木の上に立って見る人
木の上に立って見る人
金曜日の午後、観月の母から電話がかかってきた。父方の従妹の娘が都内で結婚式を挙げるため、両親そろって上京するという。式場の近くには親族用のホテルが用意されていたが、母はそこを断り、観月の暮らすマンションへ泊まりたいと言った。
「ホテルなら、叔父さんたちと一緒に泊まれるのでしょう? うちは客用の布団も一組しかないわよ」
「お父さんは座布団を並べても寝られるって言ってるわ。それに、親戚と夜中まで酒盛りをするより、観月の顔を見たいのよ」
「北斗に聞いてみないと分からないわ」
「自分の娘の家へ一晩泊まるのに、婿の許可がいるの?」
母の澄江は、冗談を言うように笑った。しかし、その声には普段と違う硬さがあった。観月が暮らしの話を尋ねられるたび、「大丈夫」「変わりない」としか答えなくなったことを、母は見過ごしていなかった。
北斗へ両親の宿泊を伝えると、露骨に顔をしかめた。食卓にはサバのみそ煮とホウレンソウのごま和えが並び、豆腐のみそ汁から湯気が上がっていた。北斗はサバの骨を皿へ吐き出し、銀色の腕時計を気にしながら答えた。
「ホテルがあるなら、そっちへ泊まればいいだろ」
「お母さんが、久しぶりにゆっくり話したいと言っているの」
「俺は気を使いたくないんだよ。休日くらい、自分の家でくつろがせろ」
「一晩だけよ。日曜日の朝には帰るわ」
「俺の親が泊まると言ったとき、お前は狭いから無理だと言ったよな」
「お義母さんは、二週間泊まりたいと言ったでしょう。今回は一晩だけよ」
北斗はみそ汁をすすり、少し薄いと言ってしょうゆ差しへ手を伸ばした。観月が止めるより早く、椀へしょうゆを二回垂らす。妻の両親が泊まることより、自分の味噌汁の濃さのほうが大切だとでもいうような態度だった。
「勝手にすればいい。ただし、俺は何も手伝わないからな」
「分かったわ」
「あと、変なことを話すなよ。夫婦げんかを親に告げ口するような真似はするな」
「変なことって、何?」
「いちいち言わせるな。腕のこととか、生活費のことだよ」
北斗は自分から口にしたあと、しまったという顔をした。観月は何も追及せず、サバの身を箸でほぐした。脂の乗った身にはみそがよく染みていたが、口の中に残ったのはショウガの辛さだけだった。
翌日の昼過ぎ、両親は小さな旅行鞄を一つずつ持ってやって来た。父の正志は濃紺のスーツにえんじ色のネクタイを締め、母の澄江は淡い藤色のワンピースの上に薄手のコートを羽織っていた。結婚式の引き出物が入った紙袋から、紅白のリボンと焼き菓子の箱がのぞいている。
「お邪魔します。北斗君、急に泊めてもらって悪いね」
「いえ。狭い家ですけど、どうぞ」
北斗は外向きの笑顔で両親を迎えた。普段は観月に客用の湯飲みを出せと命じるだけだが、今日は自分から正志の鞄を持とうとした。正志が大丈夫だと断ると、北斗は頼りにされなかったことが気に入らないように、鞄からすぐ手を離した。
「観月、早くお茶を出せよ。ご両親が疲れてるだろ」
「今、用意しているわ」
「気が利かなくて、すみません。家では、いつもこんな感じなんですよ」
澄江は笑わず、台所へ立つ観月の背中を見た。娘は薄いベージュのカーディガンと長い紺色のスカートを着ていた。暖かい日なのに袖口を手首まで下ろし、左腕をかばうように急須を持っている。
観月は桜の花が描かれた湯飲みにクナを四セーヴェル並べ、引き出物の焼き菓子を小皿へ載せた。北斗には大きな栗の入った菓子を、両親には抹茶味を選ぶ。自分の皿へは、袋の中で角が欠けていた小さなものを置いた。
「観月、あなたも大きいのを食べればいいじゃない」
「私はこれでいいの。欠けたものから食べないと、残ってしまうでしょう」
「北斗君は、よく大きなものを食べるんだね」
正志が穏やかに言うと、北斗は菓子を口へ運びながら笑った。観月が自分の好みを知っているから、いつも自然にそうなるのだと答える。観月が小さいものを選んでいるとは考えず、大きなものが自分のところへ来るのは当然だと思っていた。
夕食には、母が持ってきた山菜の炊き込みご飯と、観月が作った豚肉のショウガ焼きが並んだ。キャベツの千切り、冷ややっこ、ナメコのみそ汁もあり、いつもの食卓より皿が多い。澄江はエプロンを借りて台所へ立ち、観月と並んで豆腐を切った。
「少し痩せたんじゃない?」
「変わらないわよ」
「顔じゃなくて、手首。前はもう少し丸かったでしょう」
「お母さんは、細かいところを見すぎなのよ」
「親だからね」
澄江は豆腐を切る手を止めずに答えた。観月が棚の上の器を取ろうとすると、袖が少し上がった。左上腕に残る黄色い痣が見え、澄江の包丁がまな板の上で止まった。
「その腕、どうしたの?」
「棚にぶつけたの」
「どこの棚?」
「寝室の棚よ。急いでいたから」
澄江は観月の顔を見たが、それ以上は尋ねなかった。代わりに豆腐をみそ汁の鍋へ入れ、火を弱める。みその香りが立ち、鍋の中でナメコがゆっくり回った。
食事が始まると、北斗は会社の話を一人で続けた。自分が係長として何人もの部下を動かし、取引先から信頼されていることを説明する。正志が観月の仕事について尋ねると、北斗は箸を置いて笑った。
「観月のは仕事というほどではありませんよ。家で株価を見ているだけですから」
「でも、毎年申告しているんだろう?」
「ええ。まあ、税理士に言われて形だけですよ。安定した給料とは違います」
「観月は、自分の健康保険料も年金も払っていると聞いたが」
「それでも家賃と光熱費は僕が払っています。だから、生活そのものは僕が支えているんですよ」
正志はみそ汁の椀を持ったまま、北斗の顔を見た。観月は慌てて炊き込みご飯のおかわりを勧めたが、父は首を横へ振った。北斗は義父が黙ったことを、自分の説明に納得したからだと受け取った。
「今は専業主婦も大変でしょうけど、うちは僕の稼ぎで何とかやっています。観月には毎月三万円を渡していますし」
「三万円というのは、観月の小遣いかね?」
「生活費です。二人分の食費と日用品ですね」
「三万円で?」
正志の声が低くなった。北斗は気づかず、観月が節約下手だから足りないと言ってくるのだと笑った。澄江はショウガ焼きへ箸を伸ばさず、観月の茶碗に載っている薄い肉を見つめていた。
「北斗君は、昼食をどうしているの?」
「僕は外で食べます。仕事中の食事ですから、自分の財布から出していますよ」
「夜も外で食べることがあるの?」
「付き合いがありますからね。そのくらいは仕方ありません」
「では、三万円は観月と二人の食費ではなく、ほとんど観月が家で作る夕食と朝食の材料費なのね」
澄江が言うと、北斗の口元から笑みが消えた。観月は冷ややっこの皿を両親のほうへ押し、ネギが足りなければ出すと話を変えようとした。しかし正志は、娘の家の空気を確かめるように、食卓をゆっくり見回した。
北斗の席には、新しいスマートフォンと高級腕時計が置かれている。棚の横には十八万円のゴルフクラブが立てかけられ、玄関からは外国製の車の鍵が見えた。一方、観月のカーディガンは袖口に毛玉があり、食卓の椅子には破れた部分を縫い直した買い物袋が掛かっていた。
「お義父さんたちが来た日に、金の話はやめましょうよ。観月が余計なことを言ったんですか?」
「観月は何も言っていない」
「では、どうして責められなきゃならないんです?」
「質問しただけだ。責められているように聞こえたのなら、君にも思い当たることがあるんじゃないか」
北斗は箸を強く置いた。木製の箸が皿へ当たり、ショウガ焼きのたれがテーブルクロスへ飛んだ。観月は反射的に布巾を取り、北斗の袖へたれがついていないか確認した。
「ほら、観月はこうして僕の世話をするのが好きなんですよ。外から見ただけで、うちの夫婦に口を出さないでください」
「そうなのか、観月」
正志が尋ねた。観月は布巾でテーブルクロスを押さえたまま、すぐには答えられなかった。北斗は観月の代わりに、そうに決まっていると答えた。
食後、北斗はテレビの前へ座り、正志へ酒を勧めた。正志が断ると、自分だけ缶ビールを開け、投資で利益が出ている話を始める。観月と澄江は台所で食器を洗い、残った炊き込みご飯を小さなおにぎりにした。
「布団は私の部屋へ敷くわ。お父さんにはリビングで寝てもらうことになるけれど」
「観月、今夜はお母さんと一緒に寝ましょう」
「狭いわよ」
「小さい頃は、三人で川の字になって寝たでしょう。あなた、いつも布団を蹴って、お父さんのお腹に足を載せていたのよ」
「そんなこと、覚えていないわ」
観月は小さく笑ったが、目は食器棚へ向いたままだった。澄江は洗った茶碗を布巾で拭き、娘の左腕へ触れないよう注意しながら、袖口をそっと持ち上げた。薄くなった痣が照明の下に現れた。
「棚にぶつけた痣には見えないわ」
「お母さん、今は話せない」
「北斗君にやられたの?」
観月は答えなかった。蛇口から細く流れていた水を止めると、台所が急に静かになった。リビングでは北斗がテレビを見て笑い、缶ビールをテーブルへ置く音が聞こえた。
「親という字は、木の上に立って見ると書くのよ」
澄江は濡れた手をエプロンで拭いた。観月は、昔からその話を何度も聞いていた。小学校の入学式にも、初めて一人暮らしを始めた日にも、澄江は同じことを言った。
「木の上から子どもを監視するという意味ではないの。すぐに手を出さず、離れたところから見守ることだと、お母さんは思っている」
「それなら、見ているだけにして」
「見ているだけでよいときと、木から下りなければならないときがあるわ」
観月は流しに残った皿へ視線を落とした。ショウガ焼きのたれが乾き始め、白い皿の端へ茶色い線を作っていた。澄江は急かさず、隣で黙って皿を拭き続けた。
その夜、北斗は寝室へ入り、観月は両親とリビングに残った。客用の敷布団は母が使い、父には厚手の毛布と長座布団を重ねた。観月は寝る前に温かいほうじ茶を三人分入れ、引き出物の焼き菓子の残りを小皿へ置いた。
正志はネクタイを外し、白いワイシャツの袖をまくっていた。澄江は藤色のワンピースから、小花柄のパジャマへ着替えている。父と母がそろって娘の顔を見たため、観月は湯飲みを両手で包んだ。
「いつからだ」
正志が短く尋ねた。観月は何のことか聞き返さなかった。ほうじ茶の湯気が眼鏡を曇らせ、正志は一度眼鏡を外してハンカチで拭いた。
「生活費を三万円にされたのは、二年前から。腕をつかまれたのは、この前が初めて」
「浮気は?」
「知っていたの?」
「あの男のジャケットから、女物の香水の匂いがした。結婚式で大勢とすれ違ったが、同じ匂いは女性の招待客からしかしなかった」
「探偵に調べてもらったわ。会社の派遣社員とホテルへ行っている」
澄江は口元へ手を当てたが、声を上げなかった。正志は拭き終えた眼鏡をかけ直し、北斗がいる寝室の扉を見た。すぐに立ち上がろうとしたため、観月が父の袖をつかんだ。
「今、北斗を責めないで。弁護士に相談して、家を出る準備をしているの」
「もうそこまで進めているのか」
「新しい部屋も決めた。重要な書類は貸金庫へ移したし、引っ越し業者も手配している」
「どうして私たちに話さなかったの?」
「言えば、お父さんたちは心配するでしょう。家へ帰ってこいと言われると思った」
正志は何か言いかけ、口を閉じた。澄江は冷めかけたほうじ茶を一口飲み、湯飲みを畳へ置いた。茶色い水面に、天井の照明が丸く映っていた。
「帰ってきてもいい。でも、帰ってこなくてもいい」
「どういうこと?」
「観月が自分の家で暮らせるなら、そこへ行けばいい。私たちは、あなたの代わりに決めるために来たのではないもの」
「なら、何をしに来たの?」
「あなたが一人で持てない荷物を、少し持つためよ」
観月は膝の上へ視線を落とした。左腕の痣を隠すために下ろしていた袖口が、湯飲みを持った拍子に少し上がっている。澄江はそこへ触れず、観月の冷えた右手を両手で包んだ。
正志は、明日の朝一番で北斗へ何か言うつもりはないと約束した。その代わり、引っ越しの日には自分たちも来ると言った。観月が危ないから必要ないと断ると、父は首を横へ振った。
「業者がいる時間に行く。北斗君が会社へ行っている間に終えるんだろう?」
「その予定よ」
「では、荷物を運ぶためではなく、見届けるために行く。親は木の上に立って見るんだからな」
「お父さんまで、その話をするの?」
「お母さんから四十年も聞かされている。嫌でも覚えるさ」
観月は久しぶりに声を出して笑った。すぐ隣の寝室に北斗がいるため、口元を手で押さえる。正志も声を立てずに笑い、澄江はお父さんは大事な話をいつも笑いに変えると小声で文句を言った。
翌朝、澄江は台所でだし巻き卵を作った。正志はコンビニまで新聞を買いに行き、ついでに牛乳とヨーグルトも買ってきた。食卓には炊き込みご飯のおにぎり、だし巻き卵、豆腐とナメコのみそ汁が並び、昨日よりも多くの湯気が立った。
北斗は寝室から出てくると、正志が自分の席に座っているのを見て眉をひそめた。正志はすぐに席を譲り、向かい側へ移った。何も責めず、何も問いたださず、北斗が食事をする様子を見ていた。
「お義父さん、さっきから何ですか?」
「何がだね?」
「俺のことを、じろじろ見ているでしょう」
「親は、木の上に立って見るものらしいからね」
「意味が分かりませんけど」
北斗はだし巻き卵を一口食べ、観月のものより甘くないと言った。澄江は好みを聞いていなかったからと謝ったが、観月はもう謝らなくていいと母へ告げた。北斗が不満そうに顔を上げても、正志は黙って娘を見守っていた。
朝食後、両親は旅行鞄を持って帰っていった。澄江は玄関で観月を抱き締めようとしたが、左腕を傷めないよう、背中へ軽く手を添えるだけにした。正志は観月へ小さな封筒を渡し、中に自宅の合鍵と両親の連絡先を書いた紙を入れていた。
「引っ越しの日、時間が決まったら知らせなさい」
「遠いのに来なくていいわ」
「親戚の結婚式は口実だったんだ。お母さんが、観月の声がおかしいと言い張るから来た」
「お父さんだって、すぐ泊まると決めたでしょう」
「そうだったかな」
正志はとぼけた顔で靴を履いた。澄江は最後にもう一度、冷蔵庫に残したおにぎりを昼に食べるよう念を押した。二人の足音が廊下の奥へ消えるまで、観月は玄関に立っていた。
両親は北斗を怒鳴りつけず、観月を無理に連れ帰ろうともしなかった。ただ、娘が暮らす部屋の空気を吸い、冷めたみそ汁を見て、痣の残る腕に気づいた。それだけで、観月が普通ではない状態に置かれていると理解した。
親は木の上に立って見ると書く。しかし、見ているだけでは子どもが守れないと知ったとき、親は木から下りてくる。観月は両親から渡された封筒を、持ち出す鞄の中へ入れた。
引っ越しの日まで、あと五日だった。




