父が木から下りるとき
父が木から下りるとき
朝食のあと、正志は約束どおり北斗を問い詰めず、旅行鞄を持って玄関へ向かった。濃紺のスーツには昨日の結婚式でついた白い糸くずが残り、澄江が背中からつまんで取った。観月は両親へ持たせるため、山菜の炊き込みご飯を二個のおにぎりにして、古い花柄のハンカチで包んだ。
「電車の中で食べてね。昨日、お母さんが作ってくれたご飯だから」
「観月が握ってくれたなら、お父さんは帰る前に食べてしまうわよ」
「そんなに食い意地は張っていない。駅に着いてから食べる」
「駅まで十分でしょう?」
澄江が笑うと、正志は照れたようにネクタイを直した。観月も口元を緩めたが、廊下の奥から北斗の舌打ちが聞こえると、すぐに振り返った。北斗は食卓に座ったまま、自分のスマートフォンを操作していた。
食卓には、食べ終えた皿が四枚残っていた。澄江が作っただし巻き卵は一切れだけ残り、ナメコのみそ汁は椀の底で冷えている。北斗は片づけを手伝わず、観月へ食器を早く洗えと目で合図した。
正志は玄関で革靴を履きかけたが、その様子を見て足を止めた。観月は父の視線に気づき、慌てて食卓へ戻った。皿を重ねようとすると、左腕に痛みが走り、一番上の小皿が傾いた。
「おい、落とすなよ。それ、高かったんだからな」
「大丈夫。落としていないわ」
「この前も時計を壊しただろ。物を丁寧に扱えよ」
正志の手が、革靴の上で止まった。観月は北斗を刺激しないよう、小皿を両手で持ち直した。澄江も何も言わず、正志のコートの袖をつかんだ。
昨夜、正志は北斗を責めないと約束していた。離婚の準備が終わるまで、観月の安全を優先しなければならない。正志は一度目を閉じ、ゆっくり革靴を履いた。
「北斗君、昨日は世話になった。私たちは、これで失礼するよ」
「はい。今度からはホテルを取ってください。うちも狭いので」
「北斗、そんな言い方をしなくてもいいでしょう」
「本当のことだろ。俺が家賃を払ってる家なのに、どうして休日まで気を使わなきゃならないんだよ」
正志の肩が動いた。澄江が袖を引いたが、今度は歩き出さなかった。玄関には北斗の高価な革靴が何足も並び、観月の古いパンプスは靴箱の隅へ押し込まれていた。
「北斗君。この家の家賃を払っているのは、君だそうだね」
「そうですよ。公共料金も全部、俺の口座から落ちています」
「それで観月を養っていると言っているのか」
「事実でしょう。俺がいなければ、こいつは住む場所もないんですから」
観月は皿を持ったまま、食卓と台所の間で立ち止まった。正志の声は大きくなかったが、いつもより低かった。澄江は止めるのを諦めたように手を離し、観月のそばへ移った。
「観月は君の扶養に入っていない。自分の税金、健康保険料、年金を払っている。毎月の生活費も、君が渡す三万円では足りないから、自分の収入から補っているそうじゃないか」
「それでも家賃は俺が払っています。食費を少し出したくらいで、同じだけ負担しているような顔をされても困りますよ」
「少しではないわ」
観月が言うと、北斗は面倒そうに眉を寄せた。観月は皿を流しへ置き、家計簿を持ってきた。スープの染みが残るページを開き、先月の支出を指で示した。
「先月、北斗が渡した生活費は三万円。私が補ったのは四万六千二百三十一円よ。北斗の昼食代と、外で使ったお金は入っていないわ」
「夫婦なんだから、金を持ってるほうが出せばいいだろ」
「では、私のほうが多く出した月は、私が北斗を養ったことになるの?」
「家賃と光熱費を合わせれば、俺のほうが多い。何度言えば分かるんだよ」
北斗は椅子へ深く座り、腕を組んだ。左手首には、毎月四万円を払っている銀色の腕時計がある。壁際には十八万円のゴルフクラブが立ち、玄関の棚には外国製の車の鍵が置かれていた。
「観月は家にいるんです。俺が家賃を払って住ませてやってる。洗濯や料理くらいして当然でしょう」
「住ませてやっている?」
正志は履いたばかりの革靴を脱ぎ、上がり框へ戻った。旅行鞄を床へ置き、曲がったネクタイを外す。手が震えてうまく畳めず、ネクタイはソファの端から垂れ下がった。
「お父さん、もういいの。私が自分で話すから」
「よくない」
「昨日、約束したでしょう」
「北斗君を責めないと約束した。だが、父親が目の前で娘を値踏みされて、黙っているとは約束していない」
正志は食卓の前まで進み、北斗と向き合った。声を張り上げてはいなかったが、あごには強く力が入っている。観月が子どもの頃、交通量の多い道路へ飛び出しかけたとき以来、父がこれほど硬い顔をしたところを見たことがなかった。
「うちの娘は、家賃と公共料金を払っているからと馬鹿にされるほど安くない!」
正志の声が、狭い部屋へ響いた。食卓の端に置かれたみそ汁の表面が揺れ、玄関の傘立てまでかすかに震えた。北斗は驚いた顔をしたが、すぐに椅子から立ち上がった。
「馬鹿になんかしてませんよ。事実を言っただけです」
「寄生虫と呼ぶことが、事実なのか!」
北斗の顔色が変わった。観月が両親へ話していない内容まで正志が知っていると思ったのだろう。正志は昨夜、観月から聞いた言葉を一つずつ思い出しながら、食卓へ両手をついた。
「千二百円の下着を買っただけで責めたそうだな。生活費が足りないと言われても、家計簿すら見なかった。五十万円を出せと迫り、断られたら腕をつかんで壁へ押した」
「それは観月が大げさに言ってるだけです。夫婦げんかに、親が口を出さないでください」
「夫婦げんかなら、なぜ観月の腕に痣が残る!」
「こいつが勝手に抵抗したんですよ。通帳を見せれば済んだ話なのに――」
「通帳を見せる義務が、どこにある!」
北斗は言葉を詰まらせ、観月をにらんだ。観月は澄江の前に立ち、父と北斗の間へ入ろうとした。しかし正志は娘の肩を押さえず、前へ出る必要はないと手で示した。
「観月の通帳は、観月のものだ。結婚前から働いて作った財産を、なぜ君の時計や車のために差し出さなければならない」
「夫婦の財産でしょう。妻なら夫が困ったときに助けるのが普通です」
「それなら、観月が生活費に困ったとき、君はなぜ助けなかった?」
「三万円も渡していましたよ!」
「二人分の食費だけでも平均で七万円以上かかると、昨日説明されたそうじゃないか。それでも増やさず、足りないなら観月が出せと言った。観月が出す金は夫婦のもの、君が稼いだ金は君だけのものなのか」
北斗は何か言い返そうとしたが、言葉が続かなかった。代わりにスマートフォンをつかみ、投資口座の画面を開いた。自分には仕事も投資の才能もあり、観月とは社会人としての責任が違うと言い始めた。
「俺はこれから、投資でも資産を増やすんです。観月が家でやってる遊びとは違う。もう二十五万円も利益が出てるんですよ」
「確定した利益なの?」
観月が尋ねると、北斗は黙った。画面に表示されているのは、まだ売っていない株の含み益だった。昨日より株価は少し下がり、二十五万円あった数字は十八万円へ減っている。
「今は調整してるだけだ。これから上がるんだよ」
「借りたお金も入れているでしょう?」
「お前には関係ない!」
「私には関係ないのなら、損をしても私の通帳を当てにしないでね」
「俺が損するって決めつけるな!」
北斗はスマートフォンを食卓へたたきつけた。正志が一歩前へ出ると、北斗は反射的に一歩下がった。以前、観月へ手を伸ばしたときとは違い、正志の前では拳を握ることもできなかった。
「北斗君、もう一つ聞く。観月以外の女性と、ホテルへ行っているそうだな」
「誰から聞いたんです?」
「行ったのか、行っていないのか」
「仕事の相談です。同じ会社の人間だから、放っておけなかっただけですよ」
「相談をするために、二週続けて一晩中ホテルへいたのか」
「観月、写真を見せたのか!」
北斗は父ではなく、観月へ怒鳴った。自分が浮気をしたことより、それが知られたことを責める声だった。観月は食卓の端へ置いた録音機が動いていることを確かめ、北斗から距離を取った。
「北斗。私を責めるのはやめて」
「夫婦のことを親に話すなと言っただろ!」
「夫婦のことだから、何をされても黙っていなければならないの?」
「俺の会社での立場も考えろよ!」
「私の立場を考えたことはある?」
北斗は口を開いたまま、返事をしなかった。冷めたみそ汁からは、もう湯気が上がっていない。正志はその椀を見てから、昨日から何度も食事を作り直していた娘へ視線を戻した。
「観月は、君の家政婦ではない。君の給料で買った所有物でもない。家賃と公共料金を払えば、何を言っても何をしてもよい相手ではない」
「だったら、連れて帰ればいいでしょう。こいつがいなくても、俺は困りませんから」
「今、何と言ったの?」
観月は北斗へ尋ねた。北斗は父に責められたことへ腹を立て、観月の問いに答えず鼻で笑った。自分が主導権を取り戻すには、妻を不要だと言えばよいと思ったのだろう。
「出ていきたいなら、勝手に出ていけ。どうせ一人じゃ生活できなくなって、すぐ泣いて戻ってくる」
「分かったわ」
「口だけじゃなく、本当に出ていけよ。俺名義の家なんだから、家具も持っていくな」
「私が結婚前に買った家具と、私の仕事道具は持っていくわ。共有のものは、弁護士を通して整理します」
「弁護士?」
観月は黒い革鞄から、相沢弁護士の名刺を取り出した。北斗へ渡さず、食卓の上へ置く。白い名刺には、離婚と財産問題を扱う法律事務所の名前が印刷されていた。
「離婚の準備は、もう始めているわ。北斗が私を必要としていないなら、話は早いわね」
「脅してるのか?」
「脅していない。今の発言も録音してあるわ」
北斗は食卓の周囲を見回し、録音機を探した。観月は隠す必要がなくなったため、エプロンのポケットから小さな機械を取り出した。赤いランプが点灯し、今も録音が続いている。
「勝手に録音するな!」
「腕をつかまれた日も、通帳を出せと言われた日も、生活費を増やしてほしいと頼んだ日も残っている。さっき私へ出ていけと言った声も入っているわ」
「消せ!」
北斗が手を伸ばすと、正志が間へ入った。北斗の腕には触れず、娘の前へ立つだけだった。正志は自分より背の高い北斗を見上げ、低い声で告げた。
「娘に近づくな」
「お義父さんには関係ないでしょう!」
「関係がある。観月は三十歳になっても、私の娘だ」
「親がいつまでも出てくるから、観月が自立できないんですよ」
「自分で稼ぎ、税金を払い、君が渡さなかった生活費を補っている人間の、どこが自立していない?」
「家賃は俺が――」
「それしか言えないのか!」
正志の拳が食卓へ落ちた。皿が跳ね、残っていただし巻き卵が転がった。澄江は夫の手を取り、これ以上たたけば自分がけがをすると静かに止めた。
正志は握った手を開いた。手のひらは赤くなり、小指の付け根にみそ汁のしずくがついている。観月は台所から冷たい布巾を持ってきて、父の手へ載せた。
「お父さん、ありがとう。でも、もう大丈夫」
「大丈夫ではないだろう」
「今までの私は大丈夫ではなかった。でも、これからは違うわ。新しい部屋も決めてあるの」
北斗は目を見開いた。観月が一人では部屋も借りられないと思っていたため、すぐには言葉を理解できないようだった。正志も驚いた顔をしたが、昨夜聞いた話を思い出し、ゆっくりうなずいた。
「いつ出るつもりだ?」
「四日後。北斗が会社へ行っている間に、引っ越し業者が来る」
「勝手に決めるなよ!」
「北斗は、さっき出ていけと言ったでしょう」
「本当に出ていくとは思わないだろ!」
「なぜ?」
「お前には俺が必要だからだよ!」
観月は食卓に残る四人分の皿を見た。食事を作ったのは母で、片づけようとしているのは観月だった。北斗は自分の椀さえ流しへ運ばず、腕を組んで立っている。
「私に必要だったのは、夫よ。家賃を払ったことを理由に、妻を寄生虫と呼ぶ人ではないわ」
北斗は反論できず、顔を赤くした。正志は冷たい布巾を手から外し、観月へ返した。先ほどまで震えていた指は、もう止まっていた。
「四日後、私たちも来る」
「お父さんたちは遠いでしょう。引っ越し業者もいるから大丈夫よ」
「荷物を運びに来るんじゃない。観月がこの家から無事に出るところを見るために来る」
澄江も隣でうなずいた。北斗は親子三人を順番に見たが、もう誰も彼の許可を求めなかった。食卓には相沢弁護士の名刺、生活費を記録した家計簿、冷めた朝食が並んでいた。
正志は旅行鞄を持ち直し、玄関で革靴を履いた。今度は北斗へ挨拶をしなかった。澄江は冷蔵庫に入れたおにぎりを忘れず食べるよう、観月へもう一度伝えた。
「観月、四日後に迎えに来る。それまでは、絶対に無理をするな」
「うん。連絡するわ」
「電話はいつでも出る。夜中でも構わない」
正志は娘の肩へ手を置いた。痣の残る左腕を避け、右肩へ軽く触れるだけだった。それから北斗を一度だけ振り返り、娘を傷つけるなと告げた。
両親が帰ったあと、部屋には焼いた卵と冷めたみそ汁の匂いが残った。北斗は観月へ文句を言い続けたが、もうその声に以前の勢いはなかった。自分が家賃と公共料金を払っていると言えば、誰もが黙ると思っていた理屈を、正志に正面から否定されたからだった。
観月は四人分の食器を洗い、母が作っただし巻き卵を小さな保存容器へ入れた。父へ渡し損ねたおにぎりは、昼に自分で食べることにした。炊き込みご飯には山菜とニンジンが入り、母の家で食べていたものと同じしょうゆの匂いがした。
親という字は、木の上に立って見ると書く。けれど正志は、娘が踏みつけられていると知り、木の上から下りてきた。怒鳴るためではなく、観月が自分の足で家を出るとき、その背中を守るためだった。




