22.ここがわたしが選んだ生きる場所(おしまい)
店を開けてから、日々は静かに流れていった。
朝、窯に火を入れる。
生地をこね、膨らみを待ち、焼き上げる。
その繰り返し。
けれど、不思議と同じ日は一度もなかった。
「いらっしゃいませ」
扉が開き、人が入ってくる。
パンを選び、少しだけ言葉を交わし、また去っていく。
それだけのことが、心地よかった。
⸻
ある日の昼過ぎ。
子どもがひとり、扉の前で立ち止まっていた。
中を覗き込むようにしている。
リシェルは少しだけ屈んで、目線を合わせた。
「どうしたの?」
「……いいにおい」
小さな声。
リシェルは少し笑って、小さなパンをひとつ差し出した。
「これ、どうぞ」
子どもは少し迷ってから受け取る。
「……いいの?」
「ええ、生地が余ってしまった分よ。小さくて売り物にできないから貰ってくれる?」
子供はキラキラとした目でそれを受け取ると
「ありがとう!」
と言いそのまま走っていった。
精霊が肩のあたりでくるくると回る。
「うれしそうだった」
「そうね」
リシェルは窯の方へ戻った。
⸻
その日の夕方。
ルヴァンが店の奥の席に座っていた。
いつの間にか、それが自然になっている。
何をするでもなく、ただそこにいる。
「今日は何食べる?」
「いつものでいい」
短いやり取り。
それで十分だった。
⸻
窯の前で、リシェルがパンを並べている。
少しだけ頬にかかる髪を、無意識に払う。
その横顔を、ルヴァンはぼんやりと見ていた。
理由はない。
ただ、目が離れなかった。
そのとき。
精霊がふわりとルヴァンの肩に乗る。
「なに見てるの?」
「……別に」
「ずっと見てる」
即座に返ってくる。
ルヴァンの眉がわずかに動く。
「見てない」
精霊はリシェルの方を見る。
「そんなに横顔が好きなの?」
「っ……!」
ルヴァンが顔をしかめる。
「気のせいだ、この話は終わりだ。」
声は低いが、どこか焦っている。
リシェルは振り返る。
「どうかしたの?」
「……なんでもない」
視線を逸らす。
精霊はくすくす笑っている。
リシェルは少しだけ首を傾げてから、
「そう」
とだけ言って、また作業に戻った。
⸻
窓の外では、風が静かに通り抜けていく。
店の中には、パンの香り。
精霊がふわりと漂い、
ルヴァンがそこにいる。
そして、リシェルはパンを焼いている。
⸻
特別なことは何もない。
けれど──
(……これでいい)
リシェルは、そっと息を吐いた。
もう、誰かの顔色を窺う必要はない。
誰かに決められた場所に立つ必要もない。
ここで、パンを焼いて、
ここで、生きる。
⸻
窯の中で、パンがゆっくりと膨らんでいく。
その様子を見つめながら、
リシェルは静かに微笑んだ。
⸻
(……ここが、私の人生)




