第181話 倉持奈津美の誘い
「さて、さすがに未成年……ではないが、二十歳前のお嬢さん方はそろそろ帰るべきだろう」
二十一時まであと少しというところで、教授はそういって立ち上がった。
十九時に始まった宴席だが、食事自体はほとんど終わっている。
和樹も食べる分には十分満足――正直に言えば料理の味は白雪の方が上だが――していたが、周りを見るに、まだ飲み続けるつもりらしい。
こういう事態になるのは想像できていたので、和樹自身はかなり酒量を抑えてはいるのだが。
誰もがまだ楽しそうに話しているのに帰るのは少し寂しいのか、白雪が帰りたくないような様子を見せているが、さすがにそういうわけにはいかないだろう。
二人とも家はここから歩いて行ける距離とはいえ、あまり深夜になるのは良くはない。
「二人はそろそろ上がっておきなさい。もう遅いからな」
教授の言葉を受けて、白雪が和樹の方に視線を向けてきたが、和樹も小さく頷いた。
意図が伝わったのかは分からないが、少し名残惜しそうな顔になりつつ、白雪も頷く。
そのタイミングで一度締めるらしく、教授が周りを見渡した。
「今日は皆楽しんでくれたかと思うが、これから色々大変だとは思う。ただ、またこうやって楽しい席を設けられるよう、みんなで頑張っていこう!」
それではまるで飲むために仕事を頑張るようでは、とは誰もが思ったが、とりあえず全員そこは突っ込まない。
「それでは皆様、お先に失礼いたします」
「今後もよろしくお願いしますー」
白雪と美雪が挨拶をして、それに何人かがグラスを掲げて応えていた。
和樹は軽く手を振って二人を見送ってから、周囲を見渡した。
特に潰れそうになってるのは来宮渡か。ただ、そのためにあかねがいるのだろうから、問題はないと判断する。
「教授は相変わらずですね……」
「今日はこれでも抑えておるよ。プロジェクト開始早々失敗するわけにもいかんしな」
「教授が失敗するほど飲んだら、店の酒なくなりませんか」
半分冗談だが、半分は本気だ。
この教授、呆れるほどに酒が好きな上に異様なほど強いのだ。
以前、小さな店で本当に酒がなくなりかけたことがある。
和樹もかなり強い方ではあるのだが、この教授には到底かなわない。
むしろこんな人が近くにいたおかげで、逆に酒では失敗しなかったといえる。
ちなみに友哉も同じくらい強い。
「まあ、帰りが不安な者は順次解散でいいぞ。今日はありがとう!」
相変わらずビシッと着込んだスーツで日本酒を飲む様子はちょっと違和感があるが、気にしないことにした。
とはいえ、そこから一時間もすると少しずつ人が減っていく。
和樹としてもそろそろといいか、と立ちあがった。
「それでは教授、俺も失礼します。また週明けに」
「うむ。今後も頼むよ、月下君」
「努力します。では。これで」
残っているのは、渡とあかね、他に新メンバーが三人、奈津美もまだ残っている。
残ったメンバーに和樹はひらひらと手を振って店を出た。
「さて……と。帰るか」
徒歩で十分程度というのが楽でいい。
時刻は二十二時過ぎ。九月中旬だが、さすがにこの時間になると真夏に比べたら少し気温が下がっているので、少しだけそれが心地よい。
そして家の方に向かって歩き出そうとした瞬間――。
「先輩っ」
突然聞き覚えのある声に呼び止められて、足が止まった。
「倉持?」
声の主は予想通りだった。
まだ店にいたと思っていた奈津美が、店から出てきたのだ。
「なんだ、倉持も帰るのか」
「えっとそうというか、その、ちょっとお願いが」
「お願い?」
「その、今日先輩と全然話せなかったので、少しはお話したいな、と」
確かに今日、和樹は主に新メンバーとの話に終始した。新しく入ったメンバーの為人を知りなかったというのもあるし、自分を知ってもらおうというのもあったのだ。
なので、教授を除けば従来からのメンバーとはほとんど話していない。
「せっかくの宴席だったのに、ちょっと残念で」
「まあ、少しくらいは良いが」
そういうと、奈津美が嬉しそうな顔になった。
二十二時過ぎとはいえ、この辺りであれば、和樹は何時になろうが家に帰れる。ただ、白雪は帰ってくるまで起きていそうなので、遅くなるなら連絡はすべきだが。
「せっかくですから、別のお店に行きませんか。ちょっとお勧めがありまして」
「少しくらいなら構わんが」
すると奈津美が嬉しそうな笑顔になって、和樹の手を取って歩き出した。
「はい、こっちです。すぐですから」
とりあえず奈津美の引っ張られるままになりつつ、どこかで白雪には連絡しなければ、と和樹は考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「へぇ。そういえば新しく出来てたけど、来たことはなかったな……」
駅からほど近い、新しく開発されたビルの二階の店に奈津美は案内してきた。
店を見ると、富山県の郷土料理を出す店のようだ。
「そうか、そういえば倉持は富山出身だったか」
「はい。なのでぜひ先輩に味わってもらいたくて。と言っても食事は十分されたでしょうが……」
「まあ少しくらいは入るよ」
奈津美は嬉しそうに頷いて店に入っていく。
時間が時間なので、さすがにすぐ入れた。
ラストオーダーは二十四時までと、ずいぶん遅くまでやってくれている店らしい。
あと一時間半はある。
とりあえず注文は奈津美に任せた。
やがて、刺身に焼き物といくつかが並び、あとは日本酒が出されてくる。
「こいつは……美味いな」
「でしょう。これが北陸名物、のどぐろです。こちらは白えび」
「なるほど」
長野県は海なし県だ。なので、海産物はどうしてもどこからか運ばれてくる。もちろん今の日本の流通なら、鮮度の落ちていない魚を食べることは問題なく出来るわけだが、それでもやはり、感覚的には海産物からは少し縁遠い。
それだけに、このような美味しい魚は本当に嬉しくなる。
「酒に合うな……これは確かに」
よく北陸は食事が美味しいとは聞くが、本当にその通りだと思わされた。
もちろん地元長野だって負けてはいないと思うが、その土地の特産はどこも美味しいのだろう。
この店は家からも本当に歩いて十分もかからないような場所なので、今度白雪も連れてこようと思った。彼女なら、多分これらの料理かも何かインスピレーションを得る気がする。
「先輩とこうやって二人で食事するのは……学生以来ですね」
「ああ……そう言えば一度だけあったか。俺が卒業する直前だよな」
当時、会社に所属せずにフリーエンジニアとしてやっていくことを決めた和樹は、卒業付近で他の学生が遊んでいる中、自分の信頼を高めるためにむしろ忙しくしていたくらいだった。
それでも誠や朱里、友哉とは会って遊んでいたが、奈津美とは最後に『先輩にお世話になったのでお礼させてください』などと言われて一緒に食事をした。
といってもファミリーレストランだったが。
「考えてみたら、あの時は倉持はまだ未成年……というか二十歳にもなってなかった時か。それが今や大藤研究室の中核メンバー。頑張ったんだな」
「そうですよぉ。私、頑張ったんです」
「……倉持?」
微妙に呂律が回ってない気がする。
ふと見ると、時刻は二十三時半。
白雪には、食事が始まってほどなく、奈津美が席を立っていた間にメッセージを送ったところ、『わかりました』とだけ返信が帰ってきてるので問題はない。
「せんぴゃい、お酒、強くないですか……」
「まあ……それなりではあるが……おい、倉持?」
これはかなり良くない。
さすがにここまで酔っぱらっている状態だと、帰るのも怪しいだろう。
倉持の家は確か電車の距離だが、先ほど確認したら今日はタクシーで帰るつもりと言っていたので安心していたのだが――本当に急に酔いが回ったようだ。
「とりあえずもう店を出よう、倉持。いいな」
「ふぁい……」
だいぶ怪しい返事だが、とりあえず和樹は会計を済ませ、店を出る。
ただ、奈津美の足取りはとてつもなく怪しく、仕方なく肩を貸すと、そのままほとんど全体重を預けてきた。
「ちょ、倉持!?」
かろうじて支えたが、さすがにこれはまずい。
見ると――。
「……寝てやがる」
奈津美は完全に寝入っていた。
「どうしろと」
ふと、三年あまり前に白雪が和樹の家に正月の深夜にやってきて、気を失った時のことを思い出した。
さすがに妙齢の女性をここに放り出すわけにもいかないが、完全眠ってしまってるようで、タクシーで家に送り出す、というわけにもいかない。
というか和樹は奈津美の家の場所を知らない。
とにかく起きてもらわないとどうしようもなく――かといっていくら九月とはいえ、夜に野外にいたらさすがに風邪を引きかねない。
しばらく考えた和樹は、大きくため息を吐くと、奈津美を背負い歩き始めた。
そして――。
「和樹さん、お帰りなさ……え?」
十五分後。
まだ起きていた白雪が、和樹に背負われた奈津美を見て唖然とした表情になっていた。




