第179話 玖条和佳奈との対面
「お久しぶりです、義伯母上」
そう、白雪が挨拶したのは、とても品の良い喫茶店の一角。
個別にスペースが区切られていて、他の席はほとんど見えない。
さらに全体に万事広く作られ、大声でない限りは隣の席の声はまず聞こえないようになっている。
こんな店が近くにあったのかと驚くほどだ。
「久しぶりですね、白雪さん。お呼び立てしてごめんなさいね」
「いえ……どちらかというと、義伯母上がこちらに来ていただいていますし」
白雪が義伯母上と呼ぶのは一人しかいない。
伯父の貫之の妻、玖条和佳奈だ。
正直に言えば、白雪は和佳奈の印象がない。
玖条家本家にいた頃も、あまり会ったことがないのだ。
京都に住んでいた頃、白雪はあのやたらと広い玖条家本邸で暮らしていたが、別に伯父である貫之と家族のように過ごしていたわけではない。
というより、必要がなければ貫之はまず会いに来ることはなかった。
貫之の二人の息子も、白雪が玖条家に引き取られた当時ですでに大学生と社会人であったため、ほぼ接点はなかった。
二人の結婚式には従妹として参列したが、その時ですら「おめでとうございます」と祝辞を述べた以外、会話をしなかった気がする。
そしてそれは、その二人の母である和佳奈についても同じだ。
その和佳奈は、シンプルな紺色のワンピースに、サマーカーディガンを羽織った姿だ。
年齢は五十を超えているはずで、和樹の両親と同じかそれ以上の年齢のはずだが、正直に言えばかなり若く見える。三十代と言われても納得するだろう。
自分のことを棚上げするが、相当な美人だと思えた。
和佳奈は自分の対面の椅子を手で示したので、白雪は小さく頷くとそこに座る。
「紅茶とコーヒー、どちらの方がいいかしら?」
「えっと……じゃあ、コーヒーで」
和佳奈は頷いて、テーブルの上にあるベルを鳴らすと、ほどなくウェイターが現れた。
コーヒー二つに加えて、なにやらケーキを二つ注文している。
ウェイターはそれらを確認して立ち去って行った。
「ケーキ、付き合ってね。この年齢になると、こういう場所で一人でケーキを食べるのはどうかと感じるから、若い子に付き合ってる体を取りたいの」
「は、はあ……」
白雪は軽く面食らった。
あの貫之の妻だから、当然自分に対して隔意があると思っていたのだが、どうもそういう雰囲気はない。
むしろ――普通に親戚の伯母さんだ。
少し遠くから、コーヒー豆を挽く音が聞こえた。どうやらこの店は本格的なコーヒーを出してくれる店のようだ。
「白雪さんは、今は特に生活で困ってることはない?」
突然の質問に意図を掴みかねる。
ただ、糾弾するよな、あるいは逆にむやみに心配するような雰囲気はない。
単なる確認程度の感じだ。
「はい。大丈夫です。伯父上に学費や生活費を出していただいてますし、大学も順調だと思います」
「そう。それはよかった。あの人も少し気にしていたから」
「そう……なんですか?」
それはやや意外だ。貫之はもう白雪のことなど忘れているとすら思っている。
一応、今でも生活費は振り込まれているらしいが、正直に言えばずっと口座を見に行っていない。
アルバイトを始めたこともあって、必要最小限の費用は自分で賄える。
そして生活費は、現状全て和樹もちだ。一度ならず、自分の口座からもと言ったのだが、彼はそれはいつか白雪が独り立ちする時のために取っておきなさい、と言われ、ほとんど手つかずのままなのである。
一応、和樹の家に引っ越す際に少しだけ別の――普段使いする口座に――移したが、それ以後の生活費については振り込まれてはいるのだろうが、気にしていない。
確かに和樹の言うように、あの家を出て独り立ちするのであれば、少なからずお金はかかるだろうし、その時には遠慮なく使わせてもらうつもりだが――そもそも白雪に出ていくつもりが、今のところない。
あの口座のお金を使うなら、それは二人で生活していく時の為でありたいと思っている。
ある種、願掛けの様な部分もあるが。
「あの人、あれで貴女のことをとても心配してるのよ。まあ、信じられないかもしれないけど」
「そう……なんですか?」
全く同じ言葉を続けてしまった。
とはいえ、白雪としては信じがたいというのが本音だ。
玖条家に引き取られて以後、両親の墓を守るため、白雪は身を削るような思いで玖条家にとって有益であろうと努力した。
その努力が果たして意味があったかどうかは今となっては謎だが、少なくとも貫之は両親の墓には今後手を出さないと約束してくれたのは確かだ。
その後、法的に成人したからということで、事実上玖条家を放逐されたが、二十歳までは生活費の面倒は見てくれるという事だったし、白雪は和樹の家に世話になることになり、生活面では問題はない。
むしろかつてより遥かに快適に過ごせている。
その環境ができたのは、貫之が白雪を、実質玖条家から放逐したのが理由であるのは事実だろう。かつて美雪が言ったように、玖条家やその関係から、影響を受けないようにしてくれたという側面はある。
とはいえ、貫之の性格を考えると、どう考えてもその後白雪を気にしているようには、到底思えなかった。今更白雪のことを気にするなら、それこそ十年前からついこの間まで、まるで白雪の気持ちを踏みにじり続けてきたのは何だったのか、と言いたくなる。
「多分貴女はあの人を恨んでると思うし、それは仕方ないのは、私も分かってる。そしてそれは、当然のことだとも思うわ」
その直後、コーヒーとケーキが運ばれてきた。
和佳奈は一度言葉を止め、配膳され終わるのを待つ。
ウェイターが去ってから、コーヒーを一口飲むと、再び白雪に向き直った。
「ただ、私としてはあの人も悩み苦しんでいたことだけは……理解してほしいと思ったのかしらね。だから貴女に会いに来たのだけど」
「伯父が……苦しんでいた?」
あの、頑固、頑迷、堅物。そんな言葉しか似合わない、それこそ人の情など介するとは思えない様な貫之が、悩み苦しんでいたというのは、全く想像の埒外だった。
ただそれに、一つ誤解がある。
「あの、義伯母上。一つ訂正しておきます。私は伯父上を恨んではいません。確かに……その、凄く理不尽だと思う様な仕打ちも受けました。ですが、今私はこうして……その、幸せにしています。それに、両親を失った私を助けてくれたのは、やはり玖条家です。その恩を忘れたことはありません。おじい様も、そして伯父上に対しても、そこは感謝しています」
「白雪さん……」
「確かに、玖条家に苦しめられたという事実はあります。ですが、それは過去の事ですし、今の私があるのもまた、玖条家のおかげなのは事実です。確かに……その、育てていただいた恩を返せるかと言われると、多分無理じゃないかとは思うのですが……ですが、恨むことはしません」
「そう……なのね。ありがとう、白雪さん」
和佳奈はそういうと、少しだけ微笑んだ。
「……あの。今更のように訊くのですが、義伯母上は私のことは、どう思われていたのでしょうか?」
「そうね……あの人の大切な弟の、忘れ形見かしら。だから……あの人は苦しんでいたのだろうけど」
「え?」
すると和佳奈は、小さく首を横に振った。
「ダメね。私も推測でしかないから。あの人頑固だから、私にも素直には教えてくれてないの。だから、勝手にあの人のことを代弁するわけにはいかないわね」
「えっと……?」
意味が分からず、白雪は困惑する。
「すぐには無理だと思うけど、いつかちゃんとあの人――貫之さんにも会ってあげて。そして問い詰めてあげて。なんであんなことをしたんだ、ってね」
「え。いや、それは……」
さすがに今更感がありすぎる。
「貴女の気持ちの整理がついてからでいいわ。それに、貴女も今は自分の恋に手いっぱいなのでしょう?」
「へ!?」
ほとんど初対面に等しい義伯母にそんなことを言われるのは予想外過ぎて、白雪は素っ頓狂な声が出てしまった。
「あらあら。やっぱりそうなのね」
「え……」
「かまをかけてみたの。まあ、貴女の状況は私も聞いてるから、それ以外だったらびっくりなんだけどね。それにしても、貴女みたいに可愛い子と住んでて手を出さないなんて、凄い紳士ね、その人」
「あう……」
顔が赤くなってるのが分かる。
母親に好きな人について揶揄われたような気分だ。実際には自分の母親にそんなことをされたことは一度もないが。
「会えて嬉しかったですよ、白雪さん。さっきのことは、すぐとは言わないけど考えてくれると嬉しいです。あの人の連絡先それ自体は、今も変わっていないですから」
和佳奈はそういうと、いつの間にか食べ終わっていたらしく、立ち上がってさっさと会計を済ませると行ってしまった。
「……何だったんでしょう……」
まだ半分ほど残っているケーキを口に運びつつ、義伯母の言葉を反芻する。
今でも貫之のことは苦手だ。
恨んでいないというのは嘘ではないが、かといって会いたいかと言われたら、会いたくないと答えるくらいには忌避感がある。
さらに言うと。
「あの和佳奈さんと伯父上の夫婦生活が想像できない……」
接した限り、和佳奈は本当に明るい雰囲気の女性だと思った。確かどこかの名家の出身だったとは思うが、立ち居振る舞いは上品だがそこまで普通の人からかけ離れた感性を持っている感じではない。
あるいは、美雪などに近い気がする。彼女ほど活発な雰囲気ではないが、あるいは若いころはそうだったのかもしれない。
ただそれだけに、あの頑固な貫之との組み合わせが、まるで想像できないのだ。
普段どういう会話をしているのかすら、見当がつかない。
これで実は貫之が和佳奈にひたすら惚れ込んで口説き落としたとかだと――笑えるが、それはなさそうだと思いつつ――。
それだけを見るために玖条家に行くのもありかと思うくらいには、なぜか気になってしまった。
京都で大きなくしゃみをしたどこかの家の当主がいたとかいないとか。




