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三万円の正体

三万円の正体


日曜日の朝、観月は白い長袖シャツに焦げ茶色のロングスカートを合わせ、食卓の上を丁寧に拭いた。朝食の皿には、六枚切りのトースト、目玉焼き、千切りキャベツを載せてある。鍋で温めたコーンスープから甘い匂いが立っていたが、北斗はまだ寝室から出てこなかった。


観月は食卓の中央へ、一枚のプリントを置いた。相沢弁護士の事務所でもらった、経済的ハラスメントについての資料だった。妻へ必要な生活費を渡さない、収入や財産を一方的に管理する、配偶者の買い物を細かく監視する、働くことを認めないといった行為が、具体例として記載されている。


その下には、東京都で二人暮らしをする場合、食費だけでも一か月七万五千円から八万七千円程度かかるという資料を重ねた。もちろん、外食が多い世帯も含まれた平均であり、家庭ごとに支出は異なる。それでも、食費、日用品、通院費、北斗の酒代やクリーニング代まで三万円で賄えという要求が、現実からどれほど離れているかを示す数字にはなった。


観月はプリントを隠さなかった。北斗がいつも座る席の正面へ、見出しが読める向きで置いた。万一に備えてエプロンのポケットには録音機を入れ、玄関近くには身分証明書と薬を収めた小さな鞄を用意していた。


午前十時を過ぎると、北斗が灰色のスウェット姿で寝室から出てきた。髪は後頭部だけ跳ね、裸足のかかとが床へ触れるたびに乾いた音を立てている。北斗はあくびをしながら椅子を引き、プリントの上へスマートフォンを置こうとした。


「何だよ、これ」


「読んでほしくて置いたの」


「経済的ハラスメント?」


北斗は見出しを読み上げ、観月の顔を見た。観月は向かい側へ座らず、流しで使い終わったフライパンを洗っていた。こびりついた卵の白身へスポンジを当てると、洗剤のレモンの香りが広がった。


「東京都で二人暮らしをする場合、食費だけでも月に七万五千円から八万七千円ほどかかるそうよ」


「よその家はよその家だろ。外食ばかりしている連中も入ってるんじゃないのか?」


「そうね。だから、うちが平均額と同じでなければならないとは言っていないわ。でも、北斗から渡される三万円には、食費だけでなく洗剤やトイレットペーパー、私の通院費まで含まれているでしょう」


「工夫すれば三万円で足りる。テレビでも節約家族が一か月一万円で暮らしてたぞ」


「その家族は、お米や野菜を実家からもらっていなかった?」


北斗は答えず、トーストへバターを厚く塗った。観月は一箱二百円を超えるバターを朝食用に少しずつ使っていたが、北斗は角から大きく削り取った。溶けたバターが皿へ垂れても、紙ナプキンで拭いてそのままごみ箱へ捨てた。


「朝から金の話をするなよ。せっかくの休日が台なしだ」


「北斗が生活費について話をしてくれないから、朝に置いたのよ」


「俺は毎日働いてるんだぞ。休みの日くらい、ゆっくりさせろ」


「平日の夜に話そうとすると、疲れていると言うわ。食事中は飯がまずくなると言うし、食後はテレビを見ているから邪魔をするなと言う。私はいつ話せばいいの?」


「そんなもの、自分で考えろよ。主婦だろ」


北斗はコーンスープをすすり、ぬるいと顔をしかめた。観月が温め直すか尋ねると、もういらないと言って椀を押し返した。黄色いスープの表面には、冷めて薄い膜が張っていた。


観月は家計簿を食卓へ持ってきた。先月、自分の口座から立て替えた金額は四万六千二百三十一円になっている。米、肉、魚、野菜、調味料だけでなく、北斗のビール、ワイシャツのクリーニング代、ゴルフへ持っていった飲み物も含まれていた。


「北斗からもらった三万円と、私が立て替えた四万六千二百三十一円を合わせると、先月の生活費は七万六千二百三十一円よ」


「そんなに使ったのか? やっぱり、お前は無駄遣いしてるじゃないか」


「これは二人分よ。北斗の昼食代と外食代は入っていないわ」


「俺の昼飯は仕事の経費みたいなものだ。家計と一緒にするな」


「では、北斗のビールとクリーニング代は、生活費から外してもいい?」


「何でそうなるんだよ。俺が稼ぐために必要な金だろ」


観月は家計簿の端を指で押さえた。食卓の上では、北斗が食べ残したキャベツからドレッシングが流れ、プリントの角へ届きそうになっている。観月はプリントを少し引き寄せ、汚れない場所へ移した。


「北斗は、ゴルフクラブに十八万円を使った。腕時計には毎月四万円を払っている。株を始めるためには、ボーナスの残りも全部使ったわね」


「全部、俺が稼いだ金だ」


「では、私が稼いだお金も、私が自由に使っていいのね?」


「お前のは、たまたま株で儲けた金だろ。安定した収入じゃない」


「それでも税金を払い、健康保険料も年金も自分で納めているわ。北斗の扶養には入っていない」


「家賃と光熱費を払っているのは俺だ。何回言わせるんだよ」


「私は家事をして、生活費の不足分を負担している。それを無視して、北斗だけが私を養っていると言うのはおかしいでしょう?」


北斗はプリントを手に取り、経済的ハラスメントの具体例へ目を走らせた。下着の購入を責める、通帳を取り上げようとする、必要な生活費を渡さないという項目は、北斗の行為と重なっている。それでも北斗は自分のことだとは認めず、紙を食卓へたたきつけた。


「つまり、俺を加害者扱いしたいんだな」


「ここに書いてあることを読んで、自分の行動と比べてほしいの」


「俺はお前を養ってるんだぞ。それが、どうしてハラスメントになるんだ?」


「三万円では、二人分の食事さえ十分に用意できないからよ」


「じゃあ、お前がもっと出せばいいだろ。金を持ってるんだから」


「今、自分で言ったことが分かっている?」


「何がだよ」


「私に足りない分を出せと言うなら、北斗だけが私を養っていることにはならないでしょう?」


北斗の頬が動いた。反論を探すとき、彼は右の眉を二度上げる癖がある。観月はその動きを見ながら、流しの横で水切りしているマグカップへ視線を移した。


北斗は論点を変えるように、家事の話を始めた。専業主婦なら安い店を回り、特売品だけで料理を作るべきだと言う。自分の母親は、チラシを見比べて自転車で何軒ものスーパーを回っていたと胸を張った。


「三十円安い卵を買うために、遠い店まで行けと言うの?」


「塵も積もれば山となるだろ」


「自転車で往復一時間かかるわ。北斗は、私の一時間には値段がないと思っているの?」


「家にいるんだから、時間だけはあるだろ」


「私も仕事をしているわ。市場が開いている時間は、パソコンから離れられない日もある」


「また株かよ。画面を見てるだけで、仕事をした気になるな」


北斗はスマートフォンを手に取り、自分の証券口座を開いた。交流サイトで勧められた小型株は、先週よりさらに値上がりしていた。画面に表示された含み益を観月へ見せ、自分こそ投資の才能があると言い始めた。


「見ろよ。もう二十五万円も増えてる。お前みたいに一日中張りつかなくても、銘柄を選ぶ力があれば儲かるんだよ」


「まだ売っていないのでしょう?」


「また、それか。上がっているのに売る馬鹿がどこにいるんだ」


「その株が、どうして上がっているのか説明できる?」


「大口が買い集めてるんだよ。近いうちに大きな発表もある」


「会社から発表された情報ではないわね?」


「情報が出てから買ったんじゃ遅いんだよ。素人には分からないだろうけどな」


北斗は口元を緩め、交流サイトの投稿を何度も読み返した。そこには「億への片道切符」「今売る者は一生貧乏人」といった言葉が並んでいる。業績や財務状況について具体的に説明する文章は、一つもなかった。


観月はプリントのしわを伸ばし、透明なファイルへ入れた。北斗が読んだ日時、食費の平均額を説明したこと、生活費の増額を拒否されたことを家計簿の余白へ記入する。録音機には、北斗が「足りなければお前が出せ」と言った声も残っていた。


「これを弁護士に見せるつもりか?」


北斗が急に尋ねた。観月はペンの蓋を閉め、北斗の顔を見た。左腕の痣は黄色く薄くなっていたが、長袖の下にはまだ残っている。


「どうして弁護士が出てくるの?」


「経済的ハラスメントなんて紙を、普通の主婦が自分で探すわけないだろ。誰かに入れ知恵されたんじゃないのか?」


「インターネットでも調べられるわ」


「俺に隠れて、離婚の準備でもしてるのか?」


北斗は椅子から立ち上がった。以前なら観月も一歩下がっていたが、今日は玄関までの通路を確認したまま、その場を動かなかった。玄関の外には、観月から連絡を受けた相沢の事務員が車を止めて待機している。


「北斗が生活費について話し合ってくれるなら、紙を置く必要はなかったわ」


「質問に答えろよ。離婚するつもりなのか?」


「まず、毎月の生活費を七万円にしてほしい。外食費を除いても、三万円では足りないわ」


「冗談じゃない。俺の小遣いが減るだろ」


「北斗の小遣いは、毎月いくらなの?」


「小遣いじゃない。俺が稼いだ金だ」


「それが北斗の答えなのね」


観月は録音機の停止ボタンを押さなかった。北斗が手を伸ばしてもすぐ逃げられるよう、椅子を食卓の奥へ戻す。北斗は観月の左腕を一度見たが、今回は近づいてこなかった。


「勝手にしろ。昼は外で食う」


「朝食の食器は流しへ運んでね」


「それくらい、お前がやれよ!」


北斗は寝室へ入り、外出用の黒いシャツと細身のパンツへ着替えた。香水を何度も吹きつけ、銀色の腕時計をはめる。玄関の鏡で髪を整えると、妻へ三万円しか渡していない男には見えない姿で出ていった。


観月は食卓へ戻り、冷めたコーンスープを流しへ運んだ。北斗が残したトーストの耳は、小さく切って冷凍用の袋へ入れた。洗濯機の終了音が鳴ったため、白いシャツと靴下をベランダへ干してから、自室へ戻った。


三台のモニターを起動すると、北斗が買った小型株の売買板も表示した。分厚く並んでいた買い注文は、株価が近づくたびに消えている。その一方で、少し上の価格には大量の売り注文が現れ、誰かが買い手へ株を渡し続けていた。


観月は北斗の口座へ触れず、売れとも買えとも言わなかった。自分の口座でも、その銘柄は取引しない。北斗が失敗したとき、観月が仕組んだと主張する余地を残したくなかった。


机の端には、経済的ハラスメントのプリントと、先月の家計簿を並べた。七万六千二百三十一円という実際の生活費の横に、北斗から受け取った三万円という数字がある。その差額を埋めてきたのは、寄生虫と呼ばれた観月だった。


北斗はプリントを読んでも、自分の行いを改めなかった。それどころか、観月が不足分を出せばよいと言い切った。観月にとって、その言葉は話し合いを続けるべきか判断する、最後の資料になった。


午後一時、相沢弁護士から電話が入った。観月は今朝の会話を報告し、新居の契約日が決まったことも伝えた。引っ越し業者の手配が済めば、北斗が出勤している間に家を出られる。


電話を終えた観月は、冷蔵庫から昨夜の残りの炊き込みご飯を出した。電子レンジで温め、刻み海苔を載せて一人で食べる。しょうゆの匂いがする湯気の向こうで、モニターの数字が赤と緑に動いていた。


食費の平均額を印刷した目的は、北斗を言い負かすことではなかった。数字を見せても話し合えない人なのか、それとも現実を知れば態度を変える人なのかを、観月は確かめたかった。結果は、朝食の冷めたスープと一緒に、食卓の上へ残された。


北斗は変わらなかった。だから観月が、自分の暮らしを変えることにした。


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