18.やってみるか
ルヴァンは店の中を一通り見渡してから言った。
「……ここから先は、あなた次第だな」
リシェルは窯を見つめたまま、小さく頷く。
「ええ」
短い返事。
それで十分だった。
ルヴァンは踵を返す。
「また来週、見に来る」
それだけ言って、外へ出る。
扉が静かに閉まる。
店の中に、再び静けさが戻った。
⸻
……ひとりだ。
リシェルはしばらく、その場に立ったままだった。
さっきまで誰かがいた空気が、ゆっくりと薄れていく。
音がない。
人の気配もない。
あるのは、古い木の匂いと、わずかな埃の気配だけ。
けれど──
(……なんか良い)
不思議と、そう思えた。
屋敷にいた頃の“静けさ”とは違う。
ここには、押しつぶされるような重さがない。
ただ、空いているだけ。
「……ほんとうに、穏やか。1人きりなのね…」
そう呟くと、足元で小さな気配が動いた。
精霊が、いつの間にかカウンターの上に乗っている。
こちらを見ていた。
「1人じゃないよ」
リシェルは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「……そうだったわね」
ゆっくりと店の中を見回す。
カウンター。
棚。
窯。
何も変わっていないはずなのに、さっきよりも少しだけ近く感じる。
(…ここが私の居場所になるのね)
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
リシェルはゆっくりと窯の前に立つ。
手を伸ばして、そっと触れる。
冷たい石。
まだ何も始まっていない温度。
「……どうしようかしら」
ぽつりと呟く。
精霊がカウンターから飛び降り、足元まで来た。
「やくの?」
「そうね……」
少し考える。
(材料は……まだ少ない)
ルヴァンが置いていったパンと干し肉。
それだけでは足りない。
けれど──
「……火くらいは、見ておきたいわ」
精霊が尻尾を揺らす。
「火、すき」
「あなたはそうでしょうね」
小さく笑う。
店の奥に目を向ける。
薪は、思っていたよりもきちんと積まれていた。
(……トマスが用意してくれていたのかしら)
ひとつ手に取る。
乾いている。
軽い。
「……大丈夫そうね」
窯の前にしゃがみ込む。
薪を組む。
手は少しぎこちない。
でも、止まらない。
「こうして……」
記憶を辿る。
どこかで見たことがある。
おそらく前世のどこかで見た記憶。
組み終えると、少しだけ息を吐いた。
精霊が、すぐそばまで寄ってくる。
じっと見ている。
「……失敗するかもしれないわよ?」
「いいよ」
即答だった。
リシェルは小さく笑った。
「そうね」
火打ち石を手に取る。
ほんの一瞬だけ、手が止まる。
(…ここから、始まるのね)
屋敷を出て
名前を捨てて
ここまで来て
ようやく──
“何かを始める”その場所に立っている。
ゆっくりと息を吸う。
そして、火花を散らした。
————
かまどが使えることはわかった。
棚には、古い道具が並んでいる。
木のボウル。
金属のヘラ。
布。
そして棚の奥の方には、小さな冊子があった。
革の表紙は少し色あせている。
けれど、丁寧に扱われていたことが分かる。
「……これは」
そっと手に取る。
軽く埃を払うと、細かな文字が浮かび上がる。
リシェルはゆっくりと頁を開いた。
中には、日付とともに短い文章が並んでいた。
(……日記?)
最初の頁を読む。
「本日もパン生地は硬いまま。水分を増やしても変わらない」
「卵を泡立てて使う方法は軽いが、どうしても日持ちしない」
「もっと、違うやり方がある気がするのだけれど」
少しだけ、柔らかい書き方。
記録と独り言が混ざっている。
頁をめくる。
「果実の皮を水に入れてみる。理由は特にない」
「甘味を少し加える。変化があれば良いのだけれど」
さらに進む。
文字が少しだけ乱れている。
「……失敗。匂いが強すぎる」
「泡が出た。これは良いのかしら」
リシェルの指が止まる。
「……泡」
そのまま読み進める。
「やはり失敗のよう。捨てようと思う」
そこで一度、文が途切れている。
その下に、少しだけ書き足されていた。
「精霊が“混ぜろ”と言う」
リシェルは思わず息を止めた。
頁の端には、小さく書き添えられている。
「仕方なく混ぜてみる」
その次の行。
インクがわずかに滲んでいた。
「……驚いた」
「これまでにないほど膨らんだ」
「とても柔らかい。軽い」
「こんなことがあるの?」
少しだけ文字が大きくなっている。
その先は、また落ち着いた筆跡に戻る。
「しかし、再現できない」
「同じことをしているはずなのに、結果が違う」
「時間か、温度か……何かが足りない」
そして最後の行。
少しだけ、震えたような字。
「あと少しで分かる気がするのに」
そこで、日記は終わっていた。
リシェルはしばらく頁を閉じなかった。
ただ、その言葉を見つめていた。
(……あと少しだったのね)
胸の奥が、静かに熱くなる。
精霊が足元に来て、日記を覗き込む。
「それ、まえもやってた」
リシェルはゆっくり顔を上げた。
「……そう」
そして、小さく呟く。
「これは、失敗じゃない」
指先で頁をなぞる。
「成功の途中よ」
精霊が首を傾げる。
「とちゅう?」
リシェルは、少しだけ笑った。
「ええ」
そして、静かに言った。
「これ……酵母だわ」
言葉にした瞬間、すべてが繋がった。
果実の皮。
甘味。
時間。
泡。
前世の記憶が、ゆっくりと形になる。
(……そういうことだったのね)
リシェルは日記を閉じ、そっと棚に戻した。
そして、店の中を見渡す。
視線は自然と、材料の方へ向かう。
棚の下に、小麦粉の袋がいくつか置かれていた。
ひとつ持ち上げる。
ずしりと重い。
「……これは」
袋を少し開く。
粉を指先でつまむ。
ざらりとした感触。
ギュッとしても砂のようにサラサラと崩れる。
(強力粉みたいなものかしら…)
もうひとつの袋を見る。
こちらは指で触れると、しっとりとしている。
ギュッと握ると塊になった。
(…こっちは薄力粉に近いみたいね)
精霊が覗き込む。
「ちがうの?」
「ええ」
リシェルは少しだけ笑った。
「同じ小麦でも、性質が違うの」
記憶を辿る。
前世の知識が、少しずつ浮かび上がる。
(寒い土地で育つ小麦の品種は、強力粉)
(温かい土地のものは、薄力粉…だったわよね)
袋を見比べる。
「……なるほど」
小さく呟く。
「この世界でも、ちゃんと小麦粉は分かれているのね」
精霊は興味なさそうに尻尾を揺らす。
リシェルは続ける。
「きっと、こっちは保存食用」
重い方の粉を軽く叩く。
「水と合わせて焼けば、しっかりした生地になる」
もう一方を見る。
「こっちは軽すぎて……膨らませないと多分物足りない」
少し考える。
そして、ふっと息を吐いた。
「……でも」
ゆっくりと顔を上げる。
「発酵させれば、話は別よ」
精霊が顔を上げる。
「ふくらむ?」
「ええ」
リシェルは小さく頷いた。
「この世界にはなかっただけで……できないわけじゃない」
視線が、日記のあった棚へ戻る。
(母は、そこまで来ていた)
あと少し。
ほんの少しの違いで、辿り着けなかった場所。
(……なら)
リシェルは静かに息を吸った。
「私が、完成させる」
大げさな言葉ではない。
けれど、はっきりとした意思だった。
精霊が嬉しそうに尻尾を揺らす。
「やる?」
「ええ」
リシェルは周囲を見渡す。
瓶。
水。
果物。
「まずは……」
小さく呟く。
「酵母を起こさないとね」




