第2章:執務室の対峙と、見当違いの溺愛
重々しい朱塗りの扉の前に立つだけで、胃がキリキリと痛み出す。
目の前に構えるのは、大華帝国の政治の中枢――摂政・李耀天の執務室だ。
「……よし、落ち着け私。顔は美少年、中身は度胸のある女子高生。いくら相手が国のトップでも、毒殺されかけるよりはマシ!」
手に持った重箱をぎゅっと抱え直し、背筋を伸ばす。
護衛の武官に案内され、重厚な扉が開かれた。
広大な部屋の奥、紫檀の文机に向かっていた男がゆっくりと顔を上げる。
耀天だ。黒と金の朝服を身に纏い、書類をめくるその佇まいだけで息が詰まるほどの威圧感を放っている。
「……蓮鳳か」
彼の黄金色の瞳が私を捉えた瞬間、空気が一変した。
昨夜の「あの距離感」と「耳根の赤さ」が頭をよぎり、胸がドクンと跳ね上がる。
(だめだめ! 照れたら負け! 私はあくまで『政治に興味のない、健気で無害な弟』になりきるのよ!)
「皇兄様、お仕事中に突然申し訳ありません。実は……朝食のスープがあまりに美味しそうだったので、ぜひ皇兄様にも召し上がっていただきたくて」
私は完璧な(と思っている)「人無害な弟スマイル」を浮かべ、お重から深緑色のスープが入った磁器の器を取り出し、机の上に置いた。
耀天は冷ややかな視線をスープに落とし、それから私をじっと見つめた。
「……私に、スープを?」
「はい! 日頃のお礼と言ってはなんですが、温かいうちにと思って持ってまいりました」
(これで『お前は暇そうで良いな』と呆れられつつ、ついでに『最近命を狙われてて怖いから護衛が欲しいです』って話に持ち込む作戦……!)
だが、耀天の反応は私の予想とは大きくズレていた。
彼はスープの器に手を伸ばすどころか、ゆっくりと立ち上がり、机を迂回して私の目の前まで歩み寄ってきたのだ。
「……昨日、私にあれほど怯えていたお前が、自らスープを運んでくるだと?」
「え、あ、それは……兄弟の親愛の情といいますか……」
「黙れ」
耀天の手が伸ばされ、私の頬を包み込む。
ひんやりとした指先と、そこから伝わる男らしい体温。顔が近い。近すぎる。
(ひえっ……! だから距離感!! 中華宮廷の距離感どうなってんの!?)
私の中の乙女心が「イケメン! 超至近距離!」とパニックを起こし、思わず目を丸くして彼を見上げてしまう。
その瞬間、耀天の眉間にしわが寄せられ、その瞳に苦悩と葛藤の色が濃く浮かび上がった。
「……なぜ、そのような顔で私を見る?」
「え?」
「私を試しているのか? それとも……男であるこの私に、本当にそのような情を抱いているというのか……?」
「ち、違――っ!?」
誤解だ。大誤解だ!
私はただ「無害な弟」をアピールして生き残りたいだけなのに、相手から見たら「昨夜あれほど迫られたのに、翌朝手作りのスープを持って健気に会いにしてきた弟」に映っている!?
耀天の親指が、私の唇をなぞるように滑る。彼の呼吸がかすかに荒くなっているのが分かった。
「……お前は愚かだ、蓮鳳。私がどれほど自分の理性を抑え込んでいるか、分かっていない……」
「あ、あの、皇兄様、一旦落ち着いてスープを――」
「毒が入っているな」
「――え?」
私の言葉を遮り、耀天は低く冷ややかな声で言い放った。
彼はスープの器をちらりと一瞥し、冷酷な政治家の顔に戻る。
「匂いで分かる。……『杏仁の毒』だな。お前はこれに気づいていて、私のもとへ持ち込んだのだろう?」
(あ、気づいた……!流石は摂政閣下、察しが良い!)
「はい……。私のような者を妬む方がいるようで。騒ぎにするつもりはありませんが、どうか護衛を――」
言い終わる前に、私の身体は強い力で引き寄せられ、耀天の胸の中に抱きしめられていた。
「がはっ……!?(苦しい!)」
「……そうか。お前は……命を狙われ、怯え、私しか頼れる者がいなかったのだな」
耀天の低い声が、頭上から降ってくる。
その腕には力がこもり、まるで宝物を壊さないように、けれど決して逃がさないように私を締め付けていた。
「幼い頃から冷遇され、信じられる者もおらず……私に助けを求めることしかできなかったのだな。……すまなかった、蓮鳳。私が不覚だった」
(いや違う!! 頼るというか、権力者を利用しようとしただけで――!!)
「安心しろ。お前に毒を盛った愚か者は、今日中に一族ごと処理する。……そして今後は、私の目の届く場所に置く」
「えっ」
「今日からお前の寝所を、私の離宮へ移す。四六時中、私の目の前で保護してやる」
「えええええっ!? い、嫌です……じゃなくて、私なんかが皇兄様のお邪魔になっては――!」
「拒否は許さん」
耀天は私の顔を覗き込み、ぞっとするほど甘く、そして危険な笑みを浮かべた。
「……男同士などという世間の目を気にするのは、もうやめた。お前がこれほど私を買いかぶり、頼ってくれるのなら……私も覚悟を決めねばな」
(待って。何の覚悟!? どの方向の覚悟!?)
「さあ、いくぞ。まずは私にスープを一口飲ませてみろ。……毒の検査は、後だ」
「それ飲む気ですかーーーーーっ!?」
男として平穏に逃げ切るはずだった私のスローライフ計画は、冷酷な摂政義兄の「見当違いな決意」によって、音を立てて崩れ去ったのだった。




