第5話 勝ったのは実力か
第5話 勝ったのは実力か
月曜日の朝、観月は薄い灰色のニットに黒いパンツを合わせ、台所で卵焼きを作っていた。フライパンへ流した卵から甘い匂いが立ち、隣の鍋ではダイコンと油揚げのみそ汁が湯気を上げている。昨夜炊いたご飯が少し硬くなっていたため、観月は手に水をつけ、梅干しを入れたおにぎりを二個作った。
北斗は紺色のスーツを着て食卓へ座ったが、朝食にはほとんど手をつけなかった。左手でスマートフォンを操作し、右手では昨年冬のボーナスが振り込まれた通帳を開いている。車検代を観月から取れなかったため残高は減っていたが、まだ四十万円ほど残っていた。
「なあ、証券口座って、すぐ作れるのか?」
「本人確認が済めば作れると思うけれど、会社によって日数は違うわ」
「信用取引も一緒に申し込めるんだろ?」
「最初から信用取引をするつもりなの?」
「現物だけじゃ、たいして儲からないからな」
観月は卵焼きを巻いていた箸を止めた。前回の食事中、北斗は株を安く買って高く売ればよいと笑っていたが、信用取引の仕組みを理解しているようには見えなかった。観月がフライパンの火を弱めると、北斗はスマートフォンの画面を得意そうに向けた。
「この人を見ろよ。元手三十万を一年で五千万にしたんだってさ」
「その取引履歴は公開されているの?」
「細かいことはいいんだよ。実際に高級車へ乗ってる写真もあるんだから、成功してるに決まってるだろ」
「借りた車かもしれないし、昔の写真かもしれないわ。交流サイトに載っているものが、全部本当とは限らないでしょう」
「何でも疑うんだな。だから、お前は大きなことができないんだよ」
北斗はみそ汁を一口すすり、味が薄いと言ってしょうゆを足した。観月は昨日、塩分を気にして少し薄めに作ったが、北斗は確かめもせずに二度、三度としょうゆ差しを傾けた。梅干しのおにぎりは弁当用の袋へ入れたものの、北斗は昼は外で食べると言って持っていかなかった。
それから一週間後、北斗の証券口座が開設された。最初に入金したのは、冬のボーナスから残っていた四十万円だった。観月が自室で決算資料を読んでいると、北斗はノックもせずに扉を開け、スマートフォンを突き出した。
「この会社、どう思う?」
「医療機器の会社ね。どうして買いたいの?」
「新製品が売れているって、会社の後輩が言ってた。株価も最近上がってる」
「決算書は読んだの?」
「そんなものは、あとでいいんだよ。上がっている株を買えば、さらに上がるだろ」
「理由を調べないで買うのは危ないわ」
北斗は観月の机に並ぶ三台のモニターを見回した。中央には複数の株価チャートが表示され、右の画面では売買板の数字が絶えず変化していた。北斗は画面の意味を尋ねず、こんなに機械を並べても大して稼げないだろうと笑った。
「お前は考えすぎなんだよ。投資は勢いだ。俺は仕事でも、決断が早いから係長になれたんだ」
「それなら、自分で判断すればいいと思うわ。ただし、最初は失っても困らない金額にしたほうがいいわよ」
「四十万円くらい、俺ならすぐ増やせる」
北斗はその日の午後、医療機器会社の株を買った。翌朝、海外企業との業務提携が発表され、株価は大きく上昇した。北斗は出勤前からスマートフォンを何度も確認し、含み益が増えるたびに食卓を指でたたいた。
「見ろよ。もう八万円も増えてるぞ」
「まだ売っていないなら、利益は確定していないわ」
「明日には十万を超える。こんなところで売るわけないだろ」
「買う前に、どこで売るか決めなかったの?」
「上がっている途中で売るのは馬鹿だ。行けるところまで行かせればいいんだよ」
北斗はコーヒーを飲み、白いワイシャツの袖をまくった。食卓には、観月が焼いたチーズトーストと、リンゴを半分ずつ切った皿が置かれている。北斗はリンゴの皮が厚いと文句を言いながらも、芯の近くまできれいに食べた。
株価は三日続けて上がった。北斗の含み益は十八万円を超え、元手の四十万円は画面上で五十八万円になった。北斗は椅子へ深く座り、何度も残高を更新した。
「三日で十八万だぞ。一か月続けたら百八十万だ。会社へ行くのが馬鹿らしくなるな」
「毎日同じだけ増えるものではないわ」
「お前は人が成功すると、すぐ水を差すよな。俺に才能があるのが気に入らないのか?」
「利益を確定していないから、まだ成功かどうか分からないと言っているの」
「今売ったら、これから増える分を損するだろ。そんなことも分からないのか」
北斗はスマートフォンの画面を撮影し、彩香へ送った。続けて、高級レストランの紹介サイトから、夜景の見える席の写真も送る。観月が台所から戻ると、北斗はすぐに画面を伏せた。
その夜、彩香は北斗から届いた残高の画像を見て、すぐに電話をかけてきた。北斗は寝室へ入ると、扉を閉めて声を低くした。観月は廊下で聞き耳を立てず、台所で翌日の米を研いだ。
「すごい。三日で十八万円も儲けたの?」
「俺には相場を見る才能があるんだよ。来年には会社を辞められるかもしれない」
「じゃあ、あのレストランへ連れていってくれる?」
「もちろん。今度の金曜日に予約するよ。タワーマンションの下見も、そのうち行こう」
「楽しみにしてる。奥さんには大丈夫なの?」
「あいつは何も分からないから平気だよ。株をやってると言ったら、危ないからやめろってさ。成功する人間の考えは、平凡な主婦には理解できないんだ」
実際には、観月はやめろとは言っていなかった。失っても困らない金額に抑え、売る場所を先に決めるよう勧めただけだった。北斗は都合の悪い忠告を削り、自分の成功を妬む妻の話へ作り替えていた。
週末、北斗は彩香と約束した高級レストランへ出かけた。観月には部長との会食だと説明し、白いシャツに光沢のある黒いネクタイを合わせた。首筋へ香水を吹きつけると、玄関には香辛料に似た強い匂いが残った。
「夕食はいらない。遅くなるから、先に寝てろ」
「分かったわ。車で行くの?」
「酒を飲むから電車だ。いちいち行き先まで聞くなよ」
「朝から雨が降っているから、傘を持ったほうがいいわ」
「子どもじゃないんだから、そのくらい分かってる」
北斗は傘を忘れたまま出ていった。観月が玄関まで追いかけて声をかけたが、廊下にはもう姿がなかった。傘立てには、北斗の黒い傘と、柄の曲がった観月の透明傘が並んでいた。
翌朝、北斗の買った株は上昇を止めていた。提携発表による買いが一巡し、利益を確定する売りが増えている。十八万円あった含み益は十二万円まで減ったが、北斗は一時的な下落だと言って売らなかった。
昼には含み益が七万円になった。北斗は何度も画面を更新し、仕事中にもかかわらず観月へ電話をかけてきた。背景では複合機が動く音と、誰かが書類を運ぶ声が聞こえた。
「おい、急に下がったぞ。何か悪いニュースが出たのか?」
「新しいニュースは出ていないわ。上がった分を売る人が増えたのだと思う」
「また上がるよな?」
「私には分からないわ。北斗が何を理由に買ったのか、その理由が変わっていないか確認したら?」
「後輩が上がると言ってたんだ。まだ持ってていいよな?」
「私に判断を任せないで。自分で決めて買ったのでしょう」
北斗は冷たい女だと言い、電話を切った。その日の終値では含み益が九万円まで戻ったため、機嫌を直した。自分の判断が正しかったと確信し、利益を確定しないまま次の銘柄を探し始めた。
交流サイトでは、「今月最大の仕込み場」「大口投資家が買い集めている」と繰り返し紹介される小型株があった。赤字が続き、売上も減っている会社だったが、新事業を開始するという発表だけで株価が上昇している。投稿者は高級車の写真と一緒に、近いうちに株価が三倍になると書いていた。
北斗は医療機器会社の株を売り、九万円の利益を確定した。最も増えたときの十八万円ではなかったが、元手は四十九万円になった。手数料や税金を考えず、三日で十八万円を稼いだという話だけを同僚や彩香に広めた。
「次は、この株で一気に増やす」
北斗は小型株へ四十九万円を入れた。現物株だけでは利益が少ないと考え、審査に通ったばかりの信用取引も利用する。預けた資金を保証金にして買いを膨らませ、口座に表示される余力の限度近くまで注文を出した。
その日の夜、観月は黄色いカーディガンを羽織り、食卓でブリの照り焼きを食べていた。付け合わせは千切りキャベツとトマトで、みそ汁には昨日の残りの豆腐を入れている。北斗は食事中もスマートフォンから目を離さず、小型株の値動きを追っていた。
「また買ったの?」
「今度は本命だ。大口が買い集めてるんだよ」
「会社の名前は?」
「教えても分からないだろ」
北斗はそう言いながら、スマートフォンを観月へ向けた。画面の上部に銘柄名と株価が表示され、下には売買板が並んでいた。観月は箸を置き、数秒だけ数字の動きを見た。
買い板には、数万株単位の厚い注文が何段も並んでいた。しかし、株価がその値段へ近づくたびに注文が消え、さらに下の価格へ移動している。大量の買い注文が株価を支えているように見せかけながら、実際には買うつもりがない動きだった。
「この会社の決算は確認した?」
「交流サイトでは、来月大きな発表があるって話だ」
「会社が正式に発表したの?」
「まだ発表されてないから、買う意味があるんだろ。発表されてから買ったら遅い」
「買い板の厚い注文も、株価が近づくと消えているわ。これだけを買い支えだと思わないほうがいい」
北斗は画面を自分のほうへ戻し、何度か指で更新した。厚い買い注文が再び現れると、やはり自分が正しいと言って笑った。観月はブリの小骨を皿の端へよけ、みそ汁を一口飲んだ。
「信用取引も使っているの?」
「使わないと効率が悪いからな。現物だけやってる奴は臆病者だ」
「信用取引は、預けた金額より大きな取引ができる代わりに、損失も大きくなるわ。一定以上下がれば、追加で保証金を求められることもある」
「追証だろ。それくらい知ってるよ」
「追証を入れられなければ、証券会社に決済されることもあるわ。どこまで下がったら売るのか、決めてある?」
「下がったら買い増せば、平均価格が安くなるだろ。そんなことも知らないのか」
「それは、会社の価値が変わっていない場合の話よ。下落の理由を確認せずに買い増せば、損失も増えるわ」
「自分が儲けられないからって、俺の邪魔をするなよ」
観月は黙ってブリの照り焼きを食べた。砂糖としょうゆのたれは少し煮詰まり、皮の部分が濃い味になっていた。北斗は妻から投資について教わることが我慢できず、助言を受けるたびに、自分の知識を否定されたような顔をした。
翌朝、小型株は寄り付きから上昇した。北斗は自分の判断が証明されたと言い、消費者金融ではなく銀行のカードローンから二十万円を借り、証券口座へ追加で入金した。その金も信用取引の保証金に回し、さらに買い増した。
「昨日、損をするみたいに言ってたよな。もう十二万円も増えてるぞ」
「売っていないなら、まだ確定した利益ではないわ」
「前も同じことを言ったな。負け惜しみか?」
「借りたお金を入れたの?」
「カードローンは金利が安いんだよ。株で増やして返せば、何の問題もない」
「借金で投資をするのはやめたほうがいいわ」
「俺の金をどう使おうが、俺の勝手だろ」
観月はそれ以上止めなかった。自分の口座から北斗の銘柄へ反対売買を仕掛けることも、北斗が損をするよう誘導することもしない。北斗が投資に失敗したとき、妻に勧められたと言い出せないよう、助言した日時と内容だけをノートへ記録した。
『五月十六日、午後八時十二分。信用取引と追証の危険を説明。損切り価格を決めるよう助言。北斗は拒否』
『五月十七日、午前七時四十分。借入金による投資をやめるよう助言。北斗は拒否し、二十万円を追加』
観月はノートを閉じ、鍵のかかる引き出しへ入れた。机の横には、新居候補の間取り図と引っ越し費用の見積書が置かれている。北斗が小型株の値上がりに夢中になっている間に、観月は内覧と契約の準備を進めていた。
その夜、北斗は帰宅すると、コンビニで買った高価なワインを食卓へ置いた。観月が作った夕食は、鶏むね肉の塩焼きとモヤシのナムルだった。北斗はワインには合わないと文句を言いながら、鶏肉を三切れ続けて口へ運んだ。
「そのうち、こんな安い肉を食わなくてもよくなるぞ」
「そう」
「俺が一億稼いだら、今の会社も辞める。タワーマンションを買って、家事代行も雇ってやるよ」
「一億円まで、あといくら必要なの?」
「今は七十万くらいだけど、倍を繰り返せばすぐだ。七十万が百四十万、次は二百八十万、その次は五百六十万だろ」
「倍になる前に、半分になることは考えないの?」
「だから、お前は夢がないんだよ。勝てる人間は、最初から負けることなんか考えない」
北斗はワイングラスを掲げ、まだ確定していない利益に乾杯した。観月は水の入ったコップへ口をつけ、向かい側の男を見た。最初の銘柄が偶然上がったことで、北斗は自分を相場の天才だと思い始めていた。
相場は、北斗の才能を認めたわけではない。ただ一度だけ、追い風が吹いただけだった。しかし北斗はその風を自分の力で起こしたと信じ、借りた金まで帆へ注ぎ込んでいる。
観月は食べ残されたモヤシを保存容器へ移し、明日の朝食に回すことにした。北斗を破滅させるための罠を、観月が用意する必要はなかった。北斗の足元にはすでに、彼自身の欲と慢心が掘った穴が開いていた。




