第7章:不慮の事故と、理性の決壊点
噂の爆走と外堀の埋まりっぷりに胃を痛めながらも、私は離宮の回廊を歩いていた。
(もう嫌……。なんで私が歩くだけで、周りの侍従や宮女たちが『あの方が噂の……』みたいな生温かい目で見てくるのよ……!)
頭を抱え、深いため息をつきながら歩いていた――その時だった。
前日の雨で、濡れた石畳が滑りやすくなっていたことに、私は全く気づいていなかった。
「あ――っ!?」
ぐにゃりと足首が嫌な方向に曲がり、視界が急激に傾く。
踏ん張りが効かず、そのまま石畳の床へ激しく後頭部から打ちつけられる――!
(痛いっ、終わった――!!)
死を覚悟してぎゅっと目を瞑った瞬間。
ガシッ!!
強靭な腕が私の腰を力強く引き寄せ、宙に浮きかけた私の身体を強引に受け止めた。
「――無茶をするな、蓮鳳!」
聞き慣れた低い声。
耀天だ。彼が間一髪のところで私を抱きとめてくれたのだ。
(た、助かった……! ありがと――)
感謝を伝えようと目を開けた、その瞬間だった。
勢い余って抱きかかえられた反動と、お互いの重心の乱れ。
耀天が私を庇うように体勢を崩し、二人の顔が急接近した。
――チュッ。
息が止まった。
滑らかな、けれど熱い感触が、私の唇にダイレクトに触れていた。
(………………え?)
一瞬、世界からすべての音が消え去った。
触れ合っているのは、耀天の唇。
ほんの数十センチ先には、見開かれた彼の黄金色の瞳。
私の胸に押し当てられた彼の胸板から、ドックン、ドックンと恐ろしいほどの速さで打たれる鼓動が伝わってくる。
ほんの数秒。けれど永遠のようにも感じられた事故のような接吻。
「……あ」
体勢を直した耀天がゆっくりと体を離し、私は力なくその場にヘたり込んだ。
(触れた……触れた触れた触れた触れた触れたーーーーーッ!!??)
顔面が爆発したかのように熱くなる。耳の奥が熱い。指先まで血が通わなくなるほどパニックになり、私は口元を両手で覆いながら、プルプルと激しく震え出した。
「ち、違っ……! 今のは事故でっ! 足が滑って……! 事故なんですっ!!」
声が裏返り、涙目になりながら必死で弁明する。中身が女子だからこそ、ファーストキス(※この身体でも前世でも)の衝撃が大きすぎて、頭の中が真っ白になっていた。
だが――。
「……事故、か」
頭上から降ってきたのは、今まで聞いたこともないほど、低く、かすれ、重く沈んだ耀天の声だった。
恐る恐る見上げると、そこには――。
「……ッ」
耀天が、自分の口元を片手で覆い、顔を背けていた。
その指の間から見える彼の顔は、耳の先まで真っ赤に染まっている。
そして、その黄金色の瞳は……猛烈な熱と葛藤、そして抑えきれない「凶暴な何か」を宿して揺れていた。
(え……? 皇兄様……?)
いつもなら私のパニックぶりを見て「フッ」と可笑しそうに笑うはずの彼が、一切笑っていない。
どころか、全身の筋肉を硬直させ、激しい荒い息を吐き出している。
「……下がれ、蓮鳳」
「え……?」
「今すぐ……私の視界から消えろ」
絞り出すようなその声には、冷酷さではなく、必死で何かを押し殺そうとする痛切な限界が滲み出ていた。
「皇兄様……?」
「早く行け!!……これ以上、私に……理性を保たせるな……ッ!」
彼の手が私の肩を強く掴み、引き剥がすように私を背けた。
その手は、私以上に激しく震えていた。
(あ……)
察してしまった。
今まで「男同士だ」「弟だ」と自分に言い聞かせ、葛藤しながらも必死に理性の糸を保っていた耀天。
私の無自覚な行動や「可憐な反応」にツボりつつも、ギリギリのところで踏み止まっていた彼の理性の堤防が――
今の一瞬の「事故」によって、完膚なきまでに決壊してしまったのだと。
「ひ……っ!!」
私は脱兎のごとく自分の部屋へと逃げ帰った。
(やばいやばいやばい!! 冗談抜きでやばい!! 今までの溺愛どころの騒ぎじゃない!! あの人、完全に『スイッチ』が入っちゃったーーーーーッ!!)
自分の部屋に鍵をかけ、激しく打ち鳴らす心臓を押さえながら、私は悟った。
もう「無害な弟」の振りも、「可愛いリアクション」で誤魔化すことも通じない。
冷酷な摂政・李耀天の、本気の「執着」と「欲望」が、ついに目を醒ましてしまったのだと――。




