20.これはいける!
瓶を置いてから、数日が過ぎた。
毎朝、窓辺に置いたそれを確認するのが、自然と日課になっていた。
最初の二日は、何も変わらなかった。
けれど三日目にほんのりと泡が出てきて5日目の朝。
「……あ」
表面に、泡がひとつ、またひとつと、静かに弾けていく。
そっと瓶を開けて顔を近づける。
ほんのり甘く、少しだけ酸味のある香り。
(……きた)
リシェルの口元が、わずかに緩む。
「できてる?」
精霊が覗き込む。
「ええ」
小さく頷いた。
「うまくいったみたい。もう使えるわ。」
蓋をした瓶を軽く揺らすと、細かな泡がふわりと立ち上がる。
目には見えないものが、確かにそこにいる。
(母は、ここまで来ていたのね)
リシェルはそっと瓶を持ち上げた。
「……じゃあ、次ね」
⸻
ボウルに粉を入れる。
選んだのは、重い方の小麦。
水を加え、酵母液を少し。
ゆっくりと混ぜていく。
手のひらに伝わる感触が、少しずつ変わる。
まとまる。
伸びる。
(……違う)
これまでの生地とは、明らかに違っていた。
「いきてる?」
精霊が覗き込む。
リシェルは小さく笑う。
「ええ。そんな感じね」
布をかけて、しばらく置く。
ただ待つ時間。
けれど今は、不思議と不安はなかった。
(……楽しみだわ)
⸻
布を外す。
生地は、少しだけ膨らんでいた。
指でそっと押す。
やわらかく、弾力がある。
「……本当に」
思わず息がこぼれる。
「すごい!」
精霊が言う。
「まだよ」
リシェルは首を振った。
「焼いてみないと」
⸻
窯に火を入れる。
じわりと広がる熱。
手をかざし、温度を確かめる。
(……いける)
生地を成形する。
少し歪だけれど、それでいい。
窯へ入れ、扉を閉める。
あとは、待つだけ。
⸻
やがて、香りが変わった。
小麦の、やわらかな香ばしさ。
温かい匂いが、ゆっくりと店の中に広がっていく。
精霊がぴくりと反応する。
「いいにおい」
「ええ」
リシェルは小さく頷いた。
そして、扉を開ける。
そこにあったのは──
これまで見たことのないパンだった。
ふっくらと膨らみ、表面はこんがりと色づいている。
「……」
言葉が出ない。
そっと取り出す。
手に伝わる、やさしい温もり。
少しだけ割ると、
中は空気を含んで、やわらかく広がった。
「……できた」
静かに呟く。
精霊が嬉しそうに跳ねる。
「できた!」
リシェルは、ゆっくりと笑った。
⸻
翌日。
ルヴァンが店に入ってきた。
いつもと変わらない足取り。
視線だけが、すぐにパンへ向く。
「……それか」
「ええ」
リシェルは一つ手渡した。
「食べてみて」
ルヴァンは受け取り、少しだけ見てから口にする。
一口。
その動きが、わずかに止まる。
もう一口。
今度は、少し大きく。
「……なんだこれ」
低く、呟いた。
リシェルは少しだけ楽しそうに言う。
「パンよ」
「いや……」
言葉を探すように、わずかに黙る。
「こんなのは、見たことがない」
「美味しいでしょ」
ルヴァンはパンを見つめたまま、もう一口食べた。
ゆっくりと噛む。
「……軽い」
「ええ」
「でも、ちゃんと食べてる感じがする」
リシェルは満足そうに頷いた。
「それだけじゃないわ」
ルヴァンが顔を上げる。
「まだあるのか」
「ええ」
⸻
リシェルは振り返り、準備を始める。
しっかりとした生地で焼いたパン。
そこに、軽く温めた燻製肉。
そして、刻んで仕込んだキャベツ。
ほのかな酸味の香りが立ちのぼる。
ルヴァンの眉が、わずかに動く。
「それは?」
「試しに作ってみたの」
パンに挟む。
形になる。
リシェルはそれを差し出した。
「こっちも食べてみて」
ルヴァンは無言で受け取り、口にする。
噛む。
そして──
「……」
今度は、完全に黙った。
精霊が横から覗き込む。
「どう?」
少し間があって、ルヴァンは言った。
「……売れるな」
短い一言。
けれど、それで十分だった。
リシェルは、くすりと笑う。
「でしょう?」
⸻
窓の外に目を向ける。
町は、いつもと変わらない。
人が行き交い、風が通り過ぎていく。
けれど──
(……ここからね)
パンの香りが、静かに広がっていく。
ここでなら。
ちゃんと、生きていける。




