第15話:我が家が一番(前編)
「……はぁ、本当に生きた心地がしなかったよ。何を食べたのか、味すら思い出せない……」
揺れる馬車の中、クレスト兄様が眼鏡を外し、深くうなだれながら特大の息を吐き出した。普段の気品あふれる姿はどこへやら、その顔には「王宮の権力闘争に巻き込まれた14歳の少年」の等身大な疲労が濃く刻まれている。
向かいの席に座る執事のノーマンは、そんな兄様を労いながらも、満足げに頷いた。
「お疲れ様でございました、クレスト様。ですが、あの場で見事に殿下方とクロード様の会話を捌き切った手腕、次期当主として大変立派でございましたよ」
「……ライナスのためじゃなきゃ、とっくに逃げ出してたよ」
そんな二人のやり取りを、ライナスは申し訳ない気持ちで眺めていた。
(完全に僕のせいでクレスト兄様を巻き込んじゃったな……ごめんよ、兄様)
そう心の中で謝罪しつつも、どこか他人事のように「お兄様の社交界スキルが上がってよかったね」と思ってしまう自分もいる。
ライナスは窓の外を流れる王都の景色に目を向け、本日何度目かわからない溜息をついた。
脳裏に蘇るのは、先ほど王宮を出て、この馬車に乗り込む間際の一幕だ。
= = = = = = = =
『今日は実に有意義な時間だった。やはり私の目に狂いはなかったな! な? 次はいつ来る? 明日か? 明日だな? な?』
至近距離でキラキラと輝く紫の瞳を向け、いつも以上のものすごい圧で訴えかけてくる第一王子、アルマ殿下。
(圧っ! いつも顔が近ぇんだよ……ていうか次ってなんだ? 次って……あっ!)
ここでライナスは思い出した。そもそも今回、自分が王宮に呼ばれたのは『共同研究』という名目だったのだ。
すっかり忘れていた建前を思い出してライナスが「あわわわ」となっていると、すかさず側近のカイルが間に割って入った。
『殿下? 少し強引が過ぎますよ』
静かだが有無を言わさないカイルの声に、アルマ殿下がビクッと肩を揺らす。
『ライナス様をお誘いになる際は、正当な手続きを踏まえてくださいませ。一度フォール伯爵家のご当主様を通し、書状にてやり取りを行うのが筋というものです』
『うっ……そ、そうだな……』
(これ以上強引に話を進めると、後でカイルの小言が面倒だ……)とでも言いたげに視線を泳がせると、アルマ殿下はコホンと誤魔化すように咳払いをした。
『すまない、ライナス。よい返事を期待しているぞ!!』
「ぞ!!」というとても強い語尾で強調されたその言葉には、再びグイッと身を乗り出して「絶対に断らせない」という凄まじい圧が込められていた。
アルマ殿下は、カイルのド正論と、背後に控えるフォール家の優秀な執事・ノーマンが放つ「これ以上、うちの坊ちゃん達を振り回すのはやめていただきましょうか」という無言の圧力に挟まれ、しぶしぶ身を引いたのだった。
だが、問題はもう一人。
『ふふっ、お父上様にもよろしくお伝えしてね。またすぐに会えるのを楽しみにしているよ、ライナス』
第一王子の無邪気さとは対極にある、クロードのあの底知れぬ「悪い笑顔」。あの笑顔の裏にどんな思惑が隠されているのか……正直、一生知りたくない。
= = = = = = = =
「……はぁぁぁぁぁぁ」
ライナスは再び、深々と溜息をついた。
カイルが防波堤となってくれたおかげで、その場は凌げた。だが、これはつまり「第一王子からの特大の爆弾」を、そのまま我が家へ持ち帰ることを意味している。
(……父上、この報告を聞いたら絶対に顔面蒼白案件だよ。過呼吸にならなきゃいいけどな……)
父上の胃腸薬のストックは足りていただろうか。そんな現実的な心配をしているうちに、馬車は見慣れたフォール伯爵邸の門をくぐった。
◆◆◆
「おーい! おかえり、ライナス! クレスト兄様! 王宮料理食べたのか!? どうだった? 美味かったか? いいなー!!」
馬車を降りるなり、脳筋の次男・ヴァンス兄さんが木剣を素振りしたまま、こちらの返事など待たずに自己完結した質問を浴びせてきた。そして、ピタリと動きを止め、期待に満ちた目でライナスを見る。
「で、俺への土産はないのか?」
(……あるわけないだろ。観光に行ってんじゃないんだからさ)
ライナスは盛大に呆れつつ、心の中で鋭くツッコミを入れた。
疲れ切って言い返す気力もないライナスは、素振り職人のヴァンス兄さんを華麗にスルーして、ゆっくりと出迎えてくれた母の元へと近づいた。
そこには母・シルヴィアだけでなく、控えめに、けれどもしっかりと背筋を伸ばしたメイドのマーサの姿もあった。
「おかえりなさいませ、クレスト様、ライナス様。お疲れ様でございました」
マーサが柔らかな、けれどもしっかりと心のこもった一礼をする。その隣で、おっとりとした母・シルヴィアが、優しくふんわりと微笑む。
「ただいま戻りました、母上、マーサ」
「おかえりなさい、ライナス」
母の平和な空気に触れ、ライナスの肩から少しだけ強張りが抜けた。
「ただいま戻りました……母上、あぁマーサ」
ライナスに続いて馬車から降りてきたクレスト兄様が、亡霊のような掠れた声で挨拶をする。その姿を見たシルヴィアは、小首を傾げて目を丸くした。
「あらあら、おかえりなさいクレスト。……どうしたの? なんだか酷く顔色がすぐれないようだけど。王宮で悪いものでも食べたのかしら?」
「……父上は、どちらに?」
「コンラッドなら、書斎よ?」
母の答えを聞くや否や、クレスト兄様は「……報告を……」とうわごとのように呟きながら、ズンッ、ズンッと重すぎる足取りで屋敷へと向かう。
哀れな兄の背中が開かれた玄関の扉の奥へと吸い込まれていくのと入れ替わるように、馬車の片付けを終えた執事のノーマンと御者のゴードンが、恭しくシルヴィアの前に進み出て深く一礼した。
「「奥様、ただいま戻りました」」
「ノーマン、ゴードンもありがとう。子供たちを無事に連れ帰ってくれて、ご苦労様でしたね」
シルヴィアの優しい労いの言葉に、屈強で無骨なゴードンは、少し照れくさそうに顔を綻ばせた。
「い、いえ! 自分は、自分の仕事をしたまでですから! 勿体なきお言葉、痛み入ります!」
まさに「不器用な男」を地でいくようなゴードンは、勢いよく頭を下げると、嬉しさを隠しきれない様子で、愛馬たちが待つ厩舎へと足早に戻っていった。
彼が上機嫌で去っていくのを横目に見つつ、残ったノーマンも少しだけ口元を綻ばせ、深々と頭を下げた。
「勿体なきお言葉でございます。フォール家の執事として、当然の務めを果たしたまで……王宮の者どもに、うちの坊ちゃん達を好きにはさせませんよ」
(後半、めちゃくちゃ怖いこと言ってるんだけど……)
ノーマンの有能すぎる執着心に、ライナスは内心で少しだけ身震いした。
「ふふっ、頼もしいわね。……ちょうどお茶の時間だし、マーサ、お茶の準備をお願いしてもいいかしら?」
シルヴィアが後ろに控えていたメイドのマーサに微笑みかける。
「かしこまりました、奥様。すぐに温かい紅茶と焼き菓子をご用意いたします」
完璧な礼をして、マーサが足早に厨房へと向かう。
「ライナスも、美味しいお茶を飲んで少し休むといいわ」
そう言って母が頭を撫でてくれる。
「うん、ありがとう母上。……でも、とりあえず早く着替えたいな。この服、肩が凝って仕方ないんだ」
窮屈な正装の襟元を少し緩めながら、ライナスは屋敷の扉をくぐった。王宮のドロドロした空気など欠片もない、少しズレていて、最高に温かい家族。
(うん……やっぱり我が家が一番だね)
父上が過呼吸で倒れていないといいなという一抹の不安を抱えつつも、ライナスは自室へと続く階段を、少しだけ軽い足取りで上っていくのだった。




