弱々しく「……そうだな、ノーマン。そうしよう……」と頷くことしかできなかった。

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