大切にされていると思えない
大切にされていると思えない
北斗が帰宅したのは、午後十時を過ぎてからだった。観月は薄い青色のカットソーに黒いロングスカートを着て、食卓で家計簿をつけていた。夕食に作った鶏肉と大根の煮物は鍋の中で冷え、表面には白い脂が固まっていた。
玄関の扉が開くと、香辛料のような強い香水の匂いが流れ込んできた。北斗は白いシャツの襟元を開け、黒いジャケットを肩へ引っかけている。手には百貨店の紙袋があったが、観月の姿を見るなり背中へ隠した。
「遅かったのね。夕食は?」
「食べてきた。いらない」
「連絡してほしかったわ。食べると思って待っていたの」
「勝手に待ってたのは、お前だろ。俺のせいにするなよ」
観月は家計簿を閉じた。北斗が食べなかった鶏肉は、明日の昼に回せばよい。そう考えて立ち上がったが、食卓には二人分の箸と茶碗が並び、北斗の席に置いたみそ汁には薄い膜が張っていた。
「その紙袋は、何?」
「会社のものだ。お前には関係ない」
「百貨店で、会社のものを買ったの?」
「取引先への贈り物だよ。仕事をしていれば、こういう付き合いもあるんだ」
北斗は紙袋を抱えたまま寝室へ向かった。袋の口から、赤いリボンのついた細長い箱が見えている。観月は以前、その百貨店で同じ包装を見たことがあった。女性向けの香水売り場で使われていたものだった。
「彩香さんへの贈り物?」
北斗の足が止まった。観月は食卓から動かず、膝の上で両手を重ねた。左腕に残った痣は黄色く薄れていたが、長袖の布が触れる場所には、まだ鈍い違和感があった。
「何を言ってるんだ?」
「彩香さんとホテルへ行っていることは知っているわ」
「証拠もないのに、くだらないことを言うな」
「二人でホテルへ入る写真も、翌朝に出てくる写真もある。会社の飲み会だと言って出かけた日よ」
北斗は紙袋を床へ置いた。赤いリボンの箱が傾き、袋の内側へぶつかって軽い音を立てる。北斗はネクタイを外しながら、観月をにらんだ。
「探偵でも雇ったのか? 人を尾行させるなんて、気持ちの悪い女だな」
「夫がどこで誰と泊まっているのかを、確認しただけよ」
「一緒にホテルへ入ったからって、何もしてないかもしれないだろ」
「二週続けて、翌朝まで出てこなかったわ」
「仕事の相談だ。あいつは職場のことで悩んでたんだよ」
「ホテルの部屋で、一晩中?」
北斗は返事をせず、冷蔵庫を開けた。缶ビールを探したが、一本も残っていない。観月が今月の生活費では買えないと説明すると、北斗は冷蔵庫の扉を強く閉めた。
「ビールくらい用意しておけよ。何のために家にいるんだ?」
「今日、あなたは彩香さんと何を食べたの?」
「話をそらすな」
「外で食事をして、香水を買って、ホテルにも行く。そのお金があるのに、家へ入れる生活費は三万円なのね」
「俺が稼いだ金をどう使おうが、俺の勝手だろ」
「では、どうして私が千二百円の下着を買うことには許可が必要なの?」
「まだその話をしてるのか。執念深いな」
観月は北斗の顔を見た。結婚前の北斗は、観月が風邪をひけば駅前の薬局へ走り、どの薬がよいか分からないからと三種類も買ってきたことがあった。少し焦げたパンケーキを焼き、形は悪いけれど愛情は入っていると笑ったこともある。
その北斗がいつからいなくなったのか、観月には分からなかった。係長になった日だったのか、最初の高級腕時計を買った日だったのか、それとも観月が仕事を自宅へ移した日だったのかもしれない。けれど、目の前にいる男が昔の北斗へ戻るのを待つ時間は、もう終わっていた。
「北斗、座って。話したいことがあるの」
「俺は疲れてるんだ。明日にしろ」
「明日にしたら、今度は仕事があると言うでしょう。五分でいいから座って」
「面倒くさいな」
北斗は舌打ちしたが、食卓の椅子へ腰を下ろした。観月は鍋に残った煮物を保存容器へ移し、布巾で食卓の水滴を拭いた。二人の間には、食べられなかった茶碗と、冷めたみそ汁の椀が残った。
「私は、北斗に何度も話そうとしてきたわ。三万円では生活できないことも、下着を買うのに許可を求めたくないことも、腕をつかまれて怖かったことも話した」
「怖かったって、少し押しただけだろ。いつまで被害者ぶるんだよ」
「今も謝らないのね」
「お前が通帳を出せば、あんなことにはならなかった」
「それは、私が悪いと言っているの?」
「俺を怒らせるようなことをするからだ。夫婦なら相手の性格くらい考えて行動しろよ」
観月はエプロンのポケットに入れた録音機へ触れた。小さな機械は、北斗の声を途切れずに記録している。外では雨が降り始め、ベランダに干したままだったタオルが、ガラス戸の向こうで風に揺れていた。
「私は北斗が好きだったわ。結婚したときは、二人で暮らせば大変なことも乗り越えられると思っていた」
「だったら、今も我慢すればいいだろ。結婚生活なんて、そんなものだ」
「どうして私だけが我慢するの?」
「男は外で戦ってるんだよ。家でパソコンを見てるだけのお前とは、背負ってるものが違う」
「私は毎年、自分で申告をして、税金も保険料も払っている。北斗からもらう三万円で足りない生活費も、自分で補ってきたわ」
「だから何だよ。家賃を払ってるのは俺だろ」
「家賃を払えば、妻を見下してもいいの?」
北斗は腕を組み、背もたれへ体を預けた。高級腕時計の文字盤が照明を反射し、銀色に光っている。その時計の支払いは月四万円で、観月へ渡す生活費より一万円多かった。
観月は椅子の横に置いていた紙袋から、経済的ハラスメントの資料を取り出した。北斗が朝に読んで、食卓へたたきつけた紙だった。しわになった部分を手のひらで伸ばし、北斗の前へ置いた。
「数字を見せれば、話し合えると思っていた。二人暮らしの食費だけで、平均七万五千円から八万七千円ほどかかると説明すれば、三万円では足りないと分かってくれると思ったの」
「平均なんか当てにならない。工夫が足りないだけだ」
「私は一円でも安い店を探した。パンの耳も捨てずに冷凍した。北斗が残したおかずは、次の日の昼に食べた」
「主婦なら普通だろ」
「その間に、北斗は十八万円のゴルフクラブを買った。月四万円の時計を身につけ、彩香さんには高い料理と香水を贈った」
「俺が稼いだ金だと言ってるだろ!」
北斗の声で、食卓の上のみそ汁が小さく揺れた。観月は肩をすくめなかった。玄関には鞄を用意し、証拠書類はすでに貸金庫へ移してある。北斗が立ち上がった場合は、すぐに部屋を出るつもりだった。
「北斗。私は、あなたのお金が欲しかったのではないわ」
「じゃあ、何が不満なんだよ。家もあるし、食うものもあるだろ」
「一緒に夕食を食べたかった。遅くなるなら連絡してほしかった。私が作ったものをまずいと言う前に、今日も作ってくれたのかと思ってほしかった」
「そんな細かいことを、いちいち考えてられるか」
「下着が破れたら、新しいものを買ってもいいと言ってほしかった。病院へ行ったら、体は大丈夫だったかと聞いてほしかった」
「子どもじゃないんだから、自分のことは自分でやれよ」
「では、北斗も自分で食事を作り、洗濯して、自分のものは自分で片づければよかったでしょう?」
「それをするのが妻の仕事だろ」
観月は唇を閉じた。北斗のワイシャツを洗い、襟の黄ばみを落とし、天気予報を見ながら干す時間を思い出した。北斗の好みに合わせてみそ汁を濃くし、弁当の卵焼きを甘くし、嫌いなピーマンを細く刻んでいたことも、彼にとっては何の価値もなかった。
「あなたと一緒にいても、大切にされていると思えない」
北斗の眉がわずかに動いた。観月は膝の上で握っていた手を開き、食卓へ置いた。指先は冷えていたが、声は震えなかった。
「愛されているとも思えない」
「急に何を言い出すんだよ。俺が働いて、家賃を払ってやってるだろ。それが愛情じゃないのか?」
「愛情は、家賃の領収書ではないわ」
「じゃあ、花でも買えば満足なのか? 女は面倒くさいな」
「花が欲しいのではない。私が痛いと言ったら手を離してほしかった。三万円では足りないと言ったら、家計簿を見てほしかった。浮気をしているのかと聞いたら、私を悪者にせず、本当のことを話してほしかった」
「そんなことで、愛されてないって騒ぐのか?」
「北斗にとっては、全部『そんなこと』なのね」
北斗はうるさそうに顔を背けた。床に置いた百貨店の紙袋から赤い箱を取り出し、寝室へ持っていこうとする。観月がその箱を見ても、北斗は隠そうとしなくなっていた。
「離婚したいってことか?」
「私がそう言ったら、北斗はどうするの?」
「困るのはお前だぞ。家賃も払えないくせに、どこで暮らすんだよ」
「私のことを心配しているの?」
「違う。現実を教えてやってるんだ。三十歳で職歴に空白がある女が、一人で生きていけると思うなよ」
「北斗は、私が困るから離婚できないと思っているのね」
「事実だろ。俺と別れたら、今みたいな生活はできないぞ」
観月は部屋を見回した。北斗のゴルフ用品が占領した収納、脱ぎ散らかされた靴下、食べてもらえなかった夕食、洗う人のいない二人分の食器が目に入った。今の生活を失うことが、観月には脅しとして聞こえなかった。
「分かったわ。北斗の考えは、よく分かった」
「だったら、くだらない話は終わりだ。風呂を沸かしてくれ」
「自分で沸かして」
「は?」
「私は先に休むわ。食器も、自分で使ったものは自分で洗って」
北斗は目を見開いた。観月が家事を拒むとは考えていなかったのだろう。床へ置かれた紙袋を蹴りそうになり、慌てて足を引いた。
「専業主婦が家事をしなくなったら、何の価値があるんだよ!」
「私の価値は、北斗の世話をすることだけではないわ」
観月は立ち上がり、冷めたみそ汁を流しへ運んだ。鍋の煮物には蓋をして、冷蔵庫へ入れる。明日の昼には味が染みて、今日よりおいしくなっているはずだった。
北斗は食卓に一人で残り、誰の金で暮らせていると思っているのかと叫んだ。観月は振り返らず、自室へ入って扉の鍵をかけた。録音機を停止し、最後の会話という名前のフォルダーへ音声を保存した。
机の上には、新居の鍵が置かれていた。観月が自分の資金で購入した部屋の鍵であり、北斗はその存在を知らない。引っ越し業者が来る日まで、あと六日だった。
観月はベランダへ出て、雨に濡れたタオルを取り込んだ。冷たい布から水滴が落ち、カットソーの袖を濡らした。部屋干し用の竿へ一枚ずつ掛けながら、観月は先ほど自分が口にした言葉を思い返した。
大切にされていると思えない。愛されているとも思えない。その言葉に対して北斗が心配したのは、観月の気持ちではなく、自分が家事をしてもらえなくなることだった。
観月は濡れた袖を着替え、紺色のカーディガンを羽織った。新居の鍵を小さな革袋へ入れ、持ち出す鞄の一番奥へしまう。北斗と話し合えば昔の二人へ戻れるという期待は、もう残しておく必要がなかった。




